第42話 湯溜まり護衛と臆病者講習
第5層から戻った翌日。
清水の酒場は、朝から熱かった。
鍋の湯気ではない。
泡水の人気でもない。
湯溜まりの話である。
「第5層講習、いつからですか!」
「湯溜まりまで行ける講習はありますか!」
「髪に効くんですよね!」
「手荒れにも効くんですよね!」
「男にも効くんだろ!?」
「臭いにも効くって聞いたぞ!」
「そこ大声で言うな!」
講習席の前に、人が集まっていた。
いつもなら、若手冒険者が渋い顔で座らされる場所だ。
だが今日は違う。
若手だけではない。
Cランク冒険者。
第4層突破者。
女性冒険者。
村の手伝い女たち。
男冒険者。
仮受付の職員。
ついでに、ただ話を聞きたいだけの商人までいる。
メリダは腕を組み、椅子の列を見ていた。
年季の入った革鎧。
短く切った髪。
左頬の古い傷。
いつもの臆病者講習の先生。
だが、その肩には短剣があり、腰には小盾が下がっている。
講師である前に、彼女は冒険者だ。
「……椅子が足りないねえ」
オルド村長が、すでに嫌な顔をしている。
「昨日も増やした」
「今日も増やすんだよ」
「明日もか?」
「多分ね」
「村の木材は無限じゃないぞ」
「命も無限じゃないよ」
その一言で、オルド村長は黙った。
メリダは椅子を見ている。
だが、いつものようにすぐ講習を始めない。
腕を組んだまま、少しだけ眉を寄せていた。
そこへ、クレスが来た。
カティアもいる。
マイラは記録板を抱えて後ろに立っている。
ダリオとシェラは壁際で水を飲んでいた。
クレスは講習席の前で足を止める。
「メリダ」
「なんだい」
「次の第5層確認に来てくれ」
酒場の音が止まった。
メリダも、少しだけ目を細める。
「私を?」
「ああ」
「倒す役じゃないよ」
「分かっている」
「じゃあ、どうしてだい」
クレスは迷わず答えた。
「第5層講習を作るなら、本人が直接見る必要がある」
それで、周囲の空気が変わった。
講習を受けたい者は多い。
だが、講師が第5層を見ていない。
昨日の記録はある。
マイラの報告もある。
クレスたちの証言もある。
けれど、講習で人を止める者が、自分の目で見ていない場所を語るのは弱い。
メリダはしばらく黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かった。行くよ」
若手たちがざわめく。
「先生が第5層へ?」
「大丈夫なのか?」
「メリダ先生って戦うのか?」
メリダがそちらを見る。
「戦うよ。Dランクだからね。ただし、倒すためじゃない」
「倒すためじゃない?」
「帰るためだよ」
講習席の何人かが、背筋を伸ばした。
メリダは腰の小盾を軽く叩く。
「敵を全部倒せる奴は、勝手に奥へ行く。私は、敵を全部倒せない奴がどこで戻るかを見る」
カティアが口元を少し歪めた。
「先生向きだな」
「だろう?」
クレスは続ける。
「人数も増えている。講習を一人で回すのは厳しい。手伝える人材も作る」
メリダが鼻を鳴らした。
「ようやくそこに気づいたかい」
「遅かったか」
「少しね」
カティアが壁際を見る。
「ダリオとシェラは?」
ダリオが水を吹きかけた。
「俺?」
シェラも少しだけ顔を上げる。
「私?」
クレスは二人を見た。
「二人は外す」
ダリオが眉を上げる。
「なんでだよ」
「お前は感覚で押す。説明役には向かない」
「分かるけど、はっきり言うなよ」
シェラが短く言う。
「私は説明が短い」
「自覚あるのか」
「ある」
カティアが肩をすくめる。
「じゃあ、あんたらは講師向きじゃねえな」
「否定できねえのが腹立つな」
ダリオが頭をかいた。
シェラは頷いただけだった。
クレスは周囲を見回す。
「第4層突破済み、Cランク以上。戦闘中に自分の動きを説明できる者。二名選ぶ」
そこで呼ばれたのは、二人だった。
一人は、Cランク盾役のバレス。
短く刈った髪に、広い肩。
第4層を二度越えている。
派手ではないが、味方を守る動きが安定している男だ。
もう一人は、Cランク弓斥候のリーネ。
細身で、目が鋭い。
第4層で酔香蛾の群れを早めに見つけ、パーティを無事に戻した記録がある。
「バレスには、前衛と盾の止め方を見てほしい」
「了解した」
「リーネには、上と後衛狙いの見方を頼む」
「分かりました」
リーネは短く答えた。
カティアがふたりを見て頷く。
「悪くねえ」
メリダも見る。
「講習向きかどうかは、帰ってから見るよ」
バレスが苦笑した。
「厳しいな」
「人を死なせない講習に甘い点はないよ」
「それもそうだ」
そこで、クレスがもう一度言った。
「もう一人、補助を入れる」
酒場の空気が、変な方向へ跳ねた。
補助。
その言葉に、女性冒険者たちの目が光った。
「補助?」
「第4層突破者からですか?」
「記録補助ですか?」
「湯溜まり確認補助ですか?」
「湯溜まりって言った?」
「誰も言ってないけど言った!」
男性冒険者の一人が、そっと手を上げかけた。
「俺、荷物持ちなら」
その瞬間、近くの女性冒険者たちが一斉に振り向いた。
目が笑っていない。
男は手を下ろした。
「……いや、やっぱり俺は講習席で学ぶ側かな」
「賢明だな」
隣の男が頷く。
別の男も口を開きかけた。
「でも男にも効くって」
「黙って」
「はい」
カティアが額を押さえた。
「おい、目的が違うだろ」
女性冒険者の一人が真顔で言う。
「違いません。第5層の報酬確認です」
「髪のためだろ」
「講習のためです」
「手荒れのためだろ」
「記録のためです」
「爪だろ」
「総合的な検証です」
「言い方だけ賢くするな」
マイラが横で小さく頷いた。
「総合的な検証は必要です」
「お前までそっちにつくな」
「必要なので」
フィンがぼそっと言う。
「女性陣、怖いな」
サナが短く答える。
「欲が強い」
ニーナは自分の手を見て、小さく言った。
「でも、分かります」
フィンが黙った。
補助枠は、結局くじではなく、条件で決まった。
第4層突破済み。
記録が読める。
簡単な治療補助ができる。
足が止まりにくい。
そして、湯溜まりに入りたい気持ちを認められる者。
「最後の条件いるか?」
ダリオが聞く。
メリダが答えた。
「いるよ。欲を隠す奴ほど、奥で変な動きをする」
選ばれたのは、D上位の女性冒険者ノーラだった。
短剣と小盾を使う、堅実な後衛補助。
第4層を一度越えている。
本人はまっすぐ立ち、はっきり言った。
「湯溜まりには入りたいです。でも、勝手に動きません」
メリダが少し笑った。
「合格」
女性冒険者たちが一斉にため息をついた。
「いいなあ」
「正直者が勝った」
「次は私も正直に言う」
「言えば行けるわけじゃないからね」
男性冒険者が小さく言う。
「俺も正直に言えば」
「黙って」
「はい」
酒場に、少しだけ笑いが戻った。
だが、クレスの声でまた締まる。
「出発は明日の朝。目的は、メリダの第5層視察。講習補助候補の確認。湯溜まり効果の追加確認。無理はしない」
カティアが続ける。
「湯目当てで足を速めた奴は、そこで終わりだ。全員、帰るために行け」
ノーラが真面目に頷く。
「はい」
メリダも頷いた。
「臆病に行くよ」
その一言で、講習席の空気が少しだけ変わった。
臆病者の講師が、第5層へ行く。
それだけで、清水の迷宮はまた少し、奥へ人を誘った。
翌朝。
第5層視察隊は、第4層入口の前に立った。
クレス。
カティア。
メリダ。
バレス。
リーネ。
ノーラ。
六人。
メリダは革鎧の紐を締め直し、小盾を左腕に固定した。
腰の短剣は、抜きやすい位置。
背負い袋は軽い。
逃げる時に邪魔にならない重さ。
彼女の装備は、勝つためよりも戻るために整えられていた。
マイラは今回は残った。
記録をまとめ、講習用に整理するためだ。
「無理はしないでください」
マイラがノーラに記録用の小板を渡す。
「はい」
「見えなかったことは、見えなかったと書いてください」
「分かりました」
「感じた怖さも書いてください」
「怖さも?」
メリダが横から言う。
「一番大事だよ」
ノーラは小さく息を吸って、頷いた。
ミルが水を配る。
「いってらっしゃい!」
クレスが受け取る。
「行ってくる」
カティアが短く水を飲む。
「戻ってくるよ」
メリダは木杯を見て、少しだけ笑った。
「帰ってから説教だね」
フィンが小声で言った。
「行く前から怖い」
サナが頷く。
「いつも」
六人は、第4層へ入った。
黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。
「メリダさん、装備してると普通に冒険者だな」
『冒険者でしょう』
「そうなんだけど、講習席の印象が強くてさ」
『教える者が、現場を知らない方がおかしいわ』
「確かに」
ヴェルティアの言葉に、俺は頷いた。
昨日の騒ぎで、第5層は完全に人を引き寄せた。
湯溜まり。
美容。
清潔感。
護衛依頼。
高額報酬の匂い。
それらが人を動かす。
なら、止める仕組みも必要になる。
水だけでは、人は止まらない。
壁文字だけでも、たぶん止まらない。
人を止めるのは、人の言葉だ。
そして、その言葉に重さを持たせるのは、帰ってきた足だ。
「今日はクレス、あんまり戦わないかな」
『見守るつもりの顔ね』
「危なくなったら斬る顔でもある」
『あれは便利ね』
「味方でよかった」
黒い水膜の中で、六人は第4層を越えていく。
第4層の魔物は、今回も大きな問題にはならなかった。
バレスが盾で受け、リーネが上を見て、カティアが横を切る。
ノーラは無理に前へ出ない。
メリダも前へは出ない。
だが、ただ守られているわけではなかった。
匂いの濃い場所。
足を止めそうになる棚。
報酬部屋へ向かう時の空気。
戻る道の距離。
見えなくなる曲がり角。
彼女は全部を見ている。
琥珀の雫が現れた時、ノーラが一瞬だけ目を動かした。
メリダがそれを見逃さない。
「欲は出るね」
「……はい」
「出るのはいい。足を止めたままになるのが悪い」
「はい」
メリダは小さく頷いた。
「講習に入れるよ」
そこから、第5層へ降りた。
ーーーーside クレス
第5層の空気は、昨日と同じだった。
湿った温かさ。
薄い湯気。
白い鉱物筋。
広い洞窟。
クレスは剣を抜いたが、前には出ない。
「バレス、前」
「了解」
「リーネ、上」
「見ています」
「カティア、横」
「分かってる」
「ノーラ、メリダと離れすぎるな」
「はい」
メリダは小盾を構え、短剣の柄に指を添えている。
だが、構えは低い。
いつでも下がれる姿勢だ。
怖がっていないのではない。
怖がったまま、足を動かせる姿勢だった。
「来る」
リーネの声。
スチームバットが先だった。
天井近くから二体。
リーネの弓が鳴る。
一射目が片方の翼を裂いた。
二射目は外れた。
だが、外れた矢は壁に当たり、音を作る。
スチームバットの軌道がわずかにずれた。
カティアがそこへ短剣を投げる。
「悪くねえ」
バレスの前に、スチームウルフが走り込む。
二体。
左右へ分かれる。
バレスは盾を構えた。
片方を受ける。
もう片方はノーラ側へ回る。
ノーラが息を飲む。
クレスは動かない。
カティアも、すぐには入らない。
メリダが一歩下がりながら叫んだ。
「横へ来るよ、盾を向けな!」
「はい!」
ノーラは小盾を出し、倒れ込んできたスチームウルフを斜めに受けた。
まともには止められない。
だが、受け流す。
爪が盾を削り、体が横へ流れる。
そこへリーネの矢が入った。
喉元。
スチームウルフが湯気に崩れる。
カティアが頷く。
「今のは悪くねえ」
ノーラは息を吐いた。
「怖かったです」
メリダが言う。
「それを書きな。横から来ると怖い。だから足が止まる。大事だよ」
「はい」
バレスは正面の一体を押し返した。
盾で止める。
足を滑らせない。
槍ではない。
剣でもない。
盾で敵の動きを殺す。
クレスが短く言う。
「いい」
バレスは答えず、盾を押した。
カティアが横から脚を斬る。
スチームウルフが崩れた。
メリダが小板に書く。
「狼は、横へ行く。前だけ見ていると後ろが噛まれる」
次はミネラルクラブだった。
横歩きで、武器を挟みに来る。
バレスは剣を出さない。
盾の角で鋏を受け、閉じる前にずらす。
「武器を取られるなら、取らせるものを選べ」
クレスが言う。
バレスが即座に頷く。
「盾なら、引き戻せる」
「そうだ」
リーネが横から脚の付け根を射る。
矢は深く入らない。
だが、動きが乱れる。
カティアが腹側へ入る。
短剣が薄い隙間を裂いた。
ミネラルクラブが崩れる。
メリダが低く言った。
「硬い敵を叩き続ける若手、絶対に出るね」
カティアが鼻を鳴らす。
「出るだろうな」
「そこも講習だ」
ロックエイプが岩場から石を投げる。
今度はノーラが見つけた。
「上、岩場!」
リーネの矢が飛ぶ。
一体を落とす。
もう一体が逃げる。
追いかけたくなる距離。
だが、メリダが先に言った。
「追うな!」
ノーラの足が止まる。
バレスも踏み出しかけた足を止める。
リーネだけが、逃げる先を見た。
「奥、湯気が濃い」
「誘いだね」
メリダはすぐに小板へ書く。
「逃げる敵を追うな。湯気の奥に誘われる」
クレスは小さく頷いた。
やはり、連れてきて正解だった。
ホットウォーターリザードの熱水弾は、昨日より少し奥で来た。
壁から喉を膨らませる。
リーネが先に見つける。
「壁面、左!」
シェラはいない。
風で逸らす者はいない。
だから、バレスが盾を構える。
「受ける!」
「正面から全部受けるな」
クレスの声。
バレスは盾の角度を変えた。
熱水弾が盾に当たり、横へ流れる。
腕に熱が走った。
「っ!」
ノーラが治療布を持ち上げる。
メリダがすぐに止める。
「まだ動ける。今は止まらない」
「はい」
バレスは叫ばない。
盾を下げず、横へ一歩。
リーネの矢がホットウォーターリザードの喉へ刺さる。
カティアが壁を蹴り、首元へ短剣を入れた。
魔物が崩れる。
ノーラがバレスの腕を見る。
「火傷、浅いです」
「後でいい」
メリダが小さく頷いた。
「痛くても、後でいい時がある。そこも講習だね」
ノーラは記録する。
「治療判断、戦闘中断しない基準」
クレスはそれを聞いて、少しだけ頷いた。
進める。
この隊は、進める。
だが、奥にいるものは違う。
重い足音が、洞窟の底から響いた。
どん。
どん。
湯気が押し寄せる。
白い鉱物殻。
青白い湯脈。
肩と背中の蒸気孔。
胸のコア。
ホットスプリングガーディアン。
メリダの筆が止まった。
その顔に、初めてはっきりとした緊張が出る。
「これは」
カティアが短く言う。
「でかいだろ」
「若手に見せたくないねえ」
「見せたら何人か帰る」
「それでいい」
メリダは小盾を構え直した。
倒す構えではない。
隠れるため。
退くため。
誰かの足を止めないための構えだ。
クレスは剣を構えたまま、一歩下がった。
「バレス、前。リーネ、肩と背中の噴気孔を見る。カティアは膝。ノーラはメリダと退路を見ろ」
バレスが盾を構える。
「クレスは?」
「危なければ入る」
「なるほど」
バレスの喉が鳴った。
「怖いな」
メリダが後ろで言う。
「怖いままでいい。足だけ止めるんじゃないよ」
「了解」
ホットスプリングガーディアンの腕が上がった。
振り下ろし。
床が砕ける。
蒸気が爆ぜる。
白い壁。
視界が消える。
「右へ抜ける!」
バレスが叫ぶ。
ノーラが退路を見る。
「右、岩あり! 大きくは下がれません!」
メリダが即座に言う。
「半歩でいい! 下がりすぎるな!」
バレスが踏み止まる。
リーネは膝をつき、蒸気の薄い下側を見る。
影。
巨大な腕が横に薙ぐ。
「来る!」
バレスが盾を立てる。
受けない。
盾を当てて、軌道をずらす。
それでも、重い。
腕が盾に触れた瞬間、バレスの体が半歩浮いた。
クレスが動いた。
一瞬。
剣がガーディアンの関節へ入り、勢いを殺す。
バレスはその隙に膝を落とし、盾を斜めへ逃がした。
巨腕が岩壁を叩く。
洞窟が鳴る。
バレスの額に汗が浮かんだ。
「今のは、助かった」
クレスは短く言う。
「受けるな。流せ」
「分かった」
「次は俺なしでやれ」
「厳しいな」
「講習補助になるんだろう」
バレスは少しだけ笑った。
「そうだった」
リーネの矢が飛ぶ。
肩の噴気孔へ。
一本目は弾かれる。
二本目は浅く刺さる。
蒸気の出方が乱れた。
「刺さる。深くはない」
「十分だ」
カティアが右膝へ入る。
昨日見つけた薄い場所。
短剣を刺す。
ガーディアンが膝を引く。
その足元へ、ノーラが石を投げた。
小さな石だ。
傷はつかない。
だが、踏み直す位置に転がる。
巨体の重心がわずかに狂う。
メリダが目を細めた。
「あれはいい」
ノーラが少しだけ息を吐く。
「足元、乱せます」
バレスが前へ出る。
盾で左腕を誘う。
ホットスプリングガーディアンが腕を振る。
今度は正面で受けない。
盾の角で触れ、体を横に流す。
腕が滑る。
その先に、カティアがいない。
リーネもいない。
ノーラもメリダもいない。
ただ岩壁だけがある。
巨腕が壁を砕いた。
「よし!」
バレスの声が出た。
クレスは動かない。
次の瞬間、胸のコアが光った。
蒸気噴射。
前方を焼くような白。
「下がりすぎるな、横!」
カティアの声。
同時に、メリダの声が重なる。
「退路を潰すんじゃないよ!」
全員が横へ散る。
ノーラは後ろを見た。
下がる先。
岩。
壁。
通れる幅。
「左、二歩まで!」
その声で、バレスが必要以上に下がらずに済む。
リーネが肩の噴気孔へ三本目を放つ。
今度は、矢じりに細い鉱物片を巻いている。
刺さった。
蒸気の流れが詰まる。
カティアが背中へ回る。
「背中、もう一つ!」
リーネが矢を放つ。
背中の噴気孔へ。
蒸気が暴れる。
ホットスプリングガーディアンの胸の光が乱れた。
バレスが盾で左腕を押し上げる。
「胸、開くぞ!」
カティアが膝裏の短剣をねじる。
巨体が傾く。
リーネが弓を引いた。
狙いは胸のコア。
だが、腕が戻る。
間に合わない。
クレスが動いた。
剣で腕を斬りつけるのではない。
腕の内側へ入り、柄で関節の隙間を打つ。
ほんの一瞬、腕の戻りが止まる。
「今」
リーネの矢が飛んだ。
青白いコアへ刺さる。
深くはない。
だが、そこへカティアが走る。
低く、速く。
胸元へ届く高さではない。
だから、バレスが盾を立てた。
カティアはその盾を踏む。
一歩。
跳ぶ。
短剣がコアの縁へ入った。
青白い光が、裂ける。
ホットスプリングガーディアンの動きが止まった。
カティアは短剣を抜き、後ろへ跳ぶ。
バレスが盾を引く。
リーネがもう一本、胸へ矢を入れた。
コアの光が大きく揺れる。
巨体が膝をついた。
肩の蒸気が止まる。
白い鉱物殻が、ゆっくりと灰色へ沈む。
ホットスプリングガーディアンは、石像のように固まった。
洞窟に、湯の音だけが残る。
バレスが息を吐いた。
「……勝った、のか」
カティアが短剣を払う。
「倒れたなら、まず周囲確認」
「そうだった」
リーネは弓を下ろさない。
「上、敵影なし」
ノーラがメリダを見た。
「怪我は?」
「膝を少し擦ったくらいだよ」
「確認します」
「あとでいい」
「今は周囲確認ですね」
「分かってきたじゃないか」
クレスは剣を下げた。
「よくやった」
バレスが苦笑する。
「二回、助けられた」
「助けが二回で済んだ」
「それは褒めてるのか?」
「褒めている」
カティアが言う。
「次は助け一回で済ませろ」
「厳しいな」
「第5層だぞ」
「それもそうだ」
メリダは固まったガーディアンを見上げた。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「講習席、倍にしよう」
カティアが顔をしかめる。
「村長が泣くぞ」
「泣いても増やすよ。これを見たら、増やすしかない」
その声は、冗談ではなかった。
湯溜まりの空間は、今日も静かだった。
魔物の気配はない。
白い石に囲まれた湯が、ぽこり、ぽこりと音を立てている。
奥には、水紋の道。
壁文字。
【1層へ】
ノーラがそれを見て、息を飲んだ。
「本当にある……」
メリダは湯溜まりを見て、しばらく黙っていた。
それから言った。
「これは、講習がいるねえ」
カティアが眉を上げる。
「見ただけで分かるのか」
「分かるよ。入りたいと思ったからね」
ノーラが目を丸くする。
リーネも少し驚いた顔をした。
メリダは平然と言う。
「自分が入りたい場所は、若手も入りたい。若手より金を持ってる奴はもっと入りたい。なら、止め方を考えないといけない」
クレスが頷く。
「交代で入る。見張りは置く」
前と同じように、女性組から入ることになった。
男性組は通路側へ背を向ける。
クレスとバレスが見張りに立つ。
女性組は岩陰と湯気の向こうへ移動した。
湯に触れた瞬間、ノーラが小さく声を漏らした。
「……あ」
リーネが、珍しく言葉を探すように黙った。
カティアは湯に浸かりながら、周囲を見ている。
だが、前回より少しだけ慣れた顔だった。
メリダはゆっくり湯に入り、そして目を閉じた。
「これはまずいねえ」
ノーラが慌てる。
「毒ですか?」
「違うよ」
メリダは自分の手を見る。
講習で何度も机を叩き、若手の襟首を掴み、木札を書き、椅子を並べた手。
短剣を握り、盾を持ち、何度も逃げ道を確かめた手。
乾いて、硬くなっていた指先。
それが湯の中で、少しずつ落ち着いていく。
「気持ちが、緩む」
リーネが髪を指で梳いた。
「絡まりが取れます」
ノーラは自分の手の甲を見た。
「本当に、荒れが薄い……」
声が震えている。
喜びを隠そうとしている。
だが、隠しきれていない。
「私、冬場に手が割れやすくて」
そこまで言って、ノーラは口を閉じた。
カティアが横目で見る。
「言えばいいだろ。ここまで来たんだ」
ノーラは湯の中で、自分の手を握った。
「嬉しいです」
その一言は小さかった。
だが、湯気の中でまっすぐ響いた。
リーネも静かに頷く。
「私も。弓弦で指が荒れるので」
メリダが笑った。
「記録に残すよ。講習じゃなくて、欲の理由としてね」
カティアが鼻を鳴らす。
「欲を隠さない講習か」
「そうさ。欲があるなら、欲のまま死なない方法を教える」
その言葉に、女性陣は少し黙った。
湯音だけがする。
そして、ノーラがぽつりと言った。
「来られてよかったです」
カティアは湯面を見たまま答えた。
「帰るまで言うな」
「はい」
それでも、ノーラの顔は緩んでいた。
湯の効果だけではない。
第5層を越えた。
門番を見た。
生きて辿り着いた。
そして、湯に浸かった。
その全部が、彼女の表情を変えていた。
長居はしない。
それは全員分かっている。
惜しそうに、けれどちゃんと湯を出た。
装備を整え、男性組と交代する。
クレスとバレスが湯に入る間、女性組は見張りに立った。
バレスは湯に浸かった瞬間、低く唸った。
「……盾役には、効くな」
クレスが少しだけ笑う。
「手か」
「ああ。盾の革で擦れる。汗もこもる。これが落ちるだけで、だいぶ違う」
「強化ではない」
「分かってる。だが、次に構える時の不快感は減る」
「それは大きい」
バレスは自分の手を見て、苦笑した。
「講習で言えることが増えた」
「何を言う」
「湯に入りたいなら、盾を持つ手を残して帰れ」
「いいな」
クレスは頷いた。
短い入浴を終え、六人は水紋の道へ入った。
第1層へ戻った時、酒場はまた荒れた。
前回ほどではない。
と、誰かは思った。
だが、それは甘かった。
「メリダ先生!?」
「先生まで!?」
「先生、手が!」
「髪、なんか落ち着いてる!」
「顔色がいい!」
メリダは水を受け取り、眉を上げた。
「私の顔を見る暇があるなら、椅子に座りな」
「でも先生が!」
「座りな」
「はい!」
若手たちが反射で座る。
その速さに、カティアが少し笑った。
「効くな、先生」
「湯より効くよ」
ノーラの周りには、女性冒険者たちが群がった。
「どうだった!?」
「本当に手荒れ薄くなった!?」
「髪触っていい!?」
「だめです!」
「一回だけ!」
「だめです!」
ノーラは必死で後ろへ下がる。
だが、顔が緩んでいるせいで説得力がない。
「嬉しそう!」
「嬉しそうじゃないです!」
「嬉しそう!」
「……嬉しいですけど!」
その正直さに、女性陣がまた爆ぜた。
「正直!」
「やっぱり行きたい!」
「次の補助枠は!?」
「第4層越えなきゃ!」
「今から講習!」
男性冒険者の一人が手を上げる。
「俺も盾役として」
女性陣が振り向く。
男は座った。
「講習から始めます」
メリダが満足そうに頷く。
「いい判断だよ」
バレスも戻ってきた。
手を見られた。
盾役仲間に囲まれた。
「盾持ちにも効くのか?」
「手の擦れは?」
「臭いは?」
「臭いって聞くな」
バレスは苦笑しながら答える。
「効く。だが、湯に入りたいなら、まず盾で死なないことだ」
その言葉は講習向きだった。
メリダが横で頷く。
「あんた、使えるね」
「光栄だ」
リーネは女性弓使いたちに囲まれていた。
「弓弦で荒れた指は?」
「落ち着く」
「髪は?」
「絡まりにくくなる」
「行きたい!」
「まず第4層」
リーネの短い返答は、妙に説得力があった。
シェラとは違う。
説明が短いが、必要なところは伝わる。
メリダがそれも見ていた。
「講習補助、二人とも合格だね」
オルド村長が遠くで頭を抱える。
「また講師が増えるのか」
グラントが横で微笑む。
「講師が増えれば、人が増えます」
「慰めになっていない」
「事実です」
「もっと悪い」
クレスは戻った報告を済ませた。
ホットスプリングガーディアンとの再戦。
危ない場面で、クレスが二度だけ介入した。
バレス、リーネ、カティア、ノーラの動き。
メリダの視察結果。
第5層講習に必要な項目。
後衛狙い。
上空警戒。
盾の流し方。
熱水弾の避け方。
門番戦の撤退基準。
湯溜まりでの滞在時間。
見張り。
帰還路。
記録は山になった。
マイラがそれを見て、少しだけ目を輝かせる。
「整理します」
カティアが言う。
「嬉しそうだな」
「はい。記録が増えました」
「お前はそれでいいのか」
「いいです」
清水の酒場は、また戦場になった。
今度は剣ではない。
講習席と補助枠と、湯溜まりへの欲である。
数日後。
ーーーーside プロンテラ商業ギルド
プロンテラ商業ギルドの一室で、グラントからの報告書が開かれていた。
読み上げ役の職員が、三度目の確認をする。
「清水の迷宮、第5層奥に湯溜まりを確認。湯に浸かった者に、髪、肌、手、爪、匂いの改善効果。傷治療なし。疲労回復なし。戦闘強化なし」
部屋にいた商人たちは、黙っていた。
黙っていたが、目は動いている。
数字を見ている目。
人の流れを見ている目。
貴族の顔を思い浮かべている目。
「持ち帰りは?」
「未確認。ただし、現地報酬である可能性が高いとのこと」
「なら、連れて行くしかない」
「第5層までか?」
「門番がいるそうだ」
「護衛がいる」
「相当な護衛がいる」
報告書の次の頁には、ホットスプリングガーディアンの記録がある。
大型人型。
胸部コア。
蒸気による視界遮断。
重打撃。
単独交戦不可。
連携必須。
商人の一人が、乾いた声で笑った。
「美容のために門番を越えるのか」
別の商人が答える。
「越えたい者はいるでしょう」
「貴族夫人か」
「豪商の妻も」
「舞台に立つ者も」
「縁談前の令嬢も」
「商談前の商人もだ」
そこまで言って、全員が少し黙った。
他人事ではない。
清潔感。
肌。
手。
髪。
匂い。
それは女だけの話ではなかった。
報告書には、ダリオとクレス、バレスの変化も記されている。
男にも効果あり。
その一文が、商人たちの目を刺していた。
「護衛依頼として出すなら、条件を付けるべきだ」
「第4層突破済みの護衛」
「第5層講習受講済み」
「門番記録の確認」
「入浴中の見張り」
「帰還確認」
「滞在費もいる」
「宿もいる」
「馬車置き場もいる」
「従者の待機場所もいる」
「清水の酒場だけで足りるか?」
「足りないだろうな」
一人が報告書を閉じた。
「仮依頼を出す」
「誰宛てに」
「まずは清水の迷宮仮受付。護衛募集ではなく、受け入れ条件の確認依頼だ」
「貴族筋は?」
「もう聞きつけている」
その一言で、部屋がさらに静かになった。
「早いな」
「紅肌の雫で、あの迷宮を見ている者たちだ。湯溜まりの噂を放っておくはずがない」
「では、始まるか」
「ああ」
商人は窓の外を見た。
プロンテラの通りには、人と荷馬車が流れている。
その流れの先に、清水の迷宮がある。
水の迷宮。
雫の迷宮。
そして今、湯へ人を連れて行く迷宮になりつつある。
「護衛依頼が殺到するぞ」
誰かが言った。
その声には、恐れと期待が半分ずつ混じっていた。
黒い水膜の内側で、俺はプロンテラから戻ってきた報せを見ていた。
「早くない?」
『早いわね』
「いや、早いよな。数日だぞ」
『欲の足は速いのよ』
「名言っぽく言うなあ」
表示が浮かぶ。
【第5層講習体制の形成】
【講習補助者の認識】
【湯溜まり効果の追加実証】
【護衛依頼欲、講習需要、補助枠競争、商業連携欲を獲得】
【獲得DP:1186】
【現在DP:5058】
「また増えた」
『当然ね。人間が勝手に道を作り始めたもの』
「次は、護衛依頼か」
『ええ。瓶ではなく、人が流れるわ』
俺は黒い水膜を見る。
清水の酒場では、メリダが第5層講習の新しい板を作っていた。
バレスが盾の構え方を教えている。
リーネが天井を見る癖を教えている。
ノーラは女性冒険者たちに囲まれ、湯溜まりの感想を何度も聞かれていた。
カティアはうるさいと怒っている。
クレスは淡々と門番記録を確認している。
オルド村長はまた椅子の数を数えている。
グラントからの報せは、仮受付の机に置かれていた。
貴族の護衛依頼。
その言葉だけで、酒場の空気はまた少し熱を帯び始めている。
「清水の迷宮、忙しくなるな」
『最初から忙しかったでしょう』
「最初は水だけだったんだけどな」
『水は流れるものよ。止まらないわ』
「なるほど」
俺は頷いた。
水は流れる。
雫は外へ出る。
湯は人を呼ぶ。
清水の迷宮は、また一つ、外の世界と繋がり始めた。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第5層講習と、護衛依頼の火種でした。
湯に入りたい者たちの足音が、だんだん近づいてきます。
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