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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第40話 第五層、門番戦


 第5層の初期偵察は、翌朝に行われることになった。


 清水の酒場は、いつもより少しだけ静かだった。


 人はいる。


 水を飲む者もいる。


 汁物を食べる者もいる。


 装備を整える者もいる。


 けれど、昨日までの浮ついた熱とは違う。


 第4層の報酬部屋に、下り階段が見つかった。


 その先には、狼型と蝙蝠型の魔物がいた。


 足場は悪くない。


 だが、向こうから来る。


 それだけで、冒険者たちの顔つきは変わった。


 琥珀の雫を抱えて、そのまま奥へ進む場所ではない。


 まずは、見る者が必要だった。


 クレスが立ち上がる。


 横にカティア。


 少し後ろに、ダリオとシェラ。


 大柄な槍使いと、灰色ローブの魔術師。


 さらに、マイラが記録板と治療用の布を抱えて立っていた。


「マイラも行くのか?」


 フィンが思わず声を出した。


 マイラは頷いた。


「治癒と記録です」


「でも、危ないだろ」


「だから行きます。危ない場所の記録は、帰ってきた人が残さないと意味がありません」


 フィンは何か言いかけて、口を閉じた。


 サナが短く言う。


「マイラは止まる」


 リオも頷いた。


「一番無茶しないもんな」


 ニーナが不安そうに杖を抱える。


「気をつけてください」


「はい」


 カティアがマイラを見た。


「後ろで見てろ。治療が必要な時は声を出せ。記録に夢中で足を止めるな」


「分かっています」


「分かってる奴ほど、書き始めると周りを忘れる」


「……気をつけます」


 ダリオが大きな槍を肩に担いだ。


「で、俺は押し返し役か」


 クレスが頷く。


「突進する敵がいる。槍の間合いが欲しい」


「了解」


 シェラは杖の先を軽く床に当てた。


「風で湯気を散らす。土で足を止める。火は使わない」


「頼む」


 カティアは短剣を確かめながら言った。


「上は見る。横も見る。後ろも見る。忙しいな」


「いつものことだろ」


「まあな」


 クレスは最後に、周囲の冒険者たちへ視線を向けた。


「攻略ではない。初期偵察だ。無理だと判断したら戻る」


 誰も茶化さなかった。


 仮受付の職員が記録する。


「第5層初期偵察。参加者、クレス、カティア、ダリオ、シェラ、マイラ。目的、地形確認、魔物確認、撤退基準作成」


 メリダが講習席で腕を組んでいる。


「戻ってきたら、そのまま講習だよ」


 カティアが鼻を鳴らした。


「戻ってきたらな」


「戻るために行くんだろ」


「そうだよ」


 その短いやり取りで、酒場の空気が締まった。


 ミルが水の入った小さな木杯を五つ運んできた。


「お水です!」


 クレスが受け取る。


「ありがとう」


 カティアも一口飲んだ。


 ダリオは一気に飲み干す。


 シェラは静かに口をつけた。


 マイラは両手で杯を持って、ゆっくり飲んだ。


 ミルが、いつもより少し小さな声で言う。


「いってらっしゃい」


 クレスは穏やかに笑った。


「行ってくる」


 その言葉を合図に、五人は第4層へ向かった。




 黒い水膜の内側で、俺は五人の背中を見ていた。


「行ったな」


『ええ』


 ヴェルティアも隣で水膜を見ている。


 彼女の顔つきは、いつもより真剣だった。


 第5層は、俺たちが作った。


 温泉を報酬にした。


 湯溜まりを安全地帯にした。


 帰還路らしき道も用意した。


 けれど、そこに辿り着くまでの道は迷宮だ。


 攻撃型モンスターを置いた。


 門番も置いた。


 それがどう動くか。


 人間がどう受けるか。


 今日、初めて分かる。


「クレス、強いんだよな」


『Bランクなのでしょう』


「うん。でも、ちゃんと見るのは久しぶりかもな」


『期待しているの?』


「してる」


 俺は正直に言った。


「今の清水の迷宮で、第5層の初手を任せるなら、クレスが一番安心できる」


『カティアもいるわ』


「もちろん。ダリオとシェラも強い。マイラも冷静だ」


『いい組み合わせね』


「ただ、門番は強めに作ったからな」


『当然でしょう。報酬の前に立つものが弱くてどうするの』


「そうだけどさ」


 黒い水膜の向こうで、五人は第4層を進んでいた。


 琥珀の貯蔵庫。


 甘い木の香り。


 広い通路。


 棚。


 樽。


 琥珀スライム。


 酔香蛾。


 第4層の魔物は、もう五人を止めるほどではなかった。


 ダリオの槍がスライムを弾き、シェラの風が蛾を払う。


 カティアが香りの濃い場所を避け、クレスが隊列を乱さない。


 マイラは黙って、時間と通路の特徴を記録している。


 琥珀の雫の報酬部屋へ着いた時も、五人は浮かれなかった。


 琥珀の雫が五本現れる。


 ダリオが一瞬だけ笑う。


「金貨五枚分だな」


 カティアが睨む。


「今は数えるな」


「分かってるよ」


 クレスは小瓶を確認し、壊れないよう布に包ませた。


「ここから先が本題だ」


 報酬棚の奥。


 白い鉱物筋が縁を走る下り階段。


 五人はそこへ向かった。




ーーーーside クレス


 階段を降りた瞬間、空気が変わった。


 第4層の甘い香りが薄れ、湿った温かさが肌に触れる。


 だが、不快ではない。


 むしろ、深呼吸したくなる。


 だからこそ、クレスは息を浅くした。


 心地よいものは、迷宮では判断を鈍らせる。


「シェラ」


「風、薄く流す」


 シェラが杖を振る。


 弱い風が前方へ伸びた。


 湯気が軽く揺れる。


 視界が開く。


 広い洞窟だった。


 白い鉱物筋が壁に走り、薄い光を放っている。


 足場は悪くない。


 むしろ戦いやすい。


 だが、戦いやすい場所は、相手も動きやすい。


「来る」


 カティアが言った。


 同時に、白い影が二つ走った。


 スチームウルフ。


 前回の報告通り、左右へ分かれる。


 片方は正面。


 片方は後衛側。


「ダリオ、正面」


「任せろ」


 ダリオの槍が前へ出る。


 スチームウルフが牙を剥き、湯気を散らして跳んだ。


 穂先がその胸を捉える。


 突きではない。


 受けて、押す。


 ダリオの腕に力が入る。


 スチームウルフの爪が床を削った。


「重いな!」


 横へ回った一体は、マイラへ向かった。


 クレスは一歩だけ動いた。


 一歩だけ。


 だが、その一歩で、スチームウルフの進路に入る。


 剣を抜く音は小さい。


 次の瞬間、白い影の前脚が斬られていた。


 スチームウルフが体勢を崩す。


 クレスは追わない。


 首筋ではなく、後脚の腱に見える白い筋を斬る。


 魔物が床に落ちた。


 マイラが息を飲む。


 クレスは振り返らずに言った。


「記録」


「はい。スチームウルフ、後衛狙い。脚部の白い筋に斬撃有効」


「上」


 カティアの声。


 クレスは剣を返した。


 スチームバットが落ちてくる。


 クレスは見上げない。


 床に落ちる影を見る。


 影が肩へ重なった瞬間、半歩下がり、剣を上へ払った。


 翼の膜が裂ける。


 スチームバットが軌道を失い、カティアの前に落ちた。


「遅い」


 カティアの短剣が喉元を貫いた。


 ダリオが正面のスチームウルフを壁へ押しつけ、槍を引いてから突き直す。


 胸を貫かれた魔物が湯気になって崩れた。


「入口でこれかよ」


 ダリオが笑う。


 笑っているが、目は笑っていない。


 クレスは剣を下げたまま言った。


「進む。無理なら戻る」


「了解」


 マイラの筆が走る。


 シェラが風を流し続ける。


 カティアは一番前ではない。


 少し横。


 少し影。


 そこから、音と動きを拾っている。


「右奥、硬い音」


 かちん。


 かちん。


 ミネラルクラブが、岩陰から姿を出した。


 白い鉱物殻の蟹型。


 横歩きで速い。


 鋏が大きい。


 武器を挟みに来る形だ。


「武器を取られるな」


 クレスの言葉より早く、ミネラルクラブがダリオの槍へ鋏を伸ばした。


 ダリオは槍を引かない。


 逆に押し込む。


 鋏が閉じる前に、柄で殻を叩く。


 鈍い音。


「硬い!」


「腹」


 カティアが滑り込むように横へ入った。


 短剣が甲羅ではなく、脚の付け根へ入る。


 ミネラルクラブが傾く。


 シェラが土を盛り上げた。


 小さな段差。


 それだけで、横歩きの軌道が乱れる。


 クレスが踏み込んだ。


 剣先が腹側へ入る。


 硬い甲羅を無理に割らない。


 動いた時だけ見える薄い隙間。


 そこを斬る。


 ミネラルクラブが砕けるように崩れた。


「硬い敵は、割るな。開いたところを斬れ」


 クレスが言う。


 マイラが記録する。


「ミネラルクラブ、甲羅高耐久。脚付け根、腹側有効。土による横移動阻害有効」


 ダリオが感心したように言った。


「よく見えるな、そんな隙間」


 クレスは短く答える。


「見える位置に動かす」


 その言葉に、ダリオが少し笑った。


「なるほど。Bランクは言うことが怖い」


 カティアが鼻を鳴らす。


「怖いんじゃねえ。慣れてるんだよ」


 そこへ、岩場の上から石が飛んできた。


 ロックエイプ。


 小柄な猿型モンスターが、岩の上を跳ねている。


 石はマイラを狙っていた。


 クレスが剣で弾く。


 火花が散る。


 続けて二つ。


 三つ。


 全部、クレスの剣が落とした。


 マイラは反射的に身を縮めたが、倒れない。


「記録は後でいい。今は足を止めるな」


「はい」


 シェラが杖を上げる。


「風」


 短い言葉。


 風が岩場を叩く。


 ロックエイプが体勢を崩す。


 カティアの投げた短剣が、その肩へ刺さる。


 逃げようとしたところを、クレスが駆けた。


 速い。


 洞窟の床を蹴る音が一つ。


 岩場へ足をかける音が一つ。


 次の瞬間、クレスはロックエイプの真下にいた。


 剣が上へ走る。


 魔物が湯気を散らして消える。


 クレスは着地して、周囲を見た。


「次」


「左、熱」


 カティアが言った。


 ホットウォーターリザードが壁に張りついていた。


 喉が膨らむ。


 熱水弾。


 シェラの風では散らしきれない。


「盾!」


 ダリオが槍を下げ、盾役ではないのに体を入れようとする。


 だが、クレスが先に動いた。


 剣の腹で熱水弾を受けるわけではない。


 受ければ弾ける。


 クレスは剣先で軌道を逸らした。


 ほんの少し。


 熱水弾はマイラの横を抜け、岩に当たって蒸気を上げた。


 マイラの頬に熱が触れる。


 クレスはすでに前へ出ている。


「シェラ、壁」


「土」


 壁際の岩が少し盛り上がる。


 ホットウォーターリザードの足場が傾いた。


 そこへクレスの剣が届く。


 腹を斬る。


 尻尾が跳ねる。


 クレスは上体を反らして避け、返す刀で首の下を斬った。


 魔物が崩れる。


 ダリオが息を吐いた。


「今の、熱水を斬ったのか?」


「逸らしただけだ」


「それを普通に言うなよ」


 カティアが短く笑った。


「だからBだ」


 マイラは、筆を握る手に力を入れた。


 記録しなければならない。


 だが、目が追いつかない。


 クレスの動きは派手ではない。


 叫ばない。


 大きな技名もない。


 ただ、必要な場所にいる。


 必要な一撃を入れる。


 必要な時に、必要な分だけ動く。


 それが、異様に強い。


「マイラ」


 クレスの声で、マイラは顔を上げた。


「はい」


「見えなかったところは、見えなかったと書け」


「……はい」


「正確な記録の方が役に立つ」


 マイラは頷いた。


「クレスさんの動き、速すぎて一部追えませんでした」


「それでいい」


 ダリオが笑う。


「本人の前で言うの強いな」


 マイラは真面目な顔で答えた。


「記録なので」


 カティアが少しだけ口元を緩めた。


「いい根性だ」


 その時、奥から重い足音が響いた。


 どん。


 どん。


 それまでの魔物とは違う。


 洞窟そのものが、足音に合わせて低く鳴る。


 湯気が、奥から押し寄せた。


 シェラが風を流す。


 視界が開く。


 白い鉱物殻。


 青白い湯脈。


 肩と背中から噴き上がる蒸気。


 巨大な腕。


 胸の中心に、渦を巻く青白い光。


 ホットスプリングガーディアン。


 湯溜まりの手前に立つ門番が、五人の前に現れた。


 ダリオが槍を握り直す。


「……でかいな」


 カティアが短く言う。


「六、いや七メル近い」


 シェラが目を細めた。


「胸の光。魔力が集まってる」


 マイラは記録板を抱えたまま、声を震わせずに言った。


「大型人型。白色鉱物殻。胸部に青白いコア。肩と背中に蒸気孔」


 クレスは剣を構えた。


「戻るか、見るか」


 カティアが即答する。


「こいつを背にして戻る方が危ねえ」


 ダリオが笑う。


「同感だ。あの腕、逃げる背中に来たらまずい」


 シェラが頷く。


「蒸気で視界を消される。退くなら、崩してから」


 マイラも言った。


「撤退路を作るためにも、動きを見る必要があります」


 クレスは静かに息を吐いた。


「なら、やる」


 ホットスプリングガーディアンが動いた。


 右腕が上がる。


 遅い。


 だが、大きい。


 振り下ろされた拳が床を叩いた瞬間、蒸気が爆ぜた。


 白い壁。


 視界が消える。


「散らす!」


 シェラの風が走る。


 だが、完全には消えない。


 白い中から、巨大な左腕が横へ薙いだ。


 ダリオが叫ぶ。


「来るぞ!」


 槍では止まらない。


 受ければ折れる。


 クレスが前へ出た。


 腕の正面ではない。


 振り抜かれる軌道の内側。


 巨大な腕が最も力を出しにくい場所。


 そこへ入り、剣を関節の隙間へ滑らせる。


 斬る。


 青白い湯脈が裂け、蒸気が噴いた。


 腕の勢いがわずかに落ちる。


 ダリオが槍を押し当て、軌道をさらに逸らす。


 腕は五人の横を通り、岩壁を叩き砕いた。


「今ので逸らせるのかよ!」


 ダリオが叫ぶ。


 クレスは答えない。


 もう次を見ている。


「カティア、右膝。ダリオ、左を止める。シェラ、胸の蒸気を散らせ。マイラ、距離を取れ」


「了解」


「おう!」


「分かった」


「はい!」


 ホットスプリングガーディアンの胸のコアが光った。


 肩の噴気孔が開く。


 高温の蒸気が前方へ噴き出す。


「伏せるな、横!」


 クレスの声。


 全員が横へ散った。


 蒸気は前方を白く焼くように流れる。


 岩肌が濡れ、すぐに乾く。


 直撃すれば、皮膚がただでは済まない。


 カティアは右側から潜り込んだ。


 短剣で膝裏の鉱物の隙間を探る。


「硬い!」


 刃が弾かれる。


 だが、弾かれた音で分かる。


 硬い場所と、少し薄い場所。


 カティアは二本目の短剣を逆手に持ち、薄い場所へ刺した。


 青白い光が漏れる。


「ここだ!」


 ダリオが左脚へ槍を打ち込む。


 突き刺すのではなく、押さえる。


 巨体の重心がほんの少しずれる。


 シェラが土を盛り上げた。


 左足の外側に、小さな岩の楔。


 巨大な足が踏み直そうとして、引っかかる。


 その一瞬。


 クレスが走った。


 真正面。


 危険な場所。


 だが、胸のコアへ届く最短。


 ホットスプリングガーディアンの右腕が戻る。


 クレスを潰す軌道。


 マイラが叫んだ。


「右腕、戻ります!」


 クレスは聞いていた。


 だが止まらない。


 剣を低く構え、床すれすれを走る。


 右腕が迫る。


 その腕に向かって、クレスは斬り上げた。


 腕を断つ一撃ではない。


 蒸気孔。


 関節のすぐ下。


 そこを斬る。


 噴き出した蒸気が腕の内側で暴れ、巨腕の軌道が乱れた。


 拳がクレスの背後を砕く。


 石片が飛ぶ。


 その中を、クレスは前へ抜けた。


「化け物かよ」


 ダリオが呟いた。


 カティアが膝裏に刺した短剣をねじりながら言う。


「味方でよかっただろ」


「本当にな!」


 ホットスプリングガーディアンが、胸のコアを守るように両腕を引いた。


 防御。


 ただの魔物ではない。


 守る場所を理解している。


 クレスは足を止めた。


「硬いな」


 カティアが叫ぶ。


「胸は正面から無理だ!」


 シェラが杖を掲げる。


「蒸気を逆に使う」


「できるか」


「一瞬」


「十分」


 シェラが風を巻いた。


 ただ散らす風ではない。


 ホットスプリングガーディアン自身が噴き上げる蒸気を、胸元へ押し返す。


 白い蒸気が、顔と胸の間に渦を作った。


 視界が歪む。


 青白いコアの光が、蒸気の中で揺れる。


 ホットスプリングガーディアンの反応が、一瞬遅れた。


 ダリオが槍を投げるように突き出す。


 狙いは胸ではない。


 腕。


 コアを守る左腕の手首。


 槍の穂先が鉱物の隙間へ入り、腕を押し上げる。


「今だ!」


 カティアが右膝の短剣を抜き、背中側へ走る。


 背中の噴気孔。


 そこへ短剣を一本投げた。


 刃が孔を塞ぐ。


 蒸気の逃げ場が乱れる。


 ホットスプリングガーディアンの胸の光が強くなった。


 暴走ではない。


 詰まり。


 循環の乱れ。


 マイラが叫ぶ。


「コアの光、脈が乱れています!」


 クレスは、その言葉で踏み込んだ。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で、床を蹴る。


 巨体の胸へ向かって跳ぶ。


 ホットスプリングガーディアンの右腕が落ちる。


 上から潰す拳。


 クレスは空中で体をひねった。


 拳を避ける。


 避けながら、拳の側面を足場にした。


 一瞬だけ。


 巨腕を踏んで、さらに上へ。


 誰も声を出せなかった。


 クレスは胸の前にいた。


 青白いコア。


 渦巻く湯脈の中心。


 剣が、まっすぐ入る。


 音は小さかった。


 硬いものを叩き割る音ではない。


 水面へ刃を差し込むような音。


 青白い光が、剣に沿って走った。


 ホットスプリングガーディアンの動きが止まる。


 クレスは剣を抜かない。


 そのまま、さらに半歩分だけ押し込む。


「止まれ」


 静かな声だった。


 命令ではなく、決着の言葉。


 コアの光が大きく揺れた。


 胸の湯脈が、ひび割れるように広がる。


 肩の蒸気が止まった。


 腕が落ちる。


 巨体が膝をついた。


 洞窟が震える。


 クレスは胸から剣を抜き、崩れる巨体を蹴って後ろへ跳んだ。


 ホットスプリングガーディアンは、膝をついたまま、ゆっくりと石像のように固まった。


 青白い光が細くなり、胸の奥へ沈む。


 そして、静かに消えた。


 長い沈黙。


 誰かが息を吐いた。


 ダリオだった。


「……強すぎるだろ」


 クレスは剣を振って蒸気を払った。


「一人では無理だった」


「その言い方がもう強いんだよ」


 カティアが短剣を回収しながら言う。


「ぼさっとすんな。周囲確認」


「はいはい」


「はいは一回」


「おっと」


 マイラが記録板を抱えたまま、少しだけ膝を震わせていた。


 それでも書く。


「ホットスプリングガーディアン。大型人型。胸部コア。関節、噴気孔、循環阻害有効。蒸気視界遮断。打撃極めて重い。単独での交戦不可」


 そこで筆が止まる。


 マイラはクレスを見た。


「クレスさんの動きは、一部記録不能です」


 ダリオが吹き出した。


「正直でいいな」


 クレスは少しだけ笑った。


「それも記録しておけ」


「はい。記録不能な速度の接近、胸部コアへの直接攻撃」


 カティアが呆れたように言った。


「後で読んだ奴が真似するな」


 マイラはすぐに書き足す。


「模倣非推奨」


「よし」


 シェラが奥を見た。


「道、開いてる」


 ホットスプリングガーディアンの背後。


 白い鉱物の壁が、静かに開いていた。


 その奥から、湯気が流れてくる。


 今までの戦闘の蒸気とは違う。


 柔らかい。


 熱すぎない。


 湿った空気の向こうに、水音があった。


 ぽこり。


 ぽこり。


 湯が湧く音。


 五人は顔を見合わせた。


 カティアが短く言う。


「まだ警戒」


 クレスが頷く。


「進む。ただし、戦闘態勢は解かない」


 ダリオが槍を構え直す。


 シェラが風を薄く流す。


 マイラが記録板を胸に抱える。


 奥へ進む。


 白い鉱物の通路を抜けた先に、広い空間があった。


 そこには、湯があった。


 丸く広がる湯溜まり。


 白い石に囲まれ、青白い湯気を静かに上げている。


 水面は穏やかで、戦闘の音が嘘のように遠い。


 魔物の気配はない。


 足元も安定している。


 ダリオが湯溜まりを見て、低く笑った。


「これ、貴族の風呂みたいなもんか?」


 カティアが即座に言う。


「知らねえよ。あたしは貴族じゃねえ」


「俺も違う」


「なら余計なこと言うな」


 シェラが杖を掲げた。


「魔力は静か。敵意はない。湯そのものに毒気もないと思う」


 マイラが湯の近くに膝をつき、少しだけ指先を近づけた。


 湯気が指先を撫でる。


「熱すぎません。肌に触れても痛みはありません。刺激も強くないです」


 クレスは周囲を確認した。


 湯溜まりの奥には、淡い水紋のような道が見える。


 だが、今は湯の確認が先だ。


 魔物の気配はない。


 けれど、全員で気を抜くわけにはいかない。


 ここが安全そうに見えても、冒険者は安全を決めつけない。


「交代で確認する。先に女性組。俺とダリオが通路側を見る」


 ダリオが頷いた。


「了解。背中向けとく」


 カティアが目を細める。


「向けてなかったら沈めるぞ」


「分かってるって。冒険者の礼儀くらいある」


「ならいい」


 シェラが静かに、けれど少しだけ早口で言った。


「湯気がある。岩陰もある。十分に隠れる」


 マイラは記録板を胸に抱えたまま、湯溜まりを見ていた。


 その目が、ほんの少しだけ輝いている。


 いつも通り冷静な顔をしている。


 しているが、視線が湯から離れない。


 カティアがそれに気づいた。


「マイラ」


「はい」


「顔」


「え?」


「緩んでる」


「……気のせいです」


 シェラが短く言う。


「緩んでる」


 マイラは少しだけ頬を赤くした。


「記録対象なので」


「便利な言い訳だな」


 カティアはそう言いながら、湯溜まりを見た。


 その表情も、少しだけ柔らかい。


 戦闘で乱れた髪。


 蒸気と汗で張りついた服。


 荒れた指先。


 泥と鉱物粉。


 それらを見れば、湯に入りたいと思わない方がおかしい。


 クレスとダリオは、通路側へ背を向けた。


 剣と槍は手放さない。


 視線は通路へ。


 耳は周囲へ。


 女性組は岩陰と湯気に隠れるように、装備を外していった。




 湯音がした。


 小さな息を飲む音。


 それから、シェラの声。


「……温かい」


 いつもの短い声。


 けれど、少しだけほどけていた。


 マイラが続く。


「肌に、染みるような感じです。でも痛みはありません。刺激も強くない」


 カティアはしばらく何も言わなかった。


 湯が揺れる音だけがする。


 やがて、低く呟いた。


「……絡まねえ」


 シェラが髪を指で梳く。


「私も」


 マイラの声が、少し高くなる。


「手のかさつきが、薄いです」


 本人は抑えているつもりなのだろう。


 でも、隠しきれていない。


「治癒ではありません。切り傷はそのままです。疲労も残っています。でも、皮膚の表面が整っています。指先の硬さが、少し……」


 そこで言葉が止まった。


 カティアが聞く。


「どうした」


「すみません。少し驚きました」


 カティアが言う。


「記録、忘れてんじゃねえぞ」


「忘れていません」


「声が浮いてる」


「……記録します。湯溜まり、肌表面の荒れを改善。軽いかさつき、ひび割れに効果あり。傷の治療なし。疲労回復なし」


 シェラが静かに言った。


「爪も」


「え?」


「爪の筋が薄い。割れかけていた端が整ってる」


 マイラの声が、さらに真剣になる。


「爪にも効果。割れ、くすみ、表面の乱れが整う。戦闘強化の感覚は?」


「ない」


 シェラが即答した。


「でも、気分はいい」


 それを聞いて、カティアが小さく笑った。


「シェラがそれ言うの、相当だな」


「事実」


「だな」


 また湯が揺れる。


 マイラが今度は小さく、ほとんど自分に言うように呟いた。


「髪が……指に引っかかりません」


 カティアが言った。


「ああ」


 短い。


 それだけ。


 でも、その声には、普段の棘がなかった。


 シェラも髪を指で梳いているらしい。


 湯音の奥で、わずかに息を吐く音がした。


「これは」


 マイラが言う。


「これは、かなり……」


「すごい、か?」


 カティアが聞いた。


 少し意地悪な声。


 マイラは少しだけ黙ってから、答えた。


「……はい。すごいです」


 シェラが続ける。


「すごい」


 カティアは黙った。


 沈黙。


 そして、ぼそりと言った。


「まあ、悪くねえ」


 通路側では、クレスとダリオが背を向けたまま警戒を続けていた。


 ダリオが小声で言う。


「静かだな」


 クレスも通路から目を離さずに答える。


「警戒を切るな」


「分かってる」


 その後は、湯音だけが続いた。


 しばらくして、カティアが女性組だけに聞こえる声で言った。


「上がるぞ。長居するな」


「はい」


「分かってる」


 女性組は湯から上がった。


 湯気の向こうで装備を整える気配がする。


 やがて、三人が戻ってきた。


 クレスは一瞬だけ目を向け、すぐに通路へ戻した。


 だが、分かった。


 変わっている。


 カティアの髪は、戦闘後とは思えないほど指通りがよさそうだった。


 頬の煤けた感じが消え、肌のざらつきが薄い。


 シェラの灰色ローブはそのままだが、露出している手の甲が白く落ち着いている。


 爪の先が整っていた。


 マイラは、明らかに違った。


 疲れは残っている。


 目元も戦闘後のままだ。


 だが、肌のくすみが抜け、指先の荒れが目立たない。


 本人は必死に平静を保っているが、記録板を持つ手を何度も見ている。


 カティアがクレスの視線に気づいた。


「確認は後だ」


「分かった」


 ダリオは前を向いたまま動かない。


「俺は見てない」


「ならそのままでいろ」


「はい」


 マイラが記録板を開いた。


「次、男性組です。効果差を確認する必要があります」


 カティアが腕を組む。


「楽しそうだな」


「記録です」


「便利な言葉だな」


 シェラが短く言う。


「本当に記録は必要」


 カティアは鼻を鳴らした。


「分かってるよ」


 今度はクレスとダリオが湯溜まりへ向かった。


 女性組が通路側に立つ。


 カティアは短剣を抜き、シェラは杖を持ち、マイラは治療布を手元に置いたまま記録板を抱えた。


 敵は来ない。


 それでも、見張る。


 それが冒険者だ。




 クレスは湯に入って、最初に息を止めた。


 温かい。


 ただ温かいだけではない。


 戦闘で張っていた皮膚の表面が、ゆっくりほどける。


 疲れは消えない。


 腕の重さも残っている。


 ガーディアンの打撃を避け続けた脚の張りもある。


 だが、肌の表面にまとわりついていた汗と鉱物粉の不快感が、湯に溶けるように消えていく。


「……これは」


 ダリオが隣で、完全に声を漏らした。


「やばいな」


「語彙」


「いや、これはやばいだろ。俺、風呂って貴族が入るもんだと思ってたんだが」


「だいたい合っている」


「じゃあ今、俺かなり貴族じゃねえか?」


「湯に入っただけで貴族にはならない」


「夢がないな、クレス」


 クレスは少しだけ笑った。


 自分の手を見る。


 剣を握る手。


 硬い。


 傷もある。


 古い傷は消えていない。


 だが、表面のざらつきが薄い。


 爪のくすみも落ち着いている。


「傷は治らない」


「だな」


 ダリオが自分の腕を見ながら言う。


「疲れも消えねえ。でも、手が変わる」


「強化ではない」


「ああ。力が増えたわけじゃない。ただ、不快感がない」


 クレスは頷いた。


「それは大きい」


 湯の中で気を抜きそうになる。


 だから、クレスは時間を意識した。


 第4層の香りと同じだ。


 危険ではない。


 だが、心地よさは足を止める。


「長く入る場所ではないな」


「気持ちいいのにか?」


「気持ちいいからだ」


 ダリオは少し考え、それから苦笑した。


「なるほど。講習行きだな」


「そうなる」


「温泉に入ってる時まで講習の材料にするのか」


「生きて帰るためなら、する」


「真面目だねえ」


「お前も戻ったら言う側だ」


「分かってるよ」


 通路側では、女性組が声を潜めていた。


 カティアが前を見たまま言う。


「敵影なし」


 シェラが杖を握ったまま頷く。


「魔力も変化なし」


 マイラは記録板を閉じたまま、手の甲を一度だけ見た。


 カティアが横目でそれを見る。


「まだ見てんのか」


「……確認です」


「嬉しいなら嬉しいって顔しとけ」


「任務中です」


「顔に出てる」


 シェラが短く言う。


「出てる」


 マイラは口を閉じた。


 それでも、少しだけ唇の端が上がっていた。


 やがて、クレスとダリオが湯から上がった。


 装備を整える。


 濡れた髪を軽く拭く。


 そこで、ダリオが自分の腕を見て固まった。


「……俺、ちょっと綺麗じゃねえか?」


 カティアが眉をひそめる。


「自分で言うな」


「いや、でも見ろよ。見ろって言うのも変だが、腕が」


 実際、変わっていた。


 戦闘で汗と鉱物粉にまみれていたはずの腕が、妙にさっぱりしている。


 荒れて白くなっていた手の甲も落ち着いている。


 ダリオの髪も、いつもよりまとまりがいい。


 大柄な槍使いが、妙に清潔感をまとっている。


 カティアは一瞬だけ見て、すぐに顔をそらした。


「……男にも効くのか」


 マイラが真剣に頷いた。


「効くようです」


 シェラが短く言う。


「大きい」


 クレスも装備を整えながら、自分の手を見る。


 傷は残っている。


 疲れも残っている。


 だが、肌と髪は明らかに整っていた。


 ただの贅沢ではない。


 身だしなみ。


 清潔感。


 戦闘後の不快感の軽減。


 これは、冒険者にも価値がある。


 貴族や商人なら、さらに欲しがるだろう。


 だが、それはまだ口にしなかった。


 今は戻る。


 報告する。


 余計な判断は、第1層でいい。


 五人は、湯溜まりの奥へ向かった。


 淡い水紋のような道が、白い石床の先に続いている。


 通路というより、清水の流れを薄く固めたような光だった。


 その横の壁に、短い文字が浮かんでいる。


【1層へ】


 ダリオが眉をひそめた。


「なんだ、これは」


 シェラが杖を向け、光る道をじっと見る。


「転移路……に近い。魔力の流れが奥へ行っていない。外へ抜けてる」


 マイラが記録板を開いた。


「壁文字、一層へ。湯溜まり奥に水紋状の道。第1層への帰還路の可能性」


 カティアが短剣を抜いたまま、道の手前で足を止める。


「可能性、か」


「断定はできません」


 マイラが答える。


「ただ、進行方向を示す文字がある以上、罠よりは帰還用と見るのが自然です」


 ダリオが槍を担ぎ直した。


「ここから戻れるのか?」


 クレスは光る道を見た。


 水の気配。


 第1層の清水に似た、澄んだ魔力。


 奥へ誘う圧ではない。


 戻れ、と示す静かな流れ。


「試す価値はある」


 カティアが鼻を鳴らした。


「戻れなかったら?」


「その時は、また第5層の記録が増える」


 シェラが淡々と言った。


 ダリオが顔をしかめる。


「怖いこと言うなよ」


 クレスは剣を握り直した。


「最後まで気を抜くな。戻るまでが偵察だ」


 五人は、光る水紋の道へ足を踏み入れた。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第5層、門番戦と湯溜まり確認でした。

帰ってからが、また大変です。


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