第39話 第五層、湯煙の大洞窟
外へ出た二つの雫は、よく働いた。
紅肌の雫は、プロンテラで値段になった。
琥珀の雫は、王都へ向かう酒瓶になった。
その結果、清水の迷宮には人が増えた。
冒険者。
商人。
荷運び。
見物気分の者。
依頼札を見て目の色を変えた者。
そして、講習席に座らされて渋い顔をする者。
清水の間は、朝から音が多い。
水の音。
椅子を引く音。
革紐を締め直す音。
剣帯を直す音。
汁物の鍋をかき混ぜる音。
ミルの声。
「お水です!」
「ありがとう」
「泡のお水は、ジョッキ貸出銅貨二枚です!」
「しっかりしてるなあ」
「お母さんに教わりました!」
いいことだ。
迷宮の入口に、人の生活音がある。
最初は死にかけの穴だった場所が、今では水を飲み、飯を食い、装備を直し、講習を受けてから奥へ行く場所になっている。
けれど、人が増えると、次がいる。
第3層を越える者が増えた。
第4層へ入れる者も増えた。
琥珀の雫を持ち帰るパーティも、少しずつ出てきた。
なら、その先を作る時だ。
黒い水膜の内側で、俺は腕を組んでいた。
「第5層、作るか」
『ええ。外から流れてきた欲を受け止めるには、次の器が必要ね』
ヴェルティアは当然のように頷いた。
こういう時の彼女は強い。
迷いがない。
誇り高いダンジョンコアの顔だ。
「ただ、第5層は雫じゃない」
『持ち帰る報酬ではないのね』
「うん。温泉にする」
『温泉』
ヴェルティアが少しだけ目を細めた。
この世界にも風呂の概念はある。
ただし、貴族や富裕層のものだ。
一般の人間が毎日湯船に浸かるような文化ではない。
水浴び。
もしくは、沸かした湯で体を拭く。
普通はそれで済ませる。
だから、俺の言う温泉は、この世界の感覚だと少し贅沢すぎる。
「湯に浸かる場所だな。奥に湯が溜まっていて、そこに入ると体が整う」
『湯溜まりね』
「冒険者側から見たら、そうなると思う」
『効果は?』
「髪のぱさつき、絡まり、くすみを整える。薄毛治療とか発毛じゃない」
『髪を整えるだけ』
「手肌の荒れ、かさつき、軽いひび割れも整える。でも傷の治療じゃない」
『治療ではなく、整える』
「爪の割れやくすみも整える。戦闘強化ではない」
『爪が武器になるわけではないのね』
「ならない。汗や泥臭さを軽くして、清潔な香りを残す。香水ほど強くない」
『迷宮帰りの臭い対策ね』
「かなり大事だぞ。あと、全身の肌荒れ、ニキビ、ニキビ跡も改善する」
『範囲が広いわ』
「その代わり、持ち帰れない」
俺は指を一本立てた。
「汲んで持ち帰っても、効能は消える。ただのお湯になる。そこに辿り着いて、そこで浸かった時だけ効く」
『現地報酬』
「そういうこと」
ヴェルティアは少し考えた。
『人間は、それを欲しがるの?』
「俺のいた世界でも、美容に金をかける人間は五万といたからな。髪、肌、手、爪、匂い。命に関わらなくても、そこに金を出す奴は普通にいる」
『命に関わらないものに?』
「関わるんだよ。自信とか、見栄とか、商売とか、恋とか、面子とか。人間はそういうものにも、けっこう命を削る」
『……本当に面倒な生き物ね』
「そこは否定しない」
紅肌の雫が売れた時点で、それはもう見えている。
顔色がよくなる。
肌のくすみが薄くなる。
唇の色が戻る。
それだけで、人は動いた。
なら、髪、手、爪、肌、匂いがまとめて整う温泉は、もっと人を動かす。
ただし、簡単には渡さない。
ここは迷宮だ。
「第5層は広い洞窟型にする」
『足場は?』
「悪くしない。足を取る細工もなし。滑る床も絡む蔦もなし」
『では、何で試すの?』
「戦闘」
黒い水膜に、広い空洞を思い描く。
高い天井。
白い鉱物の筋。
薄く漂う湯気。
安定した床。
岩場。
広間。
横道。
逃げ道。
そして、攻撃的なモンスター。
「第5層まで来るなら、正面から来る敵を捌けないと困る。第3層で戻る判断、第4層で欲に足を止めない判断。次は、戦闘と連携だ」
『いいわ。広い洞窟で、魔物が向こうから来る』
「スチームウルフ、スチームバット、ミネラルクラブ、ホットウォーターリザード、スチームボア、ロックエイプ、ミネラルゴーレム、レッドスプリングスライム」
『多いわね』
「多めにする。入口からいきなり全部じゃないけど、戦闘階層だと分かるくらいには」
『門番は?』
「ホットスプリングガーディアン」
俺は黒い水膜の奥に、大きな影を置いた。
白い鉱物殻をまとった大型の人型モンスター。
胸に青白い湯脈のようなコア。
肩と背中から噴く白い蒸気。
重い腕。
関節の隙間。
湯溜まりへ向かう前に立つ、門番。
『守護者、ということね』
「そう。報酬部屋の手前に置く。倒した者だけが温泉に辿り着く」
『報酬部屋は安全地帯にするのね』
「うん。湯に浸かっている時に襲われたら、整えるどころじゃない」
『それはそうね』
「それと、温泉の奥に第1層へ戻る一方通行の帰還路を作る」
『戻るためだけの道』
「そう。第1層側からは入れない。報酬部屋まで辿り着いた者だけが戻れる道」
『到達した者への帰還報酬も兼ねるのね』
「湯上がりでまた戦って戻るのは、さすがにしんどいからな」
『貴方らしい配慮ね』
「温泉は帰るまでが温泉です」
『よく分からないけれど、言いたいことは分かるわ』
黒い水膜に、青白い表示が浮かんだ。
【第5層構想】
【湯煙の大洞窟】
【広域洞窟型】
【足場安定】
【攻撃型モンスター多数】
【報酬部屋:湯溜まり】
【報酬部屋安全地帯】
【第1層への一方通行帰還路】
【壁文字なし】
【門番個体:ホットスプリングガーディアン】
続けて、設置位置が浮かぶ。
【第5層入口】
【第4層報酬部屋奥】
【下り階段として形成】
表示が切り替わった。
【必要DP:4300】
【現在DP:5566】
「高いな」
『高いわね』
「でも、半端に作る場所じゃない」
『同感よ』
俺は少し息を吸った。
DPを使う時は、いまだにちょっと緊張する。
会社員時代に、大きい買い物の決裁ボタンを押す時の感じに似ている。
胃がきゅっとする。
でも、今は俺が迷宮主だ。
「生成」
【DPを4300消費しました】
【現在DP:1266】
【第5層:湯煙の大洞窟】
【生成完了】
黒い水膜が大きく波打った。
第4層。
琥珀の貯蔵庫。
その奥にある報酬部屋。
琥珀の雫が出現する棚のさらに奥、今までただの壁だった場所に、静かに影が落ちる。
壁が割れるのではない。
崩れるのでもない。
石が、水に削られたように形を変え、下へ降りる階段になる。
白い鉱物筋が、階段の縁に細く走る。
その先は暗い。
だが、黒い水膜の視点では中が見える。
広い洞窟。
高い天井。
岩場。
薄い湯気。
走るスチームウルフ。
天井近くを旋回するスチームバット。
岩陰で鋏を鳴らすミネラルクラブ。
さらに奥。
湯気の向こうで、動かず立つ大きな影。
ホットスプリングガーディアン。
第5層が、そこにできた。
「できたな」
『ええ』
「第1層側は?」
『直接の変化はないわ』
黒い水膜に第1層が映る。
清水の間は、いつも通り騒がしい。
新しい入口はない。
温かい空気も届かない。
湯気もない。
匂いもない。
ただ、ニーナがふと顔を上げた。
酒場の隅で、杖を抱えていた彼女が、首を傾げる。
「……何か、変わった?」
フィンが水を飲みながら聞く。
「何が?」
「魔力の流れが、少しだけ違う気がします」
サナが入口の方を見る。
「どこ?」
「分からないです。たぶん、奥の方」
マイラが記録板に目を落とす。
「迷宮変化の可能性。詳細不明」
リオが少し身を乗り出した。
「新しい何かか?」
カティアがすぐに言った。
「分からねえなら騒ぐな。報告が出るまで待て」
「はい」
最初にその階段を見つけたのは、昼過ぎに第4層へ入った四人組だった。
Cランクが二人、Dランクが二人。
清水の迷宮には最近来たばかりだが、第3層を越え、第4層の入場記録を持っている。
目的は琥珀の雫。
依頼札を見て来た組だ。
第4層は、彼らにとって油断できないが、無理ではない階層だった。
琥珀の香りで足を止めそうになりながらも、時間を決めて進んだ。
琥珀色の棚。
甘い木の香り。
琥珀スライム。
酔香蛾。
樽をかじる小さな魔物。
そうしたものを相手にしながら、彼らは報酬部屋へ辿り着いた。
琥珀の雫、四本。
小瓶が四つ、静かに現れる。
「よし」
「これで金貨四枚か」
「数えるな。手が震える」
「封を確認して、すぐ戻るぞ」
その時、斥候役の女が奥を見た。
「待って」
「どうした」
「階段がある」
四人の視線が、報酬棚のさらに奥へ向いた。
そこには、下り階段があった。
白い鉱物筋が縁を走る、見慣れない階段。
「……聞いていた報酬部屋の話には、なかったな」
「仮受付でも、階段の話は聞いていない」
「新しい道か?」
「第5層……かもしれない」
「決めつけるな」
リーダー格の男が低く言った。
「少しだけ確認する。奥へは行かない」
「琥珀は?」
「持つ。だが、階段を少し降りて、見えたものだけ確認したら戻る」
黒い水膜の内側で、俺は思わず背筋を伸ばした。
「お、見つけた」
『早かったわね』
「琥珀の雫狙いが増えてるからな」
『ちょうどいいわ。入口確認にはなる』
「無理はするなよ」
『貴方が言うのね』
「言うよ。死なれるより、報告を持って戻ってほしい」
ヴェルティアは少しだけ目を細めた。
『迷宮主らしくなったわね』
「褒めてる?」
『少しだけ』
「少しかあ」
四人組は、慎重に階段を降りた。
階段の先は、広かった。
洞窟。
ただの通路ではない。
天井が高く、奥へ向かって大きく開けている。
白い鉱物の筋が、壁を淡く照らしている。
足場は悪くない。
石の床は安定している。
岩場はあるが、引っかけるための罠ではない。
戦う場所だ。
そう分かる。
斥候役が短く言った。
「広い」
盾役が前に出る。
「匂いは?」
「第4層みたいな酒の香りは薄い。湿ってる」
魔術師が杖を構えた。
「魔力、濃い」
次の瞬間、奥で白い影が走った。
スチームウルフ。
一体。
いや、二体。
低い姿勢で、左右へ分かれる。
「来る!」
盾役が構えた。
スチームウルフの一体が正面へ突っ込む。
もう一体は横へ回る。
ただ突進してくるだけではない。
後衛を狙っている。
剣士が横へ出て止める。
魔術師が風を飛ばした。
湯気が散る。
その上から、影が落ちた。
スチームバット。
天井近くから急降下してきた大型蝙蝠が、魔術師の肩を狙う。
「上!」
斥候役が短剣を投げる。
スチームバットの軌道がわずかに逸れた。
爪がローブを裂くだけで済む。
盾役が叫ぶ。
「戻る! 確認は十分だ!」
奥から、かちん、かちん、と硬い音がした。
ミネラルクラブの鋏が鳴る音だ。
まだ姿は見えない。
だが、近づいている。
四人組は迷わなかった。
スチームウルフを倒し切ろうとしない。
スチームバットを追わない。
見た。
分かった。
戻る。
それでいい。
彼らは階段へ戻った。
第4層報酬部屋へ上がり、琥珀の雫を確認する。
誰も置いていない。
誰も倒れていない。
小さな怪我はある。
でも、歩ける。
「戻るぞ」
「報告が先だ」
「深く行く場所じゃない」
四人は、第4層を引き返した。
清水の間に戻ってきた四人組は、琥珀の雫四本を確認台に置いたあと、すぐに仮受付へ向かった。
顔が違った。
琥珀の雫を手に入れた者の浮かれた顔ではない。
何かを見てきた顔だ。
仮受付の職員がすぐに記録板を取る。
「報告ですか」
リーダー格の男が頷いた。
「第4層の報酬部屋に、下り階段がありました」
その一言で、周囲の空気が変わった。
酒場の音が、少しだけ弱くなる。
カティアが振り向いた。
クレスも近づく。
グラントの目が細くなる。
マイラは記録板を抱えて、すっと横に立った。
「階段の報告は、これまでに?」
クレスが仮受付の職員に聞いた。
職員は記録板をめくる。
「ありません。第4層報酬部屋の奥に下り階段、初報告です」
クレスは四人組へ視線を戻した。
「階段の先は?」
「広い洞窟です。足場は悪くない。でも、魔物がすぐ来ました」
カティアの目が鋭くなる。
「すぐ?」
「はい。狼型が二体。湯気みたいなものをまとっていて、左右に分かれました。片方は盾、片方は後衛狙い」
マイラが書き込む。
「狼型、左右分散、後衛狙い」
斥候役の女が続けた。
「上から蝙蝠型も来ました。天井が高いです。見上げていないと危ない」
「上空急降下」
マイラがまた書く。
魔術師が裂けたローブを見せた。
「肩を狙われました。直撃なら転んでいたかもしれません」
盾役が言う。
「奥から硬い鋏みたいな音もしました。姿は見ていません。ただ、近づいてきていた」
クレスが静かに頷いた。
「そこで戻ったのは正しい」
カティアも言う。
「奥を見に行かなかったのはいい判断だ」
リーダー格の男は苦笑した。
「正直、あれ以上は無理です。第4層のつもりで入ると危ない」
その言葉が、酒場に落ちた。
第4層のつもりで入ると危ない。
分かりやすい。
とても分かりやすい。
掲示板の前にいた冒険者たちが、小さくざわつく。
「第5層か?」
「第4層の報酬部屋の奥だろ」
「報酬取った後にさらに奥か」
「狼型と蝙蝠型?」
「戦闘階層か」
「足場は悪くないって言ったよな」
「足場が悪くないなら、敵が動けるってことだろ」
カティアが掲示板の前に立った。
「聞け」
声は大きくない。
でも、全員が聞いた。
「報酬があるとしても、そこまで行けなきゃ意味がねえ。見物気分で入るな」
誰も笑わない。
「第4層の奥に階段がある。つまり、そこに行くには第4層を越えなきゃならねえ。琥珀を取って浮かれた後に、知らない階層へ足を突っ込むな」
カティアの視線が、冒険者たちを順に刺していく。
「入るなら、戻る前提で入れ。見るだけなら、見たら戻れ。倒せそうだから進むな。儲かりそうだから進むな。知らない敵が複数出た時点で、引く理由は十分だ」
クレスが続けた。
「まずは正式な初期偵察が必要だ。地形、魔物、撤退地点、視界、音、後衛への圧。分からないものが多い」
メリダが講習席で腕を組んだまま言う。
「第5層用の講習もいるねえ」
オルド村長が眉間を押さえた。
「また椅子か」
グラントがすぐに言う。
「手配しましょう」
「早いな」
「椅子が増えれば人が座ります。人が座れば、無茶をする人数が少し減ります」
カティアが鼻を鳴らす。
「商人にしちゃ、まともなこと言うじゃねえか」
「商人だからこそです。死なれると次の取引がありません」
「台無しだよ」
そのやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。
だが、ざわめきは戻らない。
清水の酒場にいる者たちは分かっていた。
今、清水の迷宮に新しい奥ができた。
それは第4層を越えた先で、ようやく見つかる階段だ。
その先は、向こうから魔物が来る。
待ってくれない。
甘い香りで足を止めるのではなく、爪と牙と鋏でこちらを動かしてくる。
今までとは違う。
俺は黒い水膜の内側で、その空気を見ていた。
「伝わったな」
『ええ。第5層は、見つけられたわ』
黒い水膜には、第5層が映っている。
階段の先の広い洞窟。
走るスチームウルフ。
天井を回るスチームバット。
岩陰で鋏を鳴らすミネラルクラブ。
遠く、白い湯気の向こうに立つホットスプリングガーディアン。
そして、そのさらに奥。
まだ誰にも見られていない温泉。
静かな湯面。
安全地帯。
帰還路。
全部、まだ大地とヴェルティアしか知らない。
『明日、動くでしょうね』
「クレスたちか」
『ええ』
ヴェルティアの言う通りだった。
酒場の中央で、クレスが短く息を吐いた。
カティアが隣に立つ。
冒険者たちの視線が集まる。
「明日、俺とカティアで入る。Cランクを数人混ぜる」
クレスがそう言うと、酒場の空気が少し変わった。
ただの新階層見物ではない。
第5層の初期偵察。
清水の迷宮が、次の顔を見せる日だ。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第5層は、第4層の奥に静かに口を開けました。
次は、初期偵察です。
続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




