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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第41話 湯上がりの帰還報告



 光る水紋の道へ足を踏み入れた瞬間、足元が消えた。


 落ちる感覚ではない。


 浮く感覚でもない。


 清水の中を、体ごと一度くぐらされたような感覚。


 冷たくはない。


 苦しくもない。


 ただ、視界が水色に揺れた。


 次の瞬間、足裏に石床の感触が戻る。


 音が戻る。


 人の声。


 椅子を引く音。


 木杯の触れ合う音。


 汁物の匂い。


 水音。


 清水の間だった。


 クレスは一歩踏み出し、すぐに周囲を確認した。


 五人いる。


 カティア。


 ダリオ。


 シェラ。


 マイラ。


 全員、立っている。


 装備は傷んでいる。


 ダリオの槍には鉱物殻を叩いた跡がある。


 カティアの短剣帯はずれている。


 シェラのローブには、熱水の跡が薄く残っている。


 マイラの記録板は、革紐できつく縛られていた。


 だが、誰も倒れていない。


 誰も欠けていない。


 戻った。


 清水の酒場が、一瞬だけ静まり返った。


 それから、ミルの声が飛んだ。


「おかえりなさい!」


 その声が、空気の蓋を外した。


「戻ったぞ!」


「第5層からか!?」


「全員いる!」


「怪我は!?」


「門番は見たのか!?」


「奥はどうだった!?」


「何があった!?」


 声が重なる。


 クレスは片手を上げた。


「報告する。まず座らせてくれ」


 いつもなら、それで少しは静まる。


 だが、今日の酒場は違った。


 誰かが、マイラを見た。


 最初に気づいたのは、ニーナだった。


「……マイラさん?」


 マイラは記録板を抱えたまま振り向いた。


「はい。報告は順に」


「髪が」


「え?」


「髪が、すごく……」


 ニーナの声が途中で消えた。


 その目は、マイラの髪に釘付けだった。


 戦闘後のはずだった。


 第5層へ入り、魔物と戦い、門番を越え、戻ってきたはずだった。


 なのに、マイラの髪は乱れていない。


 汗と湯気で重く張りついた髪ではない。


 指を通せばするりと流れそうな、落ち着いた艶があった。


 顔色も違う。


 疲れている。


 それは間違いない。


 目元には疲労がある。


 肩も落ちている。


 それなのに、肌のくすみが薄い。


 手元に目を落としたサナが、短く言った。


「手」


 フィンが覗き込む。


「手?」


 サナはマイラの指先を見ている。


「荒れてない」


 マイラは自分の手を見た。


 そして、少しだけ口を結んだ。


「報告に含めます」


「含めますじゃなくて!」


 フィンが思わず叫んだ。


「第5層から帰ってきたんだよな!? なんで行く前より綺麗になってんだよ!?」


 その言葉で、酒場が爆ぜた。


「綺麗?」


「マイラが?」


「本当だ、手が!」


「顔色も違うぞ!」


「紅肌の雫を飲んだのか?」


「いや、飲んでねえだろ。今帰ってきたんだぞ」


「第5層で何かあったのか!?」


「報酬か!?」


「何を持って帰ったんだ!?」


「小瓶はあるのか!?」


 マイラが一歩下がる。


 その横で、カティアが舌打ちした。


「騒ぐな。報告が先だ」


 だが、そのカティアを見た女性冒険者の一人が、息を飲んだ。


「カティアさんも……」


「あ?」


 カティアが睨む。


 睨んだ。


 いつもの目つきだ。


 声もいつもの通り。


 だが、違う。


 髪だ。


 普段は無造作に束ねている短めの髪が、戦闘後とは思えないほど艶を帯びていた。


 肌も、煤けたような影が薄い。


 頬に残っていた細かいざらつきが消え、手の甲の荒れも目立たない。


 爪の先が、妙に整っている。


「見るな」


 カティアが低く言った。


 その声に、いつもなら周囲は引く。


 でも、今日は引かなかった。


 いや、引けなかった。


「いや、だって」


「本当に変わってる」


「カティアさん、髪が」


「見るなって言ってんだろ!」


「でも綺麗です!」


「言うな!」


 さらに騒ぎが大きくなった。


 カティアが短剣に手を伸ばしかけ、クレスが片手で止める。


「抜くな」


「抜かねえよ。今のところはな」


 その後ろで、シェラが静かに水を受け取っていた。


 灰色ローブの魔術師。


 いつも通り、表情は薄い。


 声も少ない。


 なのに、その手元を見た仮受付の女性が固まった。


「シェラさん、爪が……」


 シェラは自分の指先を見た。


「整った」


「整った、じゃなくて、すごく綺麗です」


「そう」


 そう、と言いながら、シェラは一度だけ自分の髪に指を通した。


 その動きが、いつもより少しだけ遅い。


 確かめるような動きだった。


 マイラがそれを見て、小さく頷く。


「髪の絡まり改善。爪の表面改善。手荒れ軽減。肌のくすみ軽減」


「今ここで淡々と記録するな!」


 カティアが怒鳴る。


 マイラは真面目な顔で答えた。


「今が一番反応を記録しやすいので」


「お前、肝が太くなってねえか?」


「第5層帰りなので」


「理由になってねえ」


 酒場の女たちが、じわじわと前へ寄ってくる。


 女性冒険者。


 村の女たち。


 ミルの母エナ。


 仮受付の女性。


 鍋番を手伝っていた者まで、木べらを持ったまま固まっている。


 ミルは目を丸くしていた。


「マイラお姉ちゃん、きらきらしてる」


 マイラはその言葉で、完全に耳まで赤くなった。


「ミル、それは違います」


「違わないよ?」


「違います」


 ニーナが、恐る恐る聞いた。


「第5層の奥に、何があったんですか?」


 マイラは深く息を吸った。


「湯溜まりです」


 その一言で、酒場が二度目に爆ぜた。


「湯溜まり!?」


「湯に浸かったのか!?」


「第5層の報酬が湯!?」


「湯って持ち帰れるのか!?」


「飲むのか!?」


「塗るのか!?」


「浸かるって言っただろ!」


「え、服は!?」


「そこ聞くな!」


 カティアが机を叩いた。


 どん、と音が響く。


「黙れ!」


 今度は少し静まった。


 少しだけだ。


 まだ全員の目がぎらぎらしている。


 紅肌の雫の時もそうだった。


 だが、これは違う。


 紅肌の雫は、小瓶だった。


 飲む報酬だった。


 買えば手元に置ける。


 渡せる。


 売れる。


 だが、これは湯溜まりだ。


 第5層の奥にある。


 そこまで行かなければ触れない。


 そして、今その湯に浸かった者が、目の前に立っている。


 証拠そのものとして。


 クレスは水を一口飲んだ。


「先に言っておく。傷は治らない。疲労も消えない。戦闘能力が上がる感覚もない」


 クレスが言うと、数人がはっとした。


 ようやく報告らしい空気が戻る。


 マイラが記録板を開く。


「第5層奥、ホットスプリングガーディアン撃破後、湯溜まりを確認。周囲に魔物の気配なし。安全地帯の可能性が高いです」


 クレスが続ける。


「男女で交代して短時間だけ浸かった。見張りは置いた。湯に触れても痛みはなく、毒気もない」


 シェラが短く言う。


「魔力は静か」


 マイラが記録を読む。


「確認された効果。髪のぱさつき、絡まりの改善。肌表面の荒れ、くすみの改善。手荒れ、軽いひび割れの改善。爪の割れ、くすみ、表面の乱れの改善。汗臭さ、泥臭さの軽減」


 酒場の空気が、また怪しく膨らむ。


 だが、マイラは続けた。


「未確認、または効果なし。切り傷の治療なし。疲労回復なし。筋力、魔力、敏捷性の上昇なし。古傷の消失なし。病気治療なし」


 カティアが腕を組む。


「美容と身だしなみだ。薬じゃねえ」


 女性冒険者の一人が震える声で言った。


「でも、手荒れが治まるんですよね?」


「軽いものはな」


 マイラが答える。


「私は記録板を持つ手のかさつきが落ち着きました。ただし、切り傷はそのままです」


「髪は?」


 別の女性が聞く。


 マイラが少しだけ視線を泳がせた。


「絡まりは、かなり改善しました」


「かなり」


「かなりって言った!」


「マイラがかなりって言ったぞ!」


「それは効くやつだ!」


 女性陣のざわめきが、再び膨らむ。


 カティアが額を押さえた。


「おい、報告を聞け」


「聞いてます!」


「聞いたから騒いでます!」


「そこに行くにはどうすればいいんですか!」


「第5層の奥だって言ってんだろ!」


 カティアの怒鳴り声と、女性陣の食いつきが正面からぶつかった。


 その横で、グラントが完全に黙っていた。


 珍しいことだった。


 あの商人が、口を開かない。


 目だけが、カティア、シェラ、マイラを順に見ている。


 商品を見る目ではない。


 計算する目だ。


 だが、計算が追いついていない。


 クレスはそれに気づいたが、先に報告を進めた。


「第5層は戦闘階層だ。入口付近からスチームウルフ、スチームバット、ミネラルクラブ、ロックエイプ、ホットウォーターリザードを確認した」


 マイラが記録板を掲げる。


「後衛狙いあり。上空からの急降下あり。武器を挟む硬殻型あり。岩場からの投石あり。壁面からの熱水弾あり」


 ダリオが槍を横に置いた。


「足場は悪くない。だからこそ敵がよく動く」


 そのダリオを見て、フィンがふと固まった。


「……あれ?」


「どうした」


 リオが聞く。


 フィンはダリオを指さしかけて、途中で引っ込めた。


「ダリオさんも、なんか……」


 ダリオが眉を上げる。


「なんだよ」


「いや、綺麗って言うと変だけど」


「言ったな?」


「言ったけど! でも、なんか手とか髪とか!」


 男冒険者たちが、今度はダリオを見る。


 大柄な槍使い。


 荒っぽい装備。


 戦闘帰り。


 なのに、妙に清潔感がある。


 汗臭さがない。


 髪がまとまっている。


 手の甲の荒れが薄い。


 爪先も、冒険者にしては整っている。


 ダリオは自分の腕を見て、少しだけ困った顔をした。


「俺も、湯から上がった時に思った」


「何を」


 リオが聞く。


「俺、ちょっと綺麗じゃねえかって」


 酒場が三度目に爆ぜた。


「男にも効くのか!?」


「おい、ダリオが綺麗になってるぞ!」


「言い方!」


「いや本当だ!」


「臭くない!」


「それは褒めてんのか!?」


 ダリオが怒鳴る。


 だが、周囲は止まらない。


 男冒険者たちが、自分の手を見始める。


 爪の汚れ。


 手の荒れ。


 汗臭さ。


 革鎧の下に染みついた匂い。


 女たちのざわめきとは別の、妙に現実的なざわめきが広がる。


「遠征帰りの臭いが落ちるなら欲しいぞ」


「依頼後に人前へ出る時、だいぶ違うな」


「商談前に入ったら印象変わるんじゃねえか?」


「貴族の護衛で臭いって嫌がられたことある」


「あるある」


「あるのかよ」


 その視線が、自然とクレスへ移った。


 ダリオでこれなら、クレスはどうなのか。


 誰かが言ったわけではない。


 だが、酒場のあちこちで同じことを思った。


 クレスも、変わっていた。


 派手ではない。


 むしろ、派手ではないから目立つ。


 戦闘帰りのはずなのに、髪が不自然なほど乱れていない。


 汗と鉱物粉にまみれたはずの肌に、粉っぽい荒れがない。


 剣を握る手は硬く、古傷も残っている。


 それでも、手の甲のざらつきが落ち着き、爪のくすみが薄い。


 何より、血と汗と土埃を抜けてきた直後とは思えない清潔感があった。


 いつもの冷静な目。


 淡々とした声。


 必要なことだけを言う姿勢。


 そこに湯上がりの整い方が重なったせいで、妙に近寄りがたいのに、目を離しにくい。


 近くにいた女性冒険者が、息を詰めた。


「……クレスさんも」


 別の女性が小さく頷く。


「髪、綺麗……」


「手も。剣士の手なのに、すごく整ってる」


「なんか、いつもより……」


 そこまで言って、村の若い女性が頬を赤くした。


 隣の女が肘でつつく。


「言いなよ」


「言えるわけないでしょ」


「でも分かる」


「分かるけど!」


 仮受付の女性まで、記録板を持ったまま一瞬だけ目を泳がせた。


 そして、慌てて視線を落とす。


「失礼しました。報告を」


 声が少し上ずっていた。


 クレスは気づいているのかいないのか、表情を変えない。


「男にも効く。だが、強くはならない」


 その冷静さが、逆に何人かの頬をさらに赤くさせた。


 カティアが横目で見て、ぼそりと言う。


「お前、そういうところだぞ」


「何がだ」


「何でもねえ」


 男冒険者たちが、少し複雑な顔でクレスを見る。


「ずるいな」


「何がずるいんだよ」


「あれで強くならないって言われても、もともと強いだろ」


「清潔感まで増えるのはずるい」


「湯のせいか? 本人のせいか?」


「両方だろ」


「余計ずるい」


 クレスは無視した。


 ダリオは少しだけ笑った。


「人気者は大変だな」


「報告を続けるぞ」


「照れもしねえ」


「照れる内容ではない」


「そういうところだな」


 カティアがまた呟いた。


 クレスはやはり分かっていない顔をした。


 マイラはその一連の反応を記録しようとして、カティアに記録板を軽く押さえられた。


「そこは書くな」


「反応も資料になります」


「ならねえ」


「少しは」


「ならねえ」


「……分かりました」


 マイラは渋々、筆を止めた。


 クレスは空気を戻すように、声を低くした。


「そして、奥に門番がいた。ホットスプリングガーディアン。大型人型。胸部コア。蒸気で視界を潰し、重い打撃を使う。単独交戦は避けろ」


 酒場が今度こそ静まった。


 クレスの装備を見れば分かる。


 剣帯の擦れ。


 肩の防具の欠け。


 石片が当たった痕。


 ダリオの槍にも深い擦り傷がある。


 カティアの短剣にも熱で曇った跡がある。


 シェラのローブも無傷ではない。


 マイラが震えずに立っているのが不思議なくらいだ。


 報酬はすごい。


 だが、そこに行くまでが危険。


 その事実が、ようやく酒場の底へ沈んだ。


 メリダが講習席から立ち上がった。


「はい、第5層講習は確定だよ」


 その声は通った。


「湯に入りたいなら、まず死なない講習だ。狼が横へ回る。蝙蝠が上から来る。蟹が武器を持っていく。猿が後衛に石を投げる。蜥蜴が熱い水を飛ばす。最後にでかい門番。聞いただけで座る理由が五つ以上あるね」


 誰も反論しない。


 メリダはにやりともせず、机を叩いた。


「椅子、追加」


 オルド村長が頭を抱えた。


「また椅子か……」


 グラントがようやく口を開いた。


「椅子どころではありません」


 声が固かった。


 商人の声ではある。


 だが、いつもの柔らかさが薄い。


 オルド村長が顔を上げる。


「どういう意味だ」


 グラントはゆっくりと、帰還した五人を見る。


 マイラ。


 カティア。


 シェラ。


 ダリオ。


 そして、クレス。


「紅肌の雫は品物でした。琥珀の雫も品物です。持ち帰り、売買できます」


 グラントは、湯溜まりの報告を記したマイラの記録板を見る。


「ですが、湯溜まりは違います。湯そのものを持ち帰れるかどうかは未確認。仮に持ち帰れないなら、人を連れて行くしかない」


 酒場が静まりかける。


 グラントの言葉が、全員の頭の中で形になっていく。


 人を連れて行く。


 第5層の奥まで。


 門番を越えて。


 湯溜まりに浸からせるために。


 カティアが顔をしかめた。


「面倒な依頼が増えるぞ」


 グラントは頷いた。


「増えるどころではありません」


「どのくらいだ」


 オルド村長が聞く。


 グラントは少しだけ笑った。


 笑ったが、目は笑っていない。


「貴族夫人、豪商の妻、舞台に立つ者、交渉前の商人、縁談前の令嬢、王都の金持ち。紅肌の雫に金を出した層が、今度は自分の体で効果を得に来たがるでしょう」


「……」


「しかも、紅肌の雫と違って、瓶だけでは済みません。第5層まで護衛が必要です。往路の護衛。第4層突破。第5層戦闘。門番対策。入浴中の見張り。帰還確認」


 グラントは指を一本ずつ折る。


「護衛依頼になります」


 誰かが、喉を鳴らした。


 カティアが吐き捨てる。


「貴族を連れて、あそこまで行けってか」


 ダリオが頭をかいた。


「無茶だろ」


 シェラが短く言う。


「足手まといがいると難易度が上がる」


 マイラが即座に記録した。


「護衛対象同伴時、難易度上昇」


「そこも記録すんのか」


 ダリオが呻く。


 マイラは真顔で答えた。


「重要です」


 クレスが静かに言った。


「受けるなら、第5層を突破できる者だけだ。少なくとも、門番の情報が広まり、対策ができるまでは、護衛依頼として扱うのは危険すぎる」


 グラントは頷く。


「だからこそ、高額になります」


 酒場がまた揺れた。


 高額。


 その言葉は、冒険者の耳に刺さる。


 危険。


 報酬。


 護衛。


 貴族。


 第5層。


 湯溜まり。


 単語がばらばらに飛び交い、空気がぐるぐる回る。


「いくらになる?」


「第5層まで護衛なら金貨何枚だ?」


「貴族ならもっと出すだろ」


「でも門番だぞ」


「クレスたちだから倒せたんだろ」


「俺ら無理だぞ」


「講習だ!」


「講習でどうにかなるか!」


「なら鍛えろ!」


「湯に入りたい!」


「お前がかよ!」


「俺だって手荒れ気になるんだよ!」


 男も女も関係なく、酒場が荒れた。


 椅子が動く。


 木杯が鳴る。


 仮受付の職員が慌てて追加の記録板を出す。


 メリダが講習席の前に立ち、逃げようとした若手の襟首を掴む。


 ミルは目をきらきらさせながら、エナの袖を引いた。


「お母さん、湯溜まりってすごいの?」


「すごいんだろうねえ」


「入れる?」


「ミルはまずお水を運ぼうね」


「はーい!」


 オルド村長は両手で顔を覆った。


「また村が忙しくなるのか」


 グラントが静かに追い打ちをかける。


「宿泊も増えます。護衛待ち、講習待ち、依頼待ち。貴族が来るなら、食事、馬車置き場、警備、従者の宿も必要です」


「やめろ」


「さらに、入浴前後の服や布、髪を整える道具、手入れ油、湯上がりの飲み物」


「やめろと言っている」


「商機です」


「村の胃が死ぬわ!」


 カティアがグラントを睨む。


「お前、もう売ること考えてるだろ」


「売るのではありません」


 グラントは柔らかく微笑んだ。


「連れて行く道を整えるのです」


「一番商人っぽい言い方だな」


「商人ですから」


 クレスが息を吐いた。


「まずは情報整理だ。第5層はまだ初期偵察が終わっただけだ。勝手に護衛依頼を受けるな。仮受付を通せ。講習を受けろ。門番の記録を読むまでは、湯溜まりの話だけで動くな」


 その言葉に、酒場が少し落ち着く。


 少しだけ。


 まだ目は熱い。


 だが、クレスの声は通る。


「湯溜まりは報酬だ。だが、そこに辿り着くまでの第5層は、完全に戦闘階層だ」


 カティアが続ける。


「湯に入りたいなら、まず生きて門番の前まで行け。門番を越えろ。話はそれからだ」


 メリダが講習席の椅子を叩いた。


「はい、今の聞いたね。湯に入りたい奴ほど座りな。欲で足が速くなる奴は、死ぬのも早いよ」


 若手たちが、ぞろぞろと椅子へ向かう。


 その顔は、恐怖と欲でごちゃ混ぜだった。


 実に人間らしい顔だった。




 黒い水膜の内側で、俺はその騒ぎを見ていた。


「荒れてるなあ」


『荒れているわね』


 ヴェルティアはどこか満足そうだった。


 第5層。


 湯煙の大洞窟。


 ホットスプリングガーディアン。


 湯溜まり。


 それらは、ちゃんと人間を揺らした。


 命を賭ける場所でありながら、命に直接関わらない報酬を置く。


 髪。


 肌。


 手。


 爪。


 匂い。


 自信。


 見栄。


 商売。


 恋。


 面子。


 人間はそういうものにも、ちゃんと狂う。


「やっぱ美容は強い」


『本当に面倒ね、人間は』


「でも、悪くないだろ」


『ええ。悪くないわ』


 黒い水膜の中では、マイラが記録を読み上げ、カティアが騒ぐ冒険者を黙らせ、クレスが冷静に危険性を説明している。


 ダリオは男冒険者たちに腕を見せろと言われて嫌そうな顔をしていた。


 シェラは爪を見られそうになって、静かに手を引っ込めている。


 ミルは湯溜まりという言葉を覚えたらしく、小さく何度も口の中で繰り返していた。


 表示が浮かぶ。


【第5層初期偵察帰還】


【湯溜まり効果認識】


【美容欲、清潔欲、護衛依頼欲、講習需要、商業欲、驚愕、羨望を獲得】


【獲得DP:1864】


【現在DP:3130】


 さらに表示が揺れる。


【貴族護衛需要の発生を確認】


【第5層講習需要の急増を確認】


【滞在欲、飲食欲、宿泊欲、情報欲を獲得】


【獲得DP:742】


【現在DP:3872】


「おお、入った」


『当然ね。これだけ騒がせたのだから』


「湯ってすごいな」


『湯だけではないわ。そこまで辿り着いた者の変化を、人間が見た。それが大きいのよ』


「実演販売みたいなもんか」


『また変な言い方をする』


「目の前で変化を見せられたら、そりゃ欲しくなるよな」


『ええ。そして、欲しがった者は考える。どうすればそこへ行けるか』


 俺は黒い水膜の中のグラントを見た。


 あの商人は、もう道を考えている。


 瓶を運ぶ道ではない。


 人を奥へ連れて行く道だ。


 それはきっと、今までとは違う金の流れを作る。


 紅肌の雫は、小瓶が外へ出た。


 琥珀の雫も、小瓶が外へ出た。


 だが、湯溜まりは違う。


 外へ出ない。


 だから、人が来る。


 人を連れて行くために、護衛が動く。


 講習が必要になる。


 宿が埋まる。


 酒場が賑わう。


 道具が売れる。


 村がまた忙しくなる。


 清水の迷宮は、ただ報酬を吐き出すだけの場所ではなくなる。


 奥へ行く理由を作る場所になる。


「次は、護衛ルールも必要だな」


『人間側が勝手に考えるでしょう』


「まあ、それもそうか」


『貴方が全部を決める必要はないわ。迷宮は場所を作る。人間は、その上で勝手に揉め、勝手に欲しがり、勝手に道を作る』


「言い方はひどいけど、だいたい合ってる」


 ヴェルティアは少しだけ笑った。


『でも、貴方は嬉しそうね』


「うん」


 俺は清水の酒場を見た。


 騒がしい。


 荒れている。


 頭を抱える村長。


 目を輝かせる商人。


 講習席へ押し込まれる冒険者。


 湯溜まりの効果を必死に記録するマイラ。


 見られるなと怒るカティア。


 静かに手を隠すシェラ。


 綺麗になったと言われて困るダリオ。


 平静に危険性を伝えるクレス。


 水を運ぶミル。


 全部が、迷宮の中にある。


「死にかけてた穴が、ずいぶん騒がしくなったな」


『ええ』


 ヴェルティアの声は、いつもより少し柔らかかった。


『これが、清水の迷宮よ』


 その日、清水の迷宮はまた一つ、外へ噂を流す種を得た。


 飲む雫。


 香る雫。


 そして、辿り着いた者だけを整える湯溜まり。


 清水の迷宮は、雫を売る迷宮から、人を奥へ連れて行く迷宮へ変わり始めた。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第5層帰還報告回でした。

戦闘の次は、酒場が戦場です。


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