第46話 Aランク冒険者、清水の迷宮へ来る
清水の迷宮、第1層。
朝の水音は、いつも通りだった。
清水の間から流れる水。
木杯に注がれる音。
酒場の鍋が煮える音。
講習席でメリダさんが木板を叩く音。
最近はそこに、冒険者の足音と、仮受付の紙をめくる音と、商人の相談声が加わっている。
つまり、まあ。
にぎやかだ。
「第5層講習は、昼からだよ!」
「第2層の泥歩きはこっち!」
「護衛依頼の相談は仮受付へ!」
「宿泊室の使用は受付確認後です!」
「勝手に寝台へ行くな!」
「誰だもう寝てる奴は!」
増築したばかりの酒場スペースは、さっそく人で埋まっていた。
簡易宿泊室は、正式運用前から予約希望が入っている。
講習専用席では、メリダさんが若手たちを座らせ、バレスさんが盾の角度を見せ、リーネさんが天井を見る位置を指している。
増やして正解だった。
というか、増やさなかったらもう床が悲鳴を上げていた。
「人、増えたなあ」
『増えたわね』
黒い水膜の内側で、俺は第1層を見ていた。
隣にはヴェルティア。
彼女は腕を組み、どこか満足げに水膜を眺めている。
「これでAランクが来るんだよな」
『ええ』
「三人だっけ」
『文書では、三人ね』
「Aランク三人……」
俺は少しだけ想像する。
クレスがBランクであの強さだ。
その上のAランクが三人。
どんな化け物が来るのか。
いや、人間に化け物は失礼か。
でも迷宮視点だと、かなり強い生き物が群れで来るようなものだ。
「大丈夫かな」
『何が?』
「第1層の床」
『そこなの?』
「いや、強い人って装備も重そうだし」
『貴方、見る場所がおかしいわ』
そんな話をしていた時だった。
水膜に、外から来る馬車が映った。
一台。
いや、二台。
一台は人を乗せる馬車。
もう一台は、荷と装備を載せた馬車。
村の入口で、村人たちが足を止める。
冒険者たちも顔を上げる。
馬車の荷台には、巨大な鎧と、盾と、戦槌が見えた。
「……でかくない?」
『でかいわね』
「壁?」
『人間よ』
「歩く城門みたいなの来たんだけど」
『Aランクなのでしょう』
「Aランクって、床に優しくないな」
馬車が止まる。
最初に降りてきたのは、少年だった。
軽装の剣士。
十六歳くらい。
目が明るい。
周囲を見る前から、もう前へ行きたくて仕方ないという顔をしている。
次に降りたのは、若い女性。
黒に近い髪をまとめ、軽い防具と杖を身につけている。
表情は硬い。
目だけが静かに周囲を見ている。
最後に、荷台から巨大な鎧の老騎士が降りた。
がしゃん、と音がした。
村人が一歩下がった。
冒険者も少し下がった。
馬も下がった。
「やっぱり床が心配」
『まだ外よ』
老騎士は豪快に笑った。
声だけで空気が揺れる。
「はっはっは! ここが清水の迷宮か!」
少年が目を輝かせる。
「ここにクレスさんが……!」
女性がすぐに言った。
「まず受付よ。勝手に入らない」
「分かってるって!」
「返事が軽いわ」
「分かってます!」
「声が大きい」
そのやり取りだけで、なんとなく分かった。
少年は火。
女性は水。
老騎士は岩。
濃い。
「Aランク、濃すぎない?」
『濃いわね』
俺とヴェルティアの意見は一致した。
第1層の入口に、三人が入ってきた。
その瞬間、酒場の空気が変わった。
まず、巨大な鎧に目が行く。
ラハル。
Aランク冒険者の老騎士。
城門が歩いてきたような圧がある。
次に、冷静な女性術士。
ティア。
Aランク冒険者。
回復、補助、防御、戦闘支援に長けた術者だと、グラントさんが昨日言っていた。
そして、若すぎるAランク。
カイル。
十六歳。
未熟なところは目立つが、討伐依頼の達成数、格上相手への機転、戦場での救出実績でAランクに届いた少年剣士。
その三人が、仮受付の前に立った。
仮受付の職員が背筋を伸ばす。
「プロンテラ冒険者ギルドより派遣されたAランク冒険者三名、確認しました」
周囲がざわつく。
「三人ともAランク?」
「あの若いのも?」
「カイルって、あの救出屋か?」
「無茶して突っ込むけど、助けられた奴も多いって聞くぞ」
「ティアは支援術士だろ。前線を崩さない人だ」
「ラハルは有名すぎる」
「鎧が本体じゃないのか?」
「聞こえたら怒られるぞ」
カイルは周囲の声をあまり気にしていなかった。
というより、別のものを探していた。
目が第1層の中を走る。
酒場。
講習席。
掲示板。
冒険者たち。
そして。
「クレスさん!」
見つけた瞬間、カイルが駆け出した。
速い。
本当に、考えるより先に体が動くタイプだ。
ティアが低く言う。
「走らない」
「すみません!」
返事だけはした。
だが足は止まっていない。
クレスは酒場の横で、第5層の記録板を確認していた。
カイルが目の前で止まる。
「クレスさん!」
クレスは顔を上げた。
少しだけ目を細める。
「カイルか」
「はい! 来ました!」
「そうか」
短い。
淡々としている。
だが、カイルの顔はそれだけで明るくなった。
周囲がまたざわつく。
「あのカイルが敬語?」
「クレスに?」
「めちゃくちゃ慕ってないか?」
「AランクがBランクにあの態度?」
カイルは気にしない。
むしろ、こらえきれないように言った。
「クレスさん、なんでAランクに上がらないんですか!」
酒場が止まった。
いきなりだった。
ティアが目を閉じる。
カイルは止まらない。
「絶対おかしいです! 俺よりも強いのに!!」
その声が、第1層に響いた。
酒場にいた冒険者たちが、いっせいに反応する。
「今、何て言った?」
「俺より強いって言ったか?」
「カイルが?」
「Aランクのカイルが、クレスを?」
「でもクレスはBランクだろ?」
「いや、強いのは知ってたけど」
「Aランクより上なのか?」
クレスは、いつものように表情を変えなかった。
「必要がない」
「あります!」
カイルは即答した。
「クレスさんは、もっと上に行く人です! Bランクのままなんて絶対変です!」
「今はBでいい」
「よくないです!」
カイルの声に熱が入る。
その熱は、怒りに近い。
でも、怒っている相手はクレスではない。
クレスが正しく見られていないことに怒っている。
自分が憧れた背中が、低く置かれているように感じている。
「カイル」
ティアの声が落ちた。
「その話は今ここですることではないわ」
「でも!」
「今ではない」
「……はい」
カイルは悔しそうに口を閉じた。
だが、周囲のざわめきは収まらない。
その時、カティアが壁際から歩いてきた。
「うるせえな」
カイルが振り向く。
「カティアさん」
「カティアでいい。さん付けされると背中がかゆい」
カティアはクレスをちらっと見た。
クレスは何も言わない。
カティアはため息をつき、周囲へ向けて言った。
「クレスは、実力、判断、依頼達成率だけなら、とっくにAへ上がれる」
酒場が、また揺れた。
「とっくに?」
「本当に?」
「じゃあ、なんでBなんだよ」
カティアは腕を組む。
「本人がBのままでいる。そうしたい理由があるんだろ」
「理由?」
「知らねえ」
「知らないのか?」
「本人が言わねえ。だから聞かねえ」
その言葉は、妙に重かった。
カティアは普段、ずけずけ言う。
噛みつく。
からかう。
だが、そこには踏み込まない。
クレスが言わないことを、聞かない。
その距離感が、二人の関係を少しだけ見せていた。
カイルは納得できない顔をする。
「でも」
カティアが見る。
「でも、じゃねえよ。本人が決めてる。お前が怒ることじゃない」
「……はい」
カイルは、クレス相手ではないのに、なぜか素直に頷いた。
ティアが少しだけ感心した顔をする。
周囲の冒険者たちは、まだざわついていた。
「クレスって、そんなに上だったのか」
「Bランクだから、上澄みのBだとは思ってたけど」
「本人希望で残るって、そんなことあるのか」
「Aに上がれるのに?」
「Bのままでやりたいことって何だよ」
クレスは、その全部を流していた。
記録板を閉じる。
ただ、短く言う。
「第5層の確認を始める前に、手順がある」
それで話は切り替わった。
クレスは切り替えた。
カイルはまだ何か言いたそうだったが、ティアが視線だけで止めた。
その時、巨大な鎧が近づいてきた。
「おお、カティア!」
ラハルの声だ。
カティアの肩が、ぴくっと跳ねた。
周囲が見逃さなかった。
「今、カティアが固まった?」
「固まったな」
「え、誰だあの爺さん」
「強いぞ。別の意味で強いぞ」
ラハルは大きな歩幅で近づき、豪快に笑った。
「まだ噛みついておるか!」
カティアは普段なら噛みつき返す。
相手が誰でも、大体噛みつく。
だが、今回は違った。
「……ラハル爺」
声が小さい。
弱い。
酒場の冒険者たちが、さらにざわついた。
「あのカティアが大人しい」
「見たか今の」
「伝説では?」
ラハルはカティアの頭から足元まで見る。
「飯は食っておるか」
「食ってる」
「無茶はしておらんか」
「してねえ」
クレスが少しだけカティアを見る。
カティアが目を逸らした。
「してねえよ」
ラハルは笑う。
「ちゃんと寝ておるか」
「寝てる」
「小さい頃から、寝ずに動こうとする癖があったからな!」
「昔の話をするな」
「はっはっは! よいではないか!」
カティアは嫌そうにしている。
だが、強く出られない。
それだけで酒場の空気が妙な方向へ明るくなった。
メリダが講習席から歩いてくる。
ティアはその動きに気づき、静かに頭を下げた。
「あなたがメリダね」
「そうだよ。あんたがティアかい」
「ええ」
ティアは講習席と条件板を見る。
「人を帰すための講習をしているのね」
メリダは片眉を上げた。
「冷静な子だね。見ただけでそこを見るのかい」
「奥へ行かせるためだけの場所なら、条件板に撤退判断は書かないわ」
メリダは少し笑った。
「いいね。走らせない側かい」
ティアはカイルを見た。
「ええ。走る人がいるので」
「なんでオレを見るんだよ」
カイルが言う。
メリダもカイルを見る。
「若いAランクだね」
「はい。カイルです」
「走る目をしてる」
「え?」
「ランクじゃなくて足の話だよ。奥で勝手に走る足か、戻る足か」
カイルは少し言葉に詰まった。
ティアが静かに言う。
「ほら」
「ほらって何だよ」
「見抜かれているわ」
「……走りません」
メリダは頷く。
「なら、よし」
クレスが第3層の記録板を出した。
「第5層確認の前に、第3層を踏破してもらう」
カイルが首をかしげる。
「第3層?」
「ああ。第4層入口は、第3層の帰還記録がなければ通れない」
ティアがすぐに理解する。
「迷宮側が記録で通行を判断しているのね」
「そうだ」
ラハルが大盾を鳴らす。
「ならば、まずは手順を踏むか!」
カイルが目を輝かせる。
「じゃあ、今から行きます!」
「説明を受けてからよ」
ティアが即座に止める。
「はい」
クレスも言う。
「第3層は、戻れない構造だ。帰還地点まで進む必要がある。報酬は紅肌の雫。肌や顔色に効果がある。戦闘強化ではない」
ティアの指が、一瞬だけ動いた。
誰も気づかないほど小さい反応。
だが、カイルは気づいた。
「ティア、今ちょっと」
「何でもないわ」
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めたの」
ラハルが豪快に笑う。
「よいではないか! 効果確認は大事な務めよ!」
「ラハル様」
ティアの声が少し冷える。
「うむ、黙ろう」
巨大な鎧が素直に黙った。
クレスは淡々と続ける。
「第3層は藻の迷路だ。油断すると足元を取られる。進路が変わる。戻ろうとするほど迷いやすい。Aランクでも確認は怠るな」
カイルが真剣に頷く。
「はい!」
ティアも頷く。
「了解したわ」
ラハルは盾を構えるように軽く動かした。
「迷路であろうと、仲間の前に立つだけだ」
メリダがすかさず言う。
「迷路で前に立つなら、後ろがついてきてるかも見な」
ラハルが笑う。
「よい説教だ!」
「説教じゃないよ。帰るための確認だ」
「はっはっは! ますますよい!」
こうして、Aランク三人は第3層へ入ることになった。
クレスは同行しない。
カティアも同行しない。
目的は実力確認ではない。
第4層へ入るための帰還記録を得ること。
それと、三人がこの迷宮の構造をどう見るかの確認だった。
黒い水膜の内側で、俺は第3層へ入る三人を見ていた。
「Aランク三人で第3層か」
『楽に進むでしょうね』
「やっぱり?」
『当然よ。第3層は、本格迷宮の入口ではあるけれど、彼らにとっては危険を測る層ね』
「でも戻れない構造はあるぞ」
『だからこそ見る価値があるわ』
第3層。
藻の迷路。
湿った通路。
戻ろうとすると迷いやすい構造。
足元に絡む藻。
ぬるりとした壁。
報酬は紅肌の雫。
BランクやCランクなら慎重に行く場所だ。
だが、Aランク三人の動きは違った。
カイルが前へ出る。
速い。
ただし、ティアの声が飛ぶ。
「三歩先で止まりなさい」
「分かってる!」
「四歩目に入っているわ」
「戻ります!」
カイルは素直に一歩戻った。
勢いはある。
だが、言われれば止まる。
少なくとも今は。
ティアは壁、床、藻の流れを見ている。
「戻るほど景色が変わるのね。精神的に焦らせる構造だわ」
ラハルは盾を構え、後ろを見ている。
「後ろが閉じる迷路か。面白い!」
「面白がらないでください」
「無論だ!」
「声が響きます」
「む、すまん!」
スライムが出た。
藻の陰から、ぬるりと。
カイルが一歩で間合いを詰める。
剣が閃く。
速い。
しかも、ただ速いだけではない。
相手が跳ねる前に、跳ねる先を切っている。
若い。
軽い。
だが、戦闘勘が鋭い。
「すご」
俺は思わず声を漏らした。
『Aランクよ』
「未熟って聞いてたけど」
『未熟と弱いは違うわ』
「それ、めちゃくちゃ納得した」
カイルは次々に魔物を片づけていく。
ただし、奥へ行きすぎるとティアに止められる。
ティアは補助魔法で足場の滑りを軽く抑え、ラハルの盾に防御の光を薄く乗せる。
ラハルは通路の曲がり角で、まるで扉のように立つ。
敵が横から来ても、盾で潰す。
進む時は、城門がそのまま前へ押し出されるようだ。
苦戦はなかった。
ない。
ただ、三人とも油断はしていない。
それがAランクなのだろう。
楽に進んでいるのに、確認をやめない。
カイルだけは時々足が先に行くが、そのたびにティアが短く止める。
ラハルは笑いながらも、後ろの道を見ている。
やがて三人は、第3層の報酬部屋へ着いた。
紅肌の雫が、三つ現れる。
小瓶の中に、赤みを帯びた透明な雫。
カイルが覗き込む。
「これが紅肌の雫か」
ティアが一本を手に取る。
「肌や顔色への効果。傷治療なし。戦闘強化なし」
「使うのか?」
カイルが聞く。
ティアは一瞬だけ止まった。
それから、平然と答える。
「効果確認よ」
瓶を開ける。
そして、自分で使った。
カイルが目を丸くする。
「おお」
「何?」
「いや、思い切りいいなって」
「確認だから」
「嬉しそう」
「気のせいよ」
ティアの頬に、ほんの少し血色が戻る。
長旅と仕事で硬かった顔色が、わずかに整った。
肌のくすみが薄くなる。
本人は無表情を保っている。
だが、指先が頬に触れかけて、途中で止まった。
「……確認完了」
カイルがにやっとする。
「やっぱり嬉しいんだ」
「カイル」
「はい、黙ります」
ラハルは自分の雫を手に取った。
「ふむ。わしには、あまり似合わぬ報酬だな!」
カイルが言う。
「ラハルさんが使ってもいいんじゃないですか?」
「はっはっは! この老いぼれの顔色を良くして、誰が喜ぶ!」
ティアが静かに言う。
「疲労回復ではないので、ラハル様の無理は消えません」
「手厳しい!」
ラハルは豪快に笑い、瓶をしまった。
「これは、土産にする」
「土産?」
「うむ」
ラハルの声が少し柔らかくなる。
「あの噛みつく短剣へな」
カイルは一瞬考えてから言った。
「カティアさん?」
「そうだ!」
ラハルは満足そうに頷いた。
「昔から、傷や汚れを気にせず走り回る娘だった。たまにはこういうものを受け取るがよい」
ティアは少しだけ目を細めた。
「受け取るでしょうか」
「受け取らせる!」
「強引ですね」
「父親役とは、時に強引なものよ!」
「父親役なのですか」
「本人が認めずともな!」
ラハルは胸を張った。
カイルは笑った。
三人は帰還路へ進む。
そして、第1層へ戻った。
第1層に三人が戻ると、酒場がざわついた。
「早い!」
「もう戻ったのか!」
「第3層だぞ?」
「苦戦してないな」
「やっぱりAランクか」
カイルは少し得意げに胸を張りかけた。
ティアが横目で見る。
カイルは胸を張るのをやめた。
「……確認してきました」
ティアが小さく頷いた。
クレスが三人を見る。
「帰還記録はついた」
仮受付の職員が迷宮側の反応を確認し、頷く。
「第3層踏破、帰還記録あり。第4層入口通行条件を満たしました」
酒場がまたざわつく。
ティアは紅肌の雫の効果を隠す気はないらしく、淡々と報告した。
「紅肌の雫を一本使用。顔色、肌のくすみ、表面の整いを確認。傷、疲労、魔力回復はなし」
女性冒険者たちが反応した。
「使った!」
「Aランクの人が自分で使った!」
「やっぱり効くんだ」
「顔色、確かにいい」
「綺麗……」
ティアは少しだけ居心地悪そうにした。
「効果確認よ」
カイルが小声で言う。
「嬉しそうだった」
「カイル」
「すみません」
ラハルは大きな手で、自分の紅肌の雫を取り出した。
「カティア!」
カティアが嫌な予感をした顔で振り向く。
「何だよ」
「これをやろう!」
ラハルは紅肌の雫を差し出した。
カティアは固まった。
周囲の女性冒険者たちが、一斉に息を飲む。
「え」
「紅肌の雫を?」
「カティアに?」
カティアは眉を寄せる。
「いらねえよ」
「受け取れ!」
「いや、だから」
「受け取れ!」
「声で押すな!」
ラハルは笑う。
「昔から、おぬしは傷も泥も気にせず走り回る。だが、たまにはこういうものも受け取れ」
「子供扱いすんな」
「子供扱いではない。大事にしておるだけだ」
カティアの言葉が止まった。
酒場の空気が、少しだけ柔らかくなる。
カティアは横を向く。
「……別に、いらねえって言ってんだろ」
ラハルは瓶を引っ込めない。
「なら、わしが困る」
「何でだよ」
「渡したいからだ」
「理由になってねえ」
「なる!」
カティアはしばらく瓶を睨んでいた。
それから、ひったくるように受け取った。
「……もらっとく」
ラハルが満足そうに笑う。
「うむ!」
周囲がざわつく。
「あのカティアが受け取った」
「ラハル殿、強い」
「別方向でAランク」
カティアは真っ赤ではない。
だが、耳が少し赤い。
「見るな」
女性冒険者たちが目を逸らす。
でも、にやにやしている。
カイルが小声でティアに言った。
「カティアさん、可愛いところあるんだな」
ティアが低く返す。
「本人の前で言わない方がいいわ」
「言ったら?」
「刺される」
「やめとく」
クレスはそのやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
笑ったようにも見えた。
ほんの少しだけだが。
その後、カイルは自分の紅肌の雫をどうするか悩んでいた。
「これ、売るべきかな。使うべきかな」
ティアが言う。
「使う理由があるなら使えばいい。なければ保管か売却ね」
「ティアは使ったじゃん」
「確認よ」
「確認かあ」
カイルは瓶を光に透かす。
「オレは、今はいいや。あとで考える」
メリダが横から言う。
「それでいい。報酬を見てすぐ使うか売るか決める必要はないよ。欲で手が動く時ほど、一度しまいな」
カイルは素直に頷いた。
「はい」
メリダは少し笑う。
「いい返事だね」
「ティアに何回も言われてるんで」
「それは効きそうだ」
ティアは否定しなかった。
黒い水膜の内側で、俺は全部見ていた。
「Aランク、三層が散歩みたいだったな」
『散歩ではないわ。確認よ』
「ティアさんみたいなこと言う」
『正しいもの』
「ヴェル、ティアさんのこと気に入った?」
『冷静な術者は嫌いではないわ』
「紅肌の雫、自分で使ってたな」
『効果確認よ』
「嬉しそうだったけど」
『確認よ』
「ヴェルもそっち側か」
ヴェルティアは答えなかった。
ちょっとだけ口元が動いた気がする。
表示が浮かぶ。
【Aランク冒険者三名の到着】
【上位冒険者の関心、警戒、評価欲、期待を獲得】
【クレスのAランク相当認識が拡大】
【Bランク残留理由への関心を獲得】
【獲得DP:1532】
【現在DP:8836】
続けて、文字が揺れる。
【Aランク冒険者三名、第3層踏破】
【第4層通行条件を満たしました】
【紅肌の雫の再評価を確認】
【使用欲、譲渡欲、羨望、照れ、信頼を獲得】
【獲得DP:1288】
【現在DP:10124】
「一気に増えたな」
『Aランクが三人動けば、周囲も動くもの』
「クレスの話も効いたな」
『本人は気にしていないようだけれど』
「気にしてないのか、気にしてない顔が上手いのか」
『後者かもしれないわね』
俺は黒い水膜を見る。
第1層では、クレスが第4層の記録板を開いていた。
カイルはその横で真剣に見ている。
ティアは条件板を読み直している。
ラハルはカティアに渡した紅肌の雫を受け取らせて満足そうだ。
カティアは瓶を懐にしまい、周囲を睨んでいる。
でも、捨てない。
返さない。
ちゃんとしまっている。
「いいな、あれ」
『ええ』
「ラハルさん、強いな」
『戦闘以外でもね』
俺は頷いた。
Aランク三人は、清水の迷宮の浅い層を越えた。
だが、彼らが見に来た本当の姿は、まだ湯気の向こうにある。
クレスが静かに言った。
「第3層の帰還記録はついた。次は第4層だ」
カイルの目が輝く。
「はい!」
ティアは冷静に頷く。
「次からが、本来の確認ね」
ラハルが盾を鳴らした。
「門番とやらに一歩近づいたな!」
清水の迷宮は、Aランク三人を迎え入れた。
水はまだ静かに流れている。
だが、その奥ではもう、次の湯気が立ち上がり始めていた。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
Aランク三人の到着と、第3層踏破でした。
クレスのランクに触れつつ、まずは第4層へ進むための記録作りです。
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