第43話 貴族護衛依頼、来る
数日後。
清水の迷宮、第1層。
朝の酒場は、いつも通り騒がしかった。
水を飲む冒険者。
汁物をかき込む若手。
第2層講習の席へ押し込まれる新人。
第5層講習の板を前に、真剣な顔で話を聞くCランクたち。
そして、湯溜まりの話を小声でしている女性冒険者たち。
「ノーラの手、まだ綺麗だったよね」
「リーネさんの髪もすごかった」
「メリダ先生まで変わってたし」
「先生は先生で、あれ見せられると説得力がすごい」
「第4層、越えなきゃ……」
その横で、男冒険者たちも小さく話している。
「バレスの手、盾持ちの手じゃなかったよな」
「いや、盾持ちの手なんだけど、荒れが落ちてた」
「俺も行きたい」
「声を小さくしろ。女性陣に聞こえる」
「なんで俺らがこそこそしてるんだ」
「怖いからだ」
「それはそう」
カティアがそれを聞いて、呆れた顔をした。
「湯の前に、まず第5層で死なねえ練習しろ」
メリダが講習席の前で木板を叩く。
「はい、そこ。湯の話は後。今日はスチームウルフの横回りと、逃げるロックエイプを追わない話だよ」
若手たちが座る。
Cランク冒険者も数人、真剣な顔で座る。
前に立つのはメリダだけではない。
バレスが盾を持って立っている。
リーネが壁際で天井を見る位置を示している。
ノーラは補助板を持ち、後衛がどこで足を止めやすいかを書いている。
第5層講習は、もう形になり始めていた。
俺は黒い水膜の内側で、それを見ていた。
「講習っぽくなってきたな」
『講習でしょう』
ヴェルティアが隣で言う。
「いや、ちゃんと人が増えてるというかさ。メリダさんだけじゃなくて、盾役、弓役、補助役がいる」
『必要な者が増えただけよ』
「人間の施設みたいだな」
『迷宮よ』
「はい」
その時、第1層の入口側がざわついた。
水膜に、外から入ってくる馬車の姿が映る。
村の荷車ではない。
商人の小型馬車だ。
車体には、プロンテラ商業ギルドの印がある。
仮受付の職員が顔を上げた。
オルド村長が、嫌な予感をした顔で立ち上がる。
グラントは、なぜかすでに笑っていた。
「来ましたね」
「来た、とは何がだ」
オルド村長の声が低い。
グラントは穏やかに答える。
「紙です」
「紙で済む話か」
「最初は紙です」
「最初は?」
「ええ。最初は」
村長の眉間に、深い皺が刻まれた。
馬車から降りてきたのは、プロンテラ商業ギルドの使者だった。
灰色の上着。
丁寧に整えられた髪。
革筒に入った文書。
冒険者というより、商人側の人間だ。
彼は仮受付の前で一礼した。
「プロンテラ商業ギルドより、清水の迷宮仮受付宛てに文書をお持ちしました」
酒場の空気が、ぴんと張った。
水の音だけが聞こえる。
仮受付の職員が文書を受け取り、封を確認する。
「商業ギルド印、確認しました」
グラントが隣で頷く。
「正式なものです」
オルド村長が額に手を当てる。
「聞く前から胃が痛い」
カティアが笑う。
「早いな」
クレスは黙っている。
メリダは講習席の前で腕を組んだ。
「読んでみな」
仮受付の職員が文書を開いた。
そして、少しだけ顔を強張らせる。
「第5層湯溜まり到達護衛依頼に関する、受け入れ条件確認のお願い、です」
酒場が揺れた。
「来た!」
「本当に来たぞ!」
「護衛依頼だ!」
「第5層までか!?」
「貴族か!?」
「商人か!?」
「両方じゃねえの!?」
仮受付の職員が続ける。
「依頼希望者、複数。内訳、プロンテラ有力商家二件、下級貴族家一件、王都筋紹介予定一件。正式依頼の前に、清水の迷宮側の受け入れ条件を確認したいとのことです」
オルド村長が机に手をついた。
「王都筋って聞こえたか?」
グラントがにこやかに答える。
「聞こえました」
「聞き間違いではないか」
「違いますね」
「そうか」
村長は深く息を吸った。
「帰ってくれと言いたい」
「お気持ちは分かります」
「言っていいか」
「まだ早いです」
メリダが講習席から歩いてきた。
短く切った髪が揺れる。
左頬の傷が、いつもよりはっきり見えた。
「受けるかどうかの前に、条件だね」
クレスも頷く。
「そうだ」
カティアが文書を覗き込む。
「どうせ、金は出すから湯まで連れて行けって話だろ」
仮受付の職員が気まずそうに言う。
「文面は丁寧ですが、要約すると近いです」
「ほらな」
使者が慌てて頭を下げる。
「失礼ながら、依頼希望者はいずれも十分な報酬を用意されております。もちろん、冒険者の危険に見合う額を」
その言葉で、冒険者たちの一部が反応した。
十分な報酬。
危険に見合う額。
甘い言葉だ。
金貨の音が聞こえるような言葉だ。
だが、メリダが木板で机を叩いた。
ぱん、と乾いた音が響く。
「金額を見る前に、死亡条件を見な」
冒険者たちが黙る。
メリダは使者を見る。
「第5層は、湯に浸かる場所じゃないよ。湯に辿り着くまでに、狼が横から来る。蝙蝠が上から落ちる。蟹が武器を挟む。猿が石を投げる。蜥蜴が熱水を撃つ。最後にでかい門番が立ってる」
使者は喉を鳴らした。
「報告書で、確認しております」
「紙で読んだ怖さと、前から来る怖さは違うよ」
メリダの声は低い。
「貴族だろうが商人だろうが、迷宮で足を止めたら同じ死体だ」
酒場の空気が、また締まった。
クレスが続ける。
「金で門番は弱くならない。撤退判断に従えない依頼は受けない」
使者は少し固まった。
「撤退判断、ですか」
「ああ」
「依頼者が到達を強く望んだ場合でも?」
「戻る」
クレスの答えは短かった。
カティアが腕を組む。
「湯に入りたいなら、まず命を湯気にするな」
ダリオが壁際で吹き出しかけた。
シェラが無表情で水を飲んだ。
使者は何か言おうとして、口を閉じる。
たぶん、プロンテラでは違う言い方をされてきたのだろう。
高額を出す。
だから確実に。
できるだけ奥まで。
だが、ここは清水の迷宮だ。
金貨を積んでも、スチームウルフは遠慮しない。
ホットスプリングガーディアンは貴族の家名を知らない。
グラントが一歩前へ出た。
「条件を作りましょう」
商人の声だった。
だが、冒険者側を見る目もある。
「まず、護衛依頼は成功報酬だけでは受けません」
冒険者たちがざわつく。
「どういう意味だ?」
「湯まで連れて行けなかったら失敗だろ?」
グラントは首を振る。
「いいえ。護衛の目的は、依頼者を生きて戻すことです。湯溜まり到達は目的の一つですが、撤退して生還したなら護衛は成立しています」
メリダが頷く。
「そうだね」
グラントは文書の余白に条件を書き始める。
「依頼料は、拘束料、危険手当、講習確認料、護衛人数分の基本報酬。そして到達時の追加報酬。撤退時にも基本報酬と危険手当は支払う」
男冒険者が目を丸くした。
「撤退しても支払いあり?」
グラントが微笑む。
「そうしなければ、護衛が無理をします」
クレスが頷く。
「いい条件だ」
カティアも短く言う。
「金のために死ぬ馬鹿が減る」
メリダが補足する。
「金のために依頼人を死なせる馬鹿もね」
使者は慌てて書き留めた。
「承知しました。拘束料、危険手当、撤退時支払いあり」
オルド村長が椅子に座る。
「他にもあるだろう」
「山ほどあります」
グラントは楽しそうに言った。
「楽しそうに言うな」
「仕事ですので」
「もっと嫌そうにやってくれ」
「難しいですね」
仮受付の職員が新しい板を出す。
マイラも記録板を抱えて近づいた。
「条件を整理します」
メリダが言う。
「書きな。まず、護衛側」
マイラが筆を構える。
「護衛側、最低条件。第4層突破済み。第5層講習受講済み。門番記録確認済み。撤退判断に従えること」
クレスが続ける。
「最低でも、前衛、後衛、視界確認、治療補助を含む編成。単独護衛不可」
バレスが盾を持ったまま言う。
「盾役か、押し返せる前衛は必須だ。門番の腕を受けるな。流せる者がいる」
リーネが続ける。
「上を見られる者も必要。蝙蝠と猿を見落とすと後衛が崩れる」
ノーラが少し緊張しながら言う。
「補助役は、依頼者に張りつきすぎないこと。張りつくと一緒に止まります。少し後ろから退路を見る方がいいです」
メリダが満足そうに頷く。
「いいね。次、依頼者側」
マイラの筆が走る。
「依頼者側、事前説明必須。勝手な行動禁止。護衛指示に従うこと。撤退命令に拒否しないこと。走らないこと。魔物、報酬、湯溜まりに勝手に近づかないこと」
カティアが言う。
「あと、余計な荷物を持ち込むな。香水もやめろ。第4層で匂いが混ざる」
グラントが頷く。
「貴族向けに言い換えます。強い香料、過度な装飾品、長い裾の衣服、歩行を妨げる靴は禁止」
女性冒険者たちが少しざわついた。
「貴族の服って大変そう」
「湯に入る前に転びそう」
「でも着替えは必要だよね」
「湯上がりの布も」
「髪を拭く布も」
「櫛もいる?」
カティアが睨む。
「そこは後だ」
「大事です!」
「後だ」
メリダが木板を叩く。
「入浴の条件も書きな」
マイラが頷く。
「湯溜まり滞在時間制限。男女別入浴。入浴中も見張り必須。見張り役は湯に入らない。交代制。湯を持ち帰る行為は未確認のため禁止、または仮受付確認後」
使者が顔を上げる。
「湯の持ち帰りは、やはり難しいのでしょうか」
クレスが答える。
「未確認だ」
カティアが続ける。
「でも持ち帰れると思って桶を抱えて奥へ行く奴が出るなら、禁止でいい」
メリダも頷いた。
「湯を持って走る貴族なんか、見たくないね」
酒場の何人かが吹き出した。
使者は真面目に書き留める。
「湯の持ち帰り、当面禁止」
グラントが柔らかく言う。
「依頼者には、現地での入浴のみと伝えましょう」
「分かりました」
オルド村長が重い声で言った。
「村の受け入れも問題だ」
その言葉で、また空気が重くなる。
「馬車置き場。従者の待機場所。宿泊。食事。警備。貴族同士の順番争い。全部、村に来る」
グラントが笑顔で頷く。
「はい」
「はいじゃない」
「増えます」
「言うな」
「宿泊需要、飲食需要、布や道具の需要も増えます」
「胃が痛い」
「良い胃薬を探しましょう」
「そういう話ではない」
仮受付の職員が小さく手を上げた。
「受付順も必要です。依頼が重なると混乱します」
グラントがすぐに反応する。
「予約制ですね。護衛側の空き、講習修了状況、宿泊空き、天候、迷宮混雑を確認して日を決める」
カティアが顔をしかめる。
「迷宮に予約って何だよ」
グラントが微笑む。
「迷宮に入る人間側の予約です」
「余計面倒だな」
「面倒は商売になります」
「それ、村長の前で言うな」
オルド村長はもう聞こえないふりをしていた。
使者が、おずおずと革筒から別の紙を出した。
「なお、最初の依頼候補として、プロンテラのエルネスタ商会より、奥方の第5層湯溜まり到達希望が出ております」
酒場が、またざわついた。
「もう候補がいるのか」
「早い!」
「奥方ってことは、護衛対象は女性か」
「女性の湯溜まり護衛……」
女性冒険者たちの目が光る。
「女性護衛、必要じゃない?」
「入浴中の見張りは女性がいた方がいいよね」
「護衛側も身だしなみ必要では?」
「貴族の奥方に見られるなら、髪ぐちゃぐちゃはまずいよね」
「じゃあ護衛前に一回湯溜まりへ」
「順番が逆だろ!」
カティアが怒鳴る。
だが、女性陣は止まらない。
「でも、貴族の奥方の前に臭いとまずいです!」
「手荒れも!」
「爪も!」
「護衛の印象も大事です!」
男冒険者たちも、そっと頷き始める。
「それは男も同じでは?」
「貴族護衛で臭いとまずいのでは?」
「身だしなみは男も」
女性陣が振り向く。
男たちは口を閉じた。
「……講習から始めます」
「よろしい」
メリダが呆れながら言う。
「湯に入るための護衛に行く前に、湯に入りたいから護衛を組みたい。人間ってのは本当に面倒だね」
グラントがにこやかに答える。
「需要の循環です」
「言い方」
クレスは静かに言った。
「最初の依頼は、まだ受けない」
酒場が静まる。
使者も顔を上げた。
「条件が整うまでは受けない。受けるとしても、試験的な一件だ。護衛側の選定、講習、依頼者への説明、村の受け入れ、すべて揃ってからだ」
カティアが頷く。
「それでいい。欲で早めると死ぬ」
メリダも言う。
「最初の一件で死人を出したら、第5層は湯じゃなくて墓になるよ」
使者は深く頭を下げた。
「承知しました。そのままプロンテラへ伝えます」
グラントが条件を書いた板を見た。
「仮受付にも掲示しましょう」
マイラが清書する。
その字は、いつもより少し力が入っていた。
やがて、仮受付の横に新しい板が掛けられた。
【第5層湯溜まり護衛依頼について】
【講習未受講者の受注不可】
【第4層突破記録必須】
【門番記録確認必須】
【撤退判断は護衛側に従うこと】
【依頼者の勝手な行動禁止】
【湯溜まり滞在時間制限】
【男女別入浴、見張り必須】
【撤退時も基本報酬と危険手当を支払うこと】
冒険者たちは、その板を見上げた。
商人たちも見上げた。
村人たちも見上げた。
ただの注意書きではない。
新しい仕事の入口だった。
だが同時に、死なないための柵でもあった。
メリダが板を見て、満足そうに頷く。
「まずは、これを読んでからだね」
カティアが腕を組む。
「読めない奴は?」
「講習席へ」
「読めるけど守らない奴は?」
「叩き出す」
「いいね」
クレスが仮受付の職員に言う。
「依頼希望が来たら、まずこの条件を渡してくれ」
「分かりました」
グラントは使者に写しを渡した。
「プロンテラ側にも、これを前提としてお伝えください」
使者は文書を受け取り、丁寧にしまった。
「確かに。……しかし」
「何か?」
「この条件を飲んでも、依頼は来ると思います」
グラントは笑った。
「でしょうね」
使者も少し苦笑した。
「湯溜まりの噂は、もう広がり始めています」
その言葉で、酒場の全員が黙った。
広がる。
まただ。
紅肌の雫の時もそうだった。
琥珀の雫の時もそうだった。
今度は、瓶ではない。
人が来る。
馬車が来る。
護衛が来る。
従者が来る。
噂が、さらに人を呼ぶ。
オルド村長が静かに呟いた。
「……宿を増やすか」
グラントが即答する。
「必要です」
「即答するな」
「馬車置き場も」
「言うな」
「従者用の簡易待機所も」
「やめろ」
「湯上がり用の布も」
「商人を黙らせる講習はないのか」
メリダが笑った。
「それは私の仕事じゃないね」
酒場に少しだけ笑いが戻った。
だが、空気は変わっていた。
ただ笑っているだけではない。
みんな分かっている。
清水の迷宮に、また新しい流れが来た。
水ではない。
金と人と欲の流れだ。
黒い水膜の内側で、俺はその板を見ていた。
「ついに観光業みたいになってきたな」
『観光ではないわ』
ヴェルティアが即座に言う。
『命を賭ける通行権よ』
「言い方が強い」
『事実でしょう』
「まあ、事実だな」
湯溜まりへ行く。
それだけ聞けば、楽しそうだ。
でも実際には、第4層を越えて、第5層の魔物を抜けて、門番を倒して、ようやく湯に触れる。
そこに貴族や商人を連れて行く。
護衛は大変だ。
村も大変だ。
受付も大変だ。
講習席も大変だ。
だけど、動き始めた。
人間側が勝手に条件を作り、板を掛け、報酬の形を変え、危険の線を引き始めた。
迷宮は何も言っていない。
でも、人間は迷宮に合わせて動いている。
「面白いな」
『嬉しそうね』
「うん。なんか、迷宮が社会に食い込んできた感じがする」
『水場から始まり、酒場になり、講習になり、護衛依頼になる。人間は本当に、何でも仕組みにするわね』
「それで生きてるんだろうな」
表示が浮かぶ。
【第5層湯溜まり護衛依頼条件の形成】
【貴族需要、商人需要、護衛需要、講習需要、安全規則需要を獲得】
【受け入れ整備欲、順番争い、不安、期待を獲得】
【獲得DP:1706】
【現在DP:6764】
さらに、水面のように文字が揺れる。
【第5層は、報酬採取区域から護衛対象到達区域へ認識が変化し始めています】
【人流増加予測】
【宿泊、飲食、道具、警備への需要発生】
【獲得DP:588】
【現在DP:7352】
「増えるなあ」
『増えるでしょうね』
「そろそろ、第1層の宿泊も本格的に考えた方がいいか」
『貴方、また部屋を増やすつもり?』
「増やさないと村長の胃が穴だらけになる」
『それは迷宮の責任かしら』
「半分くらいは」
『自覚があるなら、よろしい』
ヴェルティアは少しだけ笑った。
俺は黒い水膜を見る。
仮受付の横に掛かった新しい板。
第5層湯溜まり護衛依頼について。
その前で、冒険者たちが真剣に文字を読んでいる。
さっきまで騒いでいた者も、今は黙って読んでいる。
高額依頼。
貴族。
湯溜まり。
美容。
清潔感。
どれも人を動かす。
でも、その前に書かれているのは撤退判断だ。
講習だ。
死なないための条件だ。
清水の迷宮は、報酬を取りに行く場所から、誰かを奥へ連れて行く場所へ変わり始めた。
そして、その入口には、欲より先に生きて戻るための板が掛けられた。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第5層湯溜まり護衛依頼の条件作りでした。
湯に入りたい人が増えるほど、帰るための決まりも増えていきます。
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