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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第38話 二つの雫、外へ出る



 紅肌の雫が、外へ出た。


 琥珀の雫も、外へ出た。


 それだけなら、ただの報酬の流通だ。


 けれど、迷宮の報酬というものは、人間の手に渡ったあとが面白い。


 飲む者がいる。


 売る者がいる。


 隠す者がいる。


 自慢する者がいる。


 値段をつける者がいる。


 そして、値段を聞いて目の色を変える者がいる。


 清水の酒場が動き出してから、数日が過ぎた。


 第3層を越える冒険者は、少しずつ増えている。


 最初の頃は、紅肌の雫を持って戻るだけで酒場中がざわついた。


 今は違う。


「あ、三層戻りか」


「瓶、赤いな」


「残り何日だ?」


「十七」


「ならまだ売れるな」


「売るか飲むかで揉めてる」


「揉めるなよ。飲む前から顔色悪くなるぞ」


 そんな会話が、清水の酒場で普通に出るようになった。


 もちろん、全員が取れるわけではない。


 第3層は本物の迷宮だ。


 迷う。


 焦る。


 戻れない者も出る。


 だが、講習を受けて、地図を作り、時間を決め、戻る判断を覚えた者たちは、少しずつ紅肌の雫を持ち帰るようになっていた。


 第4層も同じだ。


 琥珀の貯蔵庫は、第3層ほど迷わせてこない。


 足場もいい。


 通路も広い。


 魔物も、極端に殺しにくるものばかりではない。


 ただし、香りがよくない。


 いや、よすぎる。


 甘い木の香り。


 蜜のような匂い。


 煙の余韻。


 琥珀の雫を取ったあと、その香りにやられて、通路の端で座り込む冒険者が出た。


 動けないほど怪我をしたわけではない。


 けれど、判断が鈍る。


 帰る足が遅くなる。


 もう少しだけ休もう、と思う。


 そのもう少しが、迷宮では危ない。


 ただ、第4層は広い。


 同じ時間帯に複数のパーティが入るようになると、座り込んだ者を別のパーティが見つけることも増えた。


 清水の間から中は見えない。


 仮受付にも、酒場の者にも、第4層の様子は分からない。


 だが、戻ってきた者の話で分かる。


「奥の棚の横で一組、完全に座ってた」


「怪我か?」


「違う。匂いにやられて、ぼーっとしてた。声かけたら戻れた」


「琥珀は?」


「持ってた。だから余計に危なかった」


「飲む前から酔ってんじゃねえか」


 清水の酒場で、カティアが低く言った。


「それ、講習に入れろ」


 仮受付の職員が、すでに記録板を抱えている。


「第4層、報酬取得後の休憩過多。香りによる判断鈍化。救出例あり」


 マイラも隣で頷いた。


「戻る時間を決める必要があります。琥珀の雫取得後、長く座らない」


 クレスが言う。


「第4層は、殺しにくるというより、帰る気を鈍らせる階層だな」


 カティアが鼻を鳴らした。


「だから危ねえんだよ。血が出てねえと、人間は油断する」


 その通り。


 黒い水膜の内側で、俺は頷いた。


 第4層は、死の匂いが薄い。


 だから、危ない。


 怖い魔物に追われている時、人は逃げる。


 いい香りの中で、報酬を抱えて座っている時、人はもう少し休もうとする。


 それはそれで、立派に迷宮の危険だった。


『外へ出た影響が大きくなってきたわね』


 ヴェルティアが言った。


 黒い水膜には、清水の酒場だけではなく、いくつかの小さな揺らぎが映っている。


 迷宮から出た報酬に触れた人間の欲。


 遠くで膨らむ噂。


 依頼札に向かう手。


 馬車に積まれる小箱。


 商人の目。


 貴族の指先。


 そういうものが、細い水脈のように迷宮へ戻ってくる。


「紅肌の雫と琥珀の雫、そろそろ外で騒がれる頃だよな」


『ええ。特に紅肌の雫は、日数があるもの』


「残り日数込みで値段が動くか」


『人間は数字が好きね』


「数字があると揉めるからな。逆に、数字があると売れる」


『面倒な生き物ね』


「だから商売になる」


 ヴェルティアは、少し呆れたように目を細めた。


『貴方、商人でもないのに時々商人のような顔をするわね』


「元会社員なので」


『それは商人なの?』


「ちょっと違うけど、数字に追われる生き物ではある」


『人間は大変ね』


「本当にな」


 俺は黒い水膜に意識を寄せた。


 清水の迷宮から離れた場所。


 外へ出た二つの雫が、人間の世界でどう扱われているのか。


 それが、薄く映り始めていた。




ーーーーside プロンテラ商業ギルド


 プロンテラ商業ギルドの鑑定室には、赤い小瓶が三本並んでいた。


 紅肌の雫。


 一本は残り十六日。


 一本は残り十四日。


 一本は残り十二日。


 瓶底に浮かぶ水紋数字を見て、鑑定人たちは難しい顔をしている。


 セヴランは記録板の前に立ち、ひとつひとつ確認していた。


「色、香り、瓶底表示、清水の迷宮取得記録。三本とも真品と見てよいでしょう」


 商人の一人が息を吐いた。


「残り十二日でも売れますか」


「売れます。ただし、残り十八日以上の品とは扱いが違います」


「効果は?」


「確認例では、肌の血色、くすみ、唇の色、軽い荒れに改善が見られます。病気治療ではありません。若返りでもありません。傷を塞ぐものでもありません」


「それでこの騒ぎですか」


 別の商人が呟いた。


 セヴランは静かに頷く。


「それで、この騒ぎです」


 鑑定室の奥から、女商人が入ってきた。


 年は四十前後。


 大きな商家の妻であり、自分でも布と香油を扱う店を持っている人物だ。


 彼女は紅肌の雫を一本、自分で飲んだ。


 薬としてではない。


 美容品として。


 その結果は、ギルド内でかなりの騒ぎになった。


 化粧ではない。


 香油でもない。


 白粉でもない。


 だが、顔のくすみが少し抜け、唇の色が明るく見えた。


 目の下の疲れた影も薄くなった。


 劇的な変化ではない。


 だからこそ、怖かった。


 別人になるのではない。


 自分のまま、少し調子がよく見える。


 これは売れる。


 商人たちは、すぐにそう判断した。


 女商人は、残り十六日の瓶を見た。


「これは、王都へ送れますね」


 セヴランが答える。


「送れます。ただし、到着時には日数が減ります」


「それも込みで価値がつくわ。むしろ、急がせる理由になる」


 別の商人が苦笑した。


「日数が減るほど急がせる商品ですか」


「商売には、そういうものもあります」


 その時、グラントが鑑定室に入ってきた。


 いつもの柔らかい笑みを浮かべている。


 だが、目は鋭い。


「王都行きの紅肌の雫は、残り十五日以上を基準にしましょう。十二日以下はプロンテラ内で回す。残り日数が短いものは、値を落として即日販売」


 商人たちが一斉に頷いた。


 誰も、紅肌の雫をただの珍品とは見ていない。


 日数がある。


 効果が目で分かる。


 持ち帰れる。


 だが、永続ではない。


 そして、また欲しくなる。


 商人にとって、これほど扱いやすく、扱いにくいものはなかった。


「偽物が出ますね」


 セヴランが言った。


 グラントは頷く。


「出ます。赤い水を詰めただけの小瓶、香油を混ぜたもの、薬師が似せたもの。数日以内に必ず出る」


「確認台が必要になります」


「清水の迷宮以外では完全確認できない。それも価値です」


 グラントは、三本の赤い小瓶を見た。


「冒険者への依頼を増やします」


「第3層ですか」


「ええ。紅肌の雫、残り十八日以上。買取大銀貨三枚。残り十五日以上、大銀貨二枚半。残り十二日以上、大銀貨二枚」


 商人の一人が目を丸くした。


「固定ではなく、残り日数で変えますか」


「当然です。時間が価値を削る品ですから」


 女商人が笑った。


「急げば高く売れる。冒険者は走るでしょうね」


 セヴランは静かに言った。


「走りすぎれば、戻れません」


 その言葉で、少しだけ場が静かになった。


 グラントは頷く。


「依頼札には、帰還記録必須と書きます。紅肌の雫のみ不可。本人の取得記録と確認台での確認が必要」


「迷宮が作った報酬を、人間が追う」


 女商人が呟いた。


「でも、戻らなければ売れない」


 グラントの笑みが、少しだけ深くなる。


「清水の迷宮らしい商品です」




 別の卓には、琥珀の雫が一本置かれていた。


 こちらには、日数表示はない。


 赤い小瓶と違い、時間に追われる気配はない。


 小さな瓶。


 琥珀色の液体。


 封を切る前から、わずかに木と蜜の香りが立つ。


 酒商が一人、真剣な顔でそれを見ていた。


「これを、あの量で金貨一枚ですか」


 グラントが答える。


「清水の迷宮での暫定買取です」


「高い」


「味見しましたね」


「しました」


「では?」


 酒商は沈黙した。


 しばらくしてから、低く言った。


「高いが、売れる」


 その言葉に、周囲の商人たちは目を細めた。


 紅肌の雫は、効果で売れる。


 琥珀の雫は、味と希少性で売れる。


 飲めば終わる。


 治らない。


 強くならない。


 若返らない。


 ただ、うまい。


 ただ、珍しい。


 そして、迷宮の奥から持ち帰られた酒である。


 酒商は指で瓶を軽く叩いた。


「王都の宴席に出せます。貴族の贈答にもなる。ただし、数が少なすぎる」


 グラントは頷く。


「そこで依頼です」


「第4層の琥珀の雫」


「一本金貨一枚。第3層の帰還記録保持者のみ第4層へ入れる。第4層は極端に殺しに来る階層ではないが、香りで動けなくなる者が出ています」


 セヴランが補足する。


「報酬取得後、座り込み。通路で判断鈍化。救出例あり」


 酒商が渋い顔をした。


「酒を取るために、酒の香りで倒れるのですか」


「清水の迷宮らしいでしょう」


「嫌な説得力があります」


 グラントは依頼札を用意させた。


 紅肌の雫。


 琥珀の雫。


 それぞれ別の依頼。


 条件。


 確認。


 買取。


 注意。


 商業ギルドの掲示板に、それらが並ぶ。


 その前に、冒険者たちが集まり始めた。


「第3層なら行けるか?」


「紅肌の雫、大銀貨三枚だぞ」


「残り日数で変わるらしい」


「第4層は金貨一枚か」


「金貨一枚って、俺の装備代より高いぞ」


「第3層の記録がないと入れないんだろ」


「なら、まず第3層だ」


「戻れよ」


「分かってる」


 その中に、顔見知りではない冒険者たちも混じっていた。


 清水の迷宮の名は、もうオルド村周辺だけのものではなくなり始めていた。




ーーーーside 王都


 王都に届いた紅肌の雫は、最初、薬師の手に渡った。


 次に、貴族家の奥方の手に渡った。


 そして、三日も経たないうちに、噂になった。


 病を治す薬ではない。


 若返りの秘薬でもない。


 だが、朝の顔が違う。


 疲れた色が薄い。


 唇が沈まない。


 肌の調子が、少し戻る。


 少し。


 その少しが、王都では大きかった。


 飾り立てる者が多い場所ほど、飾りでは隠しきれないものを気にする。


 紅肌の雫は、そこを突いた。


 王都の小さな応接室で、二人の女官が小声で話していた。


「本当に?」


「本当よ。飲んだ翌朝、頬の色が違ったもの」


「白粉ではなく?」


「違うわ。白粉なら首とずれるでしょう」


「残り日数があるんですって?」


「ええ。瓶底に水紋の数字が出るとか」


「数字が減る美容品なんて、嫌ね」


「だから欲しくなるのよ」


 二人は顔を見合わせ、同時にため息をついた。


 その話は、さらに奥へ届く。


 薬師。


 香油商。


 布商。


 貴族の侍女。


 小さな茶会。


 そして、王都の冒険者ギルド。


 掲示板に、新しい依頼が出た。


 清水の迷宮。


 紅肌の雫。


 残り十五日以上。


 取得記録必須。


 偽物不可。


 買取額、高額。


 王都の冒険者たちは、それを見て眉をひそめた。


「清水の迷宮ってどこだ」


「オルド村の近くだろ」


「遠いな」


「でも大銀貨が動く」


「美容品だろ?」


「美容品で大銀貨が動くから怖いんだよ」


 別の札には、琥珀の雫の依頼もあった。


 こちらは、酒商からの依頼だった。


 清水の迷宮第4層。


 琥珀の雫。


 一本金貨一枚。


 取得記録必須。


 破損不可。


 飲用済み不可。


 それを見た中年の冒険者が、口笛を吹いた。


「金貨一枚の酒か」


 隣の若い剣士が笑う。


「飲むより売りますね」


「そう言って飲む奴がいるから、酒なんだよ」


「飲んだら終わりじゃないですか」


「だからうまいんだ」


 王都では、まだ清水の迷宮を直接見た者は少ない。


 だが、依頼は出た。


 噂は出た。


 金額も出た。


 それだけで、人は動く。


 王都の酒商は、琥珀の雫を小さな銀杯に一滴だけ落とし、香りを確かめた。


 その顔つきが変わる。


「宴席用ではないな」


 助手が首を傾げる。


「違うのですか」


「これは、数を出す酒ではない。瓶を見せる酒だ。誰が持っているかで価値が出る」


「飲まないのですか」


「飲むさ。だが、飲む前に見せる」


 酒商は笑った。


「王都の貴族は、味だけで金を払うわけではない。物語にも払う」


「物語?」


「迷宮の奥から持ち帰った、清水の琥珀だ。十分だろう」


 助手は少し呆れたように瓶を見た。


 ただの小さな酒瓶。


 だが、それはすでにただの酒ではなくなっていた。




ーーーーside 清水の迷宮


 その日の清水の間は、朝から混んでいた。


 馬車が増えた。


 冒険者が増えた。


 商人が増えた。


 見知らぬ紋章の荷車まである。


 仮受付の前には列ができ、オルド村長は朝から眉間に皺を寄せていた。


「多いな」


 カティアが言った。


 クレスが頷く。


「多い」


 フィンが水を飲みながら、少し引いた顔をする。


「昨日より明らかに多くないですか?」


 マイラが記録板を見る。


「第3層挑戦希望、昨日の一・六倍。第4層挑戦希望、昨日の二倍」


「二倍?」


 リオが目を丸くする。


 サナが短く言った。


「雫」


「雫かあ」


 ニーナは、掲示板の前に集まる冒険者たちを見ていた。


「紅肌の雫と、琥珀の雫。外で依頼が増えたんですね」


 グラントが、その横で穏やかに笑う。


「ええ。プロンテラと王都で、反応が出始めました」


 カティアが睨む。


「出しすぎるなよ」


「出しすぎるほど取れるなら、すでに迷宮ではありません」


「それもそうだな」


 グラントは掲示板に新しい札を掛けた。


 紅肌の雫。


 残り十八日以上、高額買取。


 残り十五日以上、通常高額買取。


 残り十二日以上、即日買取。


 取得記録必須。


 偽物持込禁止。


 琥珀の雫。


 一本金貨一枚。


 第4層帰還記録必須。


 飲用済み不可。


 破損不可。


 報酬取得後の長時間休憩注意。


 その札を見て、冒険者たちがざわつく。


「第3層からだな」


「いや、俺は第4層狙いだ」


「第3層の記録持ってるのか?」


「ない」


「じゃあ無理だ」


「まず第3層か」


「紅肌も売れるしな」


 仮受付の職員が声を張った。


「第3層未踏破者は、第4層申請できません! 第2層講習記録なしの第3層申請も後回しです!」


 声が少し枯れている。


 ここ数日で、職員はたくましくなった。


 マイラが隣に立ち、記録の整理を手伝っている。


 メリダは、講習席で腕を組んでいた。


「臆病者講習、増席だねえ」


 オルド村長が渋い顔で頷く。


「椅子が足りん」


 グラントがすぐ言う。


「手配しましょう」


「早いな」


「椅子が増えれば人が座ります。人が座れば待ちます。待てば食べます」


 カティアが呆れたように言う。


「商人め」


「商人ですので」


 清水の酒場では、ミルが大忙しだった。


「お水です!」


「ありがとう」


「泡のお水は、ジョッキ貸出銅貨二枚です!」


「しっかりしてるな」


「お母さんに教わりました!」


 エナさんは洗い場で、村人たちと一緒に杯を洗っている。


 料理場では、バルムが鍋をかき混ぜながら叫んだ。


「汁物、追加だ! 豆を持ってこい!」


 道具商は革紐と矢筒を並べ、修理職人は剣帯を直し、寝具係の女将は宿泊区画を増やす相談をしている。


 清水の間は、完全に動き始めていた。


 ただ、浮かれてばかりではない。


 カティアが掲示板の前に立つ。


「聞け」


 声は大きくない。


 でも、通った。


 冒険者たちが少しずつ静かになる。


「紅肌の雫は高い。琥珀の雫はもっと高い。だからって、命より高いと思うな」


 誰も笑わない。


「第3層は戻れなくなる。第4層は帰る気が鈍る。報酬を取った後に座り込むな。香りが気持ちいいからって、目を閉じるな。誰かが止まったら、置いていくな」


 カティアは、少しだけ目を細めた。


「救出されやすい構造だからって、救出される前提で潜るな。見つけた奴も、無理に担いで進むな。戻れ」


 クレスが続ける。


「第4層では、同時間帯のパーティ間で救出例が出ている。これは幸運だ。規則ではない」


 メリダが笑わずに言った。


「臆病者講習、今日は三回やるよ。稼ぎたいなら座りな。座れない奴は、奥でも止まれない」


 冒険者たちが、ざわざわと講習席へ向かい始める。


 中には不満そうな者もいた。


 だが、金額を見た後だからこそ、講習席にも人が座る。


 欲は危ない。


 でも、欲があるから座ることもある。


 俺、学習しました。


 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ながら苦笑した。


「外に出ると、一気に増えるな」


『当然でしょう。報酬は、迷宮内だけで価値が決まるものではないわ』


「外で使われて、外で欲しがられて、外から人が来る」


『そして、迷宮が育つ』


「だな」


 表示が浮かぶ。


【外部評判、依頼欲、来訪欲、取引欲、羨望、再挑戦意欲を獲得】


【獲得DP:612】


【現在DP:4962】


 さらに、小さな表示が続く。


【講習参加、滞在欲、飲食欲、修理需要、宿泊欲を獲得】


【獲得DP:318】


【現在DP:5280】


「おお」


『増えたわね』


「外で雫が動くと、こっちの生活も動く」


『紅肌の雫は、美容と時間。琥珀の雫は、嗜好と希少性。どちらも人間をよく動かすわ』


「紅琥珀はまだ抑えめだな」


『あれは高すぎるし、危ういわ。広げすぎると走る者が出る』


「グラントも分かってたな。高額掲示は保留」


『商人としては優秀ね』


「悪い奴じゃないんだよな」


『善人でもないわ』


「そこがいい」


 ヴェルティアは少しだけ笑った。


『清水の迷宮に合っているわね』


 清水の間では、新しいパーティが受付に並んでいる。


 見慣れない装備。


 見慣れない方言。


 見慣れない紋章。


 外から来た冒険者たちだ。


 彼らはまず、水を飲む。


 清水に驚く。


 掲示板を見る。


 紅肌の雫の値段に目を変える。


 琥珀の雫の値段に声を落とす。


 講習席を見る。


 少し迷う。


 そして、座る者が出る。


 それでいい。


 全員が座る必要はない。


 全員が戻るわけでもない。


 迷宮は人間を救う施設ではない。


 でも、戻るための情報は置いてある。


 水はある。


 講習はある。


 酒場はある。


 帰ってきた時に、ミルの「おかえりなさい」がある。


 それでも奥へ行くなら、それは冒険者の選択だ。


「第3層と第4層の突破者、もっと増えそうだな」


『ええ。増えるでしょう』


「入口が詰まりそうだ」


『今も十分に詰まりかけているわ』


「受付と講習、増やさないと駄目だな」


『酒場もね』


「そうだな。人が増えれば、水だけじゃ足りない。食事、修理、宿泊、記録。全部増える」


『迷宮の外で欲が育ち、迷宮の入口で生活が増える』


「忙しくなるな」


『貴方の仕事よ』


「はい」


 清水の酒場で、フィンが見知らぬ冒険者に話しかけられていた。


「お前らが紅琥珀の雫を取った組か?」


 フィンはびくっとした。


「え、いや、まあ、はい」


「どうやって取った?」


 サナが短く割り込む。


「追ってない」


 マイラが記録板を抱えたまま言う。


「偶然の近距離遭遇。再現性低。追跡禁止」


 リオが頷く。


「真似するもんじゃない」


 ニーナも真剣に言った。


「追ったら、多分危ないです」


 見知らぬ冒険者は少し驚き、それから苦笑した。


「全員で止めるのか」


 フィンが肩をすくめる。


「止めないと、金貨五枚に足が生えて逃げるんで」


 サナが言う。


「追うな」


「はい」


 そのやり取りを見て、俺は少し安心した。


 フィンたちも、ただの若手ではなくなってきている。


 取った者は、次に来る者へ話す側になる。


 迷宮の経験は、そうやって外へ出る。


 雫だけじゃない。


 失敗も、警告も、判断も、外へ出る。


 それが、また迷宮へ戻ってくる。




 夕方近く。


 第3層から二組が戻った。


 紅肌の雫、六本。


 第4層から一組が戻った。


 琥珀の雫、四本。


 さらに、途中で香りにやられて座り込んでいた一人を、別のパーティが連れて帰ってきた。


 怪我はない。


 ただ、目がぼんやりしている。


 カティアがその頭を軽く叩いた。


「寝るな」


「寝てません……」


「寝る寸前の顔だ」


「香りが……」


「酒場で嗅げ。通路で嗅ぐな」


 周囲が少し笑った。


 笑える程度で戻ってきた。


 それでいい。


 クレスは救出したパーティに声をかけた。


「無理に奥へ進まず戻した判断は良かった」


 救出した冒険者は照れくさそうに言う。


「琥珀の雫を持ってたので、置いていくのも怖くて」


 カティアが言う。


「瓶じゃねえ。人を置いていくな」


「はい」


 仮受付の職員が記録する。


 第4層、香りによる判断鈍化。


 他パーティによる帰還補助。


 救出成功。


 琥珀の雫、保持。


 これもまた、清水の迷宮の記録になる。


 そして記録は、次の講習になる。


 黒い水膜に表示が揺れる。


【帰還補助、救出感謝、警戒心、講習需要を獲得】


【獲得DP:286】


【現在DP:5566】


「救出でも入るのか」


『当然でしょう。死なずに戻った者の感情は強いわ』


「迷宮なのに、救出でDPが入るの面白いな」


『迷宮は死だけで育つものではないわ。貴方がそう変えたのでしょう』


「俺だけじゃないだろ」


『私も、ね』


「もちろん」


 ヴェルティアは少し満足げに頷いた。


 清水の酒場では、戻ってきた冒険者たちに水が出されている。


 泡水も出る。


 琥珀の雫を一本開けるかどうかで揉めかけたパーティは、結局一本だけ泡水で割り、全員で分けることにした。


 ミルは泡のお水と匙だけを運ぶ。


 酒を入れるのは冒険者本人。


 その線引きも、もうだいぶ馴染んできた。


「泡のお水です!」


「ありがとう」


「おかえりなさい!」


「ただいま」


 今日も、そのやり取りがある。


 外では、紅肌の雫と琥珀の雫が人を動かしている。


 内では、水と酒場と講習が人を受け止めている。


 迷宮は、少しずつ大きくなっている。


 もっと奥へ行きたい者。


 もっと稼ぎたい者。


 もっと試したい者。


 もっと欲しい者。


 その欲に、道を作る。


 ただし、帰れる道も考える。


「ヴェルティア」


『何かしら』


「今日は第3層と第4層だけで、ずいぶん動いたな」


『ええ。外へ出た価値が、戻ってきたのよ』


「迷宮の中で完結しないんだな」


『人間が持ち出した時点で、報酬は人間の世界へ流れるわ』


「それが依頼になって、冒険者になって、また迷宮へ戻る」


『循環ね』


「清水っぽい」


『悪くない表現ね』


 黒い水膜の向こうで、プロンテラ行きの馬車が一台、清水の迷宮から離れていく。


 中には、確認済みの紅肌の雫が数本。


 琥珀の雫が一本。


 そして、清水の迷宮の話を山ほど抱えた商人が乗っている。


 あの馬車が着けば、また噂が増える。


 依頼が増える。


 人が来る。


 水を飲む。


 講習に座る。


 奥へ行く。


 戻る者がいる。


 戻らない者もいる。


 それでも迷宮は回る。


 俺は、清水の酒場を見た。


 ミルが笑っている。


 エナさんが皿を洗っている。


 カティアが怒っている。


 クレスが見ている。


 メリダが講習席で腕を組んでいる。


 グラントが依頼札の位置を直している。


 フィンたちが、見知らぬ冒険者に何かを説明している。


 外へ出た二つの雫は、ただの小瓶では終わらなかった。


 人を動かす。


 金を動かす。


 噂を動かす。


 そして、また迷宮へ戻ってくる。


「いい流れだ」


『ええ』


 ヴェルティアが頷く。


『清水の迷宮は、外へ流れ始めたわ』


 水は流れる。


 噂も流れる。


 欲も流れる。


 その流れが戻ってくる場所に、清水の迷宮はなり始めていた。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


二つの雫が、迷宮の外にも流れ始めました。

戻る者が増えますように。


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