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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第36話 若手たちと紅琥珀の一滴



 清水の酒場に、泡の音が増えた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清水の水音。


 ぱち。


 ぱちぱち。


 泡立つ水の音。


 最初は、みんな妙な顔をしていた。


 水が鳴る。


 口の中で弾ける。


 痛い。


 でも、悪くない。


 そんな評価だった泡立つ水は、数日のうちに清水の酒場の名物になり始めていた。


 琥珀の雫を持っている者は少ない。


 けれど、泡水だけを試す者は多い。


 安い果実酒を泡水で割る試作も始まった。


 宿場町の荷馬車宿で酒場を切り盛りしていたバルムは、数日だけ清水の酒場の立ち上げを手伝いに来ている。


 料理場に立つと、彼はいつもの渋い顔で酒瓶とにらめっこしていた。


「これは薄い。これは香りが飛ぶ。これは悪くねえ」


 道具商は、その横で札を書いていた。


 泡水用ジョッキ貸出、銅貨二枚。


 琥珀の雫は持ち込みのみ。


 泡水割り果実酒、試作中。


 文字は人間の手で書かれ、人間の手で掛けられる。


 清水の酒場は、少しずつ店になっていく。


 ミルは今日も胸に小さな前掛けをつけて、ジョッキを両手で持っていた。


「泡のお水です!」


「ありがとう」


「おかえりなさい!」


「ただいま」


 冒険者が笑う。


 村人が皿を洗う。


 修理職人が革紐を直す。


 寝具係の女将が、濡れた外套を宿泊区画へ持ち込もうとした新人を叱っている。


 人が動く。


 物が動く。


 金が小さく動く。


 その全部が、清水の間に流れ込んでいた。


 黒い水膜の内側で、俺はそれを見ていた。


「いい感じに回ってきたな」


『人間臭さが濃くなったわね』


「それ、褒めてる?」


『半分くらいは』


「残り半分は?」


『臭いわ』


「そのままだった」


 ヴェルティアは腕を組み、清水の酒場を見ている。


 嫌そうではない。


 むしろ、少し面白がっている顔だ。


 迷宮核が人間臭い酒場を眺めている。


 不思議な絵面だ。


 でも、今の清水の迷宮には合っている気がした。




 泡立つ水の湧き口の近くで、フィンがジョッキを覗き込んでいた。


 中には泡水だけが入っている。


 酒は入っていない。


 ぱちぱち弾ける水を見ながら、フィンが言う。


「琥珀の雫、これで割ると本当にうまいんですよね」


 向かいでマイラが記録板を抱えたまま答える。


「飲んだ人の反応では、かなり」


 リオが腕を組む。


「自分たちで取ってきたら、飲めるんだよな」


 サナが短く言う。


「戻れば」


 ニーナは泡水のジョッキを見て、少しだけ目を輝かせていた。


「第4層の琥珀の雫……」


 その声には、魔法を見る時と似た熱があった。


 フィンが笑う。


「ニーナ、目が魔術書見つけた時と同じ」


「えっ」


「同じです」


 マイラが淡々と追撃する。


 ニーナは少し赤くなった。


「だって、第4層の報酬ですよ。しかも、泡のお水で割ると香りが広がるって……」


 リオが頷く。


「気になるよな」


 サナが言う。


「危ない」


「分かってる」


 リオはすぐに答えた。


 その返事が早すぎて、カティアが横から低く言った。


「分かってる奴の返事じゃねえな」


 五人がそろって振り返る。


 カティアは酒場の入口側で腕を組んでいた。


 その隣にはクレスもいる。


 クレスは琥珀水紋門の方を一度見てから、若手五人を見た。


「行くのか?」


 フィンは少しだけ背筋を伸ばす。


「はい。第4層に」


 マイラが続ける。


「目的は、琥珀の雫の取得。第4層の短時間踏破。帰還記録の更新」


 リオが言う。


「欲張らない。一本ずつ取ったら戻る」


 サナが短く言った。


「追わない」


 ニーナも頷く。


「魔法を試すために奥へは行きません」


 カティアは五人を順番に見た。


「言葉はいい」


 フィンが苦笑する。


「そこからですか」


「当たり前だ。言葉で帰れるなら、未帰還なんて出ねえ」


 清水の酒場の空気が、少しだけ締まった。


 戻らなかった者の記録は、まだ消えていない。


 酒場ができても。


 泡水ができても。


 ミルが笑っていても。


 奥は奥だ。


 クレスが言う。


「第4層は第3層より歩きやすい。だから危ない」


 カティアが続ける。


「足場が良いと、心が滑る。覚えてるな」


「はい」


 ニーナが答える。


 リオも頷く。


「報酬を取った後が危ない」


 マイラが記録板を押さえながら言う。


「追加で出たものを追わない。見えても追わない。近くても、判断してから」


 カティアが目を細める。


「撃てる時も同じだ。撃つ前に、自分たちが動いてねえか確認しろ」


 サナが短く言う。


「動かない」


 フィンが骨笛を指で弾いた。


「止まれ。戻れ。見るな。今日はこの三つで行きます」


 クレスは頷いた。


「いい。戻ることを目的に入れておけ」


 ミルが、少し離れたところで五人を見ていた。


 小さなジョッキを抱えている。


「あの」


 フィンが振り返る。


「どうしたの、看板娘さん」


 ミルは少し照れたあと、胸を張った。


「戻ってきたら、泡のお水、用意します!」


 フィンは一瞬だけ言葉を止めた。


 それから、いつもの軽い笑顔より少し真面目な顔で言った。


「お願いします。戻ってから」


 ミルは大きく頷いた。


「はい! 戻ってからです!」


 カティアが小さく鼻を鳴らした。


「いい見送りだな」


 メリダが椅子に座ったまま笑う。


「戻らないと飲めない泡のお水だねえ」


 リオが息を吐く。


「そう言われると、ちゃんと戻らないとな」


 サナが短く言う。


「戻る」


 ニーナも頷いた。


「戻ります」


 五人は琥珀水紋門へ向かった。




 清水の間にいる者たちからは、門を越えた五人の姿は見えなくなった。


 見えるのは、閉じた琥珀水紋門。


 仮受付の記録板。


 帰還予定時刻。


 そして、待つ人間の顔だけだ。


 ミルは泡水の湧き口をちらりと見てから、エナさんのそばへ戻った。


 エナさんが、その頭をそっと撫でる。


「大丈夫。待ちましょう」


「うん」


 清水の酒場では、少しだけ声が小さくなった。


 でも、止まらない。


 料理人は鍋をかき混ぜる。


 修理職人は革紐を締め直す。


 村人は皿を洗う。


 冒険者は、琥珀水紋門を時々見ながら、汁物を口に運ぶ。


 待つことも、清水の間の仕事になり始めていた。




 黒い水膜の内側では、五人の姿が見えていた。


 第4層。


 琥珀の貯蔵庫。


 第3層の藻の迷路とは違う。


 足元は乾いている。


 通路は広い。


 天井も高い。


 壁には琥珀色の水脈が走り、古い樽のような香りが漂う。


 甘い。


 重い。


 木と蜜と煙を混ぜたような匂い。


 初めて入った者なら、思わず深く吸い込みたくなる。


 フィンが鼻を押さえた。


「うわ、いい匂い」


 サナが短く言う。


「吸いすぎない」


「はい」


 リオが槍を構える。


「第3層より歩きやすいな」


 マイラがすぐに言った。


「記録。リオ、歩きやすい発言」


「そこ記録するのか?」


「心が滑る兆候」


「厳しい」


 ニーナは杖を握り、第4層の空気を感じていた。


「魔力が、通りやすいです」


 フィンが横目で見る。


「撃ちたくなる?」


「……なります」


 ニーナは正直に答えた。


 サナが言う。


「今じゃない」


「はい」


 ニーナは杖を少し下げた。


 いい。


 ちゃんと自分の欲を口に出せている。


 隠して進むより、ずっといい。


 俺は黒い水膜の向こうで頷いた。


「いいな、若手組」


『以前より、止まる言葉が増えたわね』


「第2層と第3層の講習、ちゃんと効いてる」


『清水の酒場も効いているのではなくて?』


「戻って飲むものがあるってのは、思ったより強い」


『欲を、帰還に結びつけるわけね』


「そう。奥へ進む欲じゃなくて、戻る欲にする」


 ヴェルティアは小さく頷いた。


『悪くないわ』


 今日の悪くないわ、いただきました。




 最初に現れたのは、琥珀スライムだった。


 透明な琥珀色の体。


 床をぷるぷると滑る。


 見た目は柔らかい。


 だが、体内に酒精のような魔力を含んでいる。


 近づきすぎると、甘い匂いで判断を鈍らせる。


 リオが前に出る。


 フィンがすぐに言った。


「二歩まで」


「分かってる」


 リオは二歩だけ進み、盾を構えた。


 琥珀スライムが跳ねる。


 リオが受ける。


 重くはない。


 だが、盾に張りついた瞬間、甘い匂いが強くなった。


「うっ」


 リオの動きが一瞬鈍る。


 サナが短く叫んだ。


「息」


 リオは息を止め、盾を斜めに払った。


 フィンの矢が飛ぶ。


 琥珀スライムの動きが止まる。


 ニーナが水弾を撃つ。


 弾ける。


 琥珀色の粘液が床に散り、すぐに吸われるように消えた。


 マイラが記録する。


「匂いで一瞬停止。息止め有効。水弾有効」


 リオが息を吐く。


「甘い匂い、思ったよりくるな」


 サナが言う。


「吸わない」


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃないから言う」


「それはそう」


 フィンが笑いかけて、すぐ周囲を見る。


「次、来ます」


 天井近く。


 琥珀色の光に紛れて、羽虫のような影が揺れる。


 酔香蛾。


 薄い羽が、甘い粉を落とす。


 ニーナが杖を構えた。


「風で払います」


 マイラが言う。


「広げすぎない」


「はい」


 ニーナの風魔法が、通路の中央だけを撫でた。


 粉が横へ流れる。


 フィンの矢が、その隙間を抜ける。


 一匹。


 二匹。


 リオが近づかないよう盾を構える。


 サナが後方を見る。


 マイラが時間を確認する。


 派手ではない。


 でも、悪くない。


 五人は、ちゃんと役割で進んでいた。


 俺は思わず口元が緩んだ。


「育ってるなあ」


『親のような顔をしているわよ』


「そりゃ見るだろ。第2層で転んで、第3層で戻って、今第4層で止まりながら進んでるんだぞ」


『高貴なる迷宮が育てたのだから当然ね』


「俺も少しは」


『足場くらいは作ったわね』


「評価が石畳」


『踏みやすいでしょう?』


「ありがとうございます」


 足元は沈まなかった。


 今のは正解らしい。




 五人は、琥珀の貯蔵庫の奥へ進んだ。


 樽の並ぶ広い場所。


 棚の奥。


 琥珀色の水脈が集まる小部屋。


 そこに、報酬箱があった。


 五人はすぐには近づかなかった。


 フィンが矢を番えたまま周囲を見る。


 リオが盾を構える。


 サナが入口側を見る。


 ニーナが魔力の流れを確認する。


 マイラが小さく言う。


「報酬箱確認。接近前に十数える」


 五人は数えた。


 一。


 二。


 三。


 誰も動かない。


 四。


 五。


 リオの足が半歩出かける。


 サナが言う。


「足」


 リオは止まった。


「悪い」


 六。


 七。


 八。


 ニーナの杖が少し上がる。


 マイラが言う。


「今は確認しない」


「はい」


 九。


 十。


 フィンが息を吐いた。


「開けます」


 報酬箱を開ける。


 中には、小瓶が五本。


 淡い琥珀色の液体。


 琥珀の雫。


 五人分。


 フィンは一瞬、笑いそうになった。


 でも、すぐに口を閉じた。


「一本ずつ。包んで。数えない」


 マイラが頷く。


「取得者、五名。琥珀の雫、五本」


 サナが短く言う。


「帰る」


 リオも頷いた。


「今日はここまで」


 ニーナは小瓶を見て、そっと布で包んだ。


「戻ってから、見ます」


 良い。


 とても良い。


 報酬を取った後に、報酬を見続けない。


 第3層で覚えたことが、第4層でも効いている。


 フィンが骨笛に指をかけた。


「帰還合図。二回」


 小さく、笛が鳴る。


 二回。


 戻る。


 五人は報酬箱に背を向けた。




 帰り道。


 琥珀の貯蔵庫は、行きよりも香りが強く感じられた。


 たぶん、香りが変わったわけではない。


 琥珀の雫を持ったから、意識が変わったのだ。


 リオが革袋に触れかける。


 自分で止める。


「触らない」


 サナが頷く。


「触らない」


 フィンが軽く笑う。


「全員、自分で自分を見張ってる」


 マイラが言う。


「必要」


 ニーナは通路の先を見ていた。


 杖を握る手に、少し力が入っている。


「魔力の流れ、行きより見えます」


 フィンが聞く。


「見たい?」


「見たいです」


「見る?」


「見ません」


 サナが短く言う。


「戻る」


「はい」


 その時だった。


 棚の影から、何かがひょこっと出た。


 小さい。


 丸い。


 琥珀色。


 ただし、普通の琥珀ではない。


 赤い。


 淡い赤が、琥珀の中に溶けている。


 紅琥珀色の、小さなスライム。


 黒い水膜の内側で、ヴェルティアの赤い瞳が細くなった。


『出たわね』


「出たな」


 俺も思わず身を乗り出した。


 小型。


 低耐久。


 即時逃走。


 出現率は極低。


 第4層の激レア枠。


 ただし、追わせるための餌でもある。


 見えたから追う。


 赤いから追う。


 珍しいから追う。


 それをやると、第4層では心が滑る。


 小さなスライムは、五人を見た。


 ぷるん、と震えた。


 そして、すぐ逃げようとした。


 フィンの声が飛ぶ。


「射線、空いてる!」


 サナが即座に言った。


「追わない。撃つだけ」


 リオは動かなかった。


 マイラも動かない。


 ニーナの杖は、もう通路の正面を向いていた。


 距離が近い。


 棚の影から出た位置が、たまたま五人の帰路の正面に近かった。


 スライムが横へ跳ねる前に、ニーナの水弾が飛んだ。


 水弾。


 細く。


 速く。


 追うのではなく、その場から撃つ。


 当たった。


 赤みを帯びた琥珀色のスライムが、ぱん、と小さく弾けた。


 紅い琥珀の光が、床に落ちる。


 小瓶が一本、ころりと残った。


 五人は、固まった。


 フィンが最初に口を開く。


「……今の、追ってないですよね?」


 サナが頷く。


「動いてない」


 リオが自分の足元を見る。


「俺も動いてない」


 マイラが即座に記録する。


「帰路上。距離近。全員停止。射線あり。ニーナ、水弾。追跡なし」


 ニーナは杖を握ったまま、少し震えていた。


「当たりました」


 フィンが小瓶を見る。


「拾う?」


 サナが短く言う。


「拾って戻る」


 リオが周囲を見る。


「追加確認はしない」


 マイラが頷く。


「報酬取得後、即帰還」


 ニーナは小瓶を拾い、布で包んだ。


 赤みを帯びた琥珀色の雫。


 五人の空気が、少し熱を持つ。


 でも、誰も奥を見なかった。


 誰も追わなかった。


 誰も、もう一匹を探さなかった。


 五人は、帰路へ戻った。


 俺は黒い水膜の内側で、大きく息を吐いた。


「うわ、良い倒し方したな」


『ええ。欲に触れた。でも、追わなかった』


「これは大きい」


『第4層にとっても、良い記録ね』


「ニーナも良かった。撃ちたい欲があったけど、あれは射線があったから撃った。追ってない」


『魔法を使う理由が、欲ではなく状況だった』


「そうそう」


 ヴェルティアは、小瓶を見つめていた。


『ようやく出たわね』


「確認したい顔をしてる」


『していないわ』


「してると思うけどなあ」


『貴方は目で余計なことを読む癖があるわね』


「じゃあ口では読みません」


『そうしなさい』


 赤い琥珀色、恐るべし。


 ヴェルティアの興味が、かなり強い。




 琥珀水紋門が開いた時、清水の間にいた者たちが一斉に顔を上げた。


 五人が戻ってくる。


 泥ではない。


 藻でもない。


 第4層の乾いた香りをまとっている。


 甘い木と、琥珀の匂い。


 フィンは笑っていたが、少し疲れていた。


 リオの肩は張っている。


 マイラは記録板を強く抱えている。


 サナはいつも通り短い顔。


 ニーナは、少しだけ頬が赤い。


 ミルがぱっと立ち上がった。


「おかえりなさい!」


 フィンは、その声に笑った。


「ただいま。泡のお水、お願いします」


「はい!」


 カティアがすぐに近づく。


「報告が先だ」


 フィンは背筋を伸ばした。


「はい」


 仮受付の石机の前に、五人は小瓶を置いた。


 琥珀の雫。


 五本。


 そして、布に包まれた小瓶が一本。


 赤みを帯びた琥珀色。


 清水の酒場が、静かになった。


 グラントの目が細くなる。


 セヴランの筆が止まる。


 クレスが静かに息を吸う。


 カティアが低く言った。


「それは?」


 マイラが答えた。


「帰路で遭遇した、赤みのある琥珀色の小型スライムの討伐報酬です」


 フィンが小瓶を見て、少し迷う。


「名前は……まだ分からないですけど」


 ニーナが言った。


「見た目は、琥珀の雫に似ています。でも、赤いです」


 セヴランが慎重に小瓶を見る。


「紅い琥珀色……」


 グラントも顔を近づける。


「琥珀の雫の上位品、あるいは変種と見るべきでしょうか」


 フィンが少し困ったように笑った。


「紅琥珀の雫……でいいですか?」


 セヴランは筆を持ち直した。


「仮称として記録しましょう」


 マイラが頷く。


「紅琥珀の雫、仮称」


 ざわ、と空気が動いた。


 紅琥珀の雫。


 まだ誰も知らない名前。


 でも、その場の全員が、妙に納得してしまう名前だった。


 カティアの目が鋭くなる。


「追ったか?」


 フィンはすぐに首を横に振った。


「追ってません。帰り道で、棚の影から出ました。距離が近くて、射線が通ってました」


 マイラが記録板を出す。


「全員停止。追跡なし。ニーナがその場から水弾。討伐後、追加探索なし。即帰還」


 ニーナが少し緊張した声で言う。


「撃てる位置だったので、撃ちました。追ってはいません」


 リオも言う。


「俺も動いてない」


 サナが短く言った。


「追ってない」


 カティアは五人をじっと見た。


 それから、小さく息を吐く。


「追ってねえなら、合格だ」


 フィンの肩から力が抜ける。


 だが、カティアはすぐに続けた。


「次も当たると思うな。次に出た時、足が一歩でも出たら終わりだ。珍しいものほど、追わせる」


 ニーナは真剣に頷いた。


「はい」


 クレスも小瓶を見た。


「良い判断だった。だが、運も大きい」


「分かってます」


 フィンが答える。


「近かったから当たった。遠かったら撃たない。追わない」


 サナが頷く。


「それ」


 報酬確認台に、小瓶が置かれた。


 琥珀の雫、五本。


 取得者、フィン、マイラ、リオ、サナ、ニーナ。


 確認台が、澄んだ琥珀色に光る。


 一本。


 二本。


 三本。


 四本。


 五本。


 セヴランが記録する。


「琥珀の雫、五本。取得記録一致」


 そして、紅琥珀の雫。


 仮称。


 確認台に置いた瞬間、光が少し深くなった。


 琥珀色の奥に、赤が沈む。


 短い沈黙。


 セヴランは、慎重に記録した。


「紅琥珀の雫、仮称。取得者、フィン組五名。討伐対象、赤みのある琥珀色小型スライム。確認台反応あり」


 グラントが静かに言った。


「初確認ですね」


 フィンが小さく笑う。


「初確認って言われると、急に手が震えるんですけど」


 カティアが言う。


「震えるくらいでちょうどいい」


 メリダがにこにこしている。


「若い子たちが、変なものを持って帰ってきたねえ」


 リオが苦笑する。


「変なもの扱いですか」


「高いものは、だいたい変なものだよ」


「それは、そうかも」


 清水の酒場の空気は、熱を持っていた。


 だが、まだ浮きすぎてはいない。


 カティアとクレスがいる。


 マイラが記録している。


 ミルが泡水を用意している。


 戻った者たちは、まず記録を終えた。




 その後で、問題になった。


 飲むのか。


 売るのか。


 残すのか。


 調べるのか。


 紅琥珀の雫、仮称。


 まだ値段も決まっていない。


 効果も分からない。


 ただし、琥珀の雫に似ている。


 そして、明らかに上等な香りがする。


 フィンは小瓶を前にして、両手を膝に置いていた。


「……どうします?」


 リオが腕を組む。


「飲んでいいものなのか?」


 サナが短く言う。


「高そう」


 マイラは記録板を見たまま言った。


「未確認品。飲用前に鑑定、価格確認、危険確認が必要」


 ニーナは小瓶をじっと見ている。


「でも、報酬ではありますよね」


「報酬だが、初物だ」


 クレスが言った。


「飲むなら、全員で決めろ。売るなら、それも全員で決めるものだ」


 カティアも続ける。


「勢いで開けるな。後から泣いても戻らねえぞ」


 フィンが小瓶を見た。


「うわあ、怖くなってきた」


 リオが苦笑する。


「俺もだ」


 サナが言う。


「売る?」


 ニーナが少しだけ寂しそうに小瓶を見る。


「味は、知りたいです」


 マイラが記録板を抱えた。


「味が分からなければ値段も決めにくい」


 グラントが静かに頷く。


「その通りです。香りだけである程度は見ますが、飲用としての価値は味を見なければ分かりません」


 バルムも腕を組んで言う。


「俺も香りだけなら分かる。だが、酒は口に入れて決まる」


 フィンは五人を見る。


「一本しかないです」


 サナが頷く。


「一本だけ」


「飲んだら、なくなります」


「なくなる」


 リオが息を吐いた。


「でも、俺たちが持って帰ったんだよな」


 ニーナが頷く。


「はい」


 マイラが言った。


「五人で分けるなら、一人の量は少ない。泡水で五杯。瓶底の一滴を鑑定に回す」


 フィンが顔を上げた。


「それ、できる?」


 グラントが頷く。


「一滴でも、商人として味を見ることはできます。正確な価格には不足しますが、暫定価格なら」


 バルムも頷いた。


「香りは俺が見る。最後の一滴は商人に回せ」


 フィンは深く息を吸った。


「じゃあ……飲みますか?」


 リオが頷く。


「飲もう」


 サナが短く言う。


「五人で」


 マイラも頷いた。


「記録する」


 ニーナは少しだけ笑った。


「はい。五人で」


 カティアが腕を組む。


「決めたなら、後から値段で震えるなよ」


 フィンが笑った。


「そんなに高いですかね」


 グラントは何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目を細めた。


 その沈黙が、一番怖かった。




 ミルは、五つのジョッキと五本の匙を運んできた。


 ジョッキの中には、泡立つ水だけ。


 酒は入っていない。


「泡のお水です!」


 フィンが受け取る。


「ありがとう」


「おかえりなさい!」


「ただいま」


 そのやり取りに、五人の顔が少しだけ緩んだ。


 エナさんは、ミルの後ろで静かに見守っている。


 酒を入れるのは、五人自身だ。


 フィンが紅琥珀の雫の封を開けた。


 仮称。


 まだそう呼ぶことになったばかりの小瓶。


 封を切った瞬間、香りが立つ。


 琥珀の雫より、赤い。


 甘さの奥に、乾いた果実の酸味がある。


 煙の香りも、少し深い。


 バルムが鼻をひくつかせた。


「……こいつは、普通の酒じゃねえな」


 グラントは何も言わずに見ている。


 商人の目が、完全に開いていた。


 フィンは匙を持つ。


 ジョッキ一杯に、紅琥珀の雫、匙一杯。


 壁文字にあるのは琥珀の雫だ。


 でも、試すなら同じ分量でいい。


 一杯目。


 泡が赤みを帯びる。


 二杯目。


 香りが、軽く広がる。


 三杯目。


 四杯目。


 五杯目。


 瓶の底に、粘るように一滴だけ残った。


 フィンはそれを確認してから、瓶をそっと置いた。


「一滴、残しました」


 グラントが頷く。


「十分です」


 五人がジョッキを持つ。


 派手な言葉はなかった。


 フィンが言う。


「戻りました」


 リオが頷く。


「戻った」


 マイラが小さく言う。


「記録済み」


 サナが短く言う。


「乾杯」


 ニーナが少し笑った。


「乾杯」


 五つの杯が、軽く鳴った。


 かちん。


 泡が弾ける。


 ぱちぱち。


 五人は一口飲んだ。


 フィンの目が丸くなる。


「うわ」


 それから、笑った。


「琥珀より赤い。香りが強い。なんか、笑っちゃうくらいうまいですね」


 リオはジョッキを見つめる。


「これは……もう一回行きたくなる味だな」


 自分で言って、すぐ顔をしかめた。


「今の、危ないな」


 サナが頷く。


「危ない味」


 マイラは冷静に飲んでいた。


 いや、冷静な顔をしていた。


 頬が少し赤い。


「琥珀の雫より、香りが長い。泡で薄まっても、後味が残る。記録、上位品」


 フィンがにやりとする。


「マイラ、ちょっと顔赤い」


「記録に不要」


「不要ってことは、事実なんですね」


「記録に不要」


 二回言った。


 強い。


 ニーナは、ジョッキを両手で持っていた。


「魔法で取れたのが、嬉しいです」


 それから、少しだけ眉を下げる。


「でも、次も撃ちたいって思うのが怖いです」


 カティアが聞いていた。


「それを言えるなら、今日は合格だ」


 ニーナは小さく頷いた。


「はい」


 リオはもう一口飲み、息を吐く。


「戻って飲むから、うまいんだな」


 サナが短く言う。


「それ」


 フィンはジョッキを見た。


「これ、取った直後に奥で飲んだら、たぶん駄目ですね」


 クレスが頷く。


「だから酒場がある」


 カティアも言う。


「飲むなら戻ってからだ。奥で飲む奴は、奥に置いてくる」


「怖い言い方」


「怖い場所だからな」


 フィンは苦笑して、もう一口だけ飲んだ。


 清水の酒場に、泡と笑い声が広がった。


 重すぎない。


 でも、軽すぎない。


 紅琥珀の雫は、確かに特別だった。


 けれど、特別すぎて触れられないものではない。


 戻ってきた者が、自分たちの杯で試すもの。


 そこに、清水の酒場らしさがあった。




 瓶底に残った一滴を見て、フィンが言った。


「ちょっといいか」


 グラントが視線を上げる。


「何でしょう」


「値段、決めるんですよね」


 フィンは瓶を差し出した。


「一滴だけですけど」


 グラントは少し驚いたように目を開いた。


 バルムが先に顔を近づけ、香りを確かめる。


 そして、渋い顔で言った。


「これは杯で売る酒じゃねえ。瓶ごと買われる酒だ」


 グラントは小さく頷いた。


「同感です」


 彼は瓶底に残った一滴を、慎重に指先の小さな銀匙に移した。


 それを舌に乗せる。


 清水の酒場が、また静かになった。


 グラントは、しばらく目を閉じていた。


 商人の顔ではない。


 味を確かめる人間の顔だった。


 やがて、ゆっくり目を開く。


「……最低でも金貨三枚」


 フィンの喉が鳴った。


 リオも固まる。


 マイラの筆が止まる。


 サナは静かにグラントを見る。


 ニーナはジョッキを抱えたまま、目を丸くしていた。


 グラントは続ける。


「ですが、初物であり、琥珀の雫の上位品であり、討伐対象が極めて稀。清水の迷宮での暫定買取は、金貨五枚が妥当でしょう」


「金貨、五枚……」


 フィンが呟いた。


 周囲がざわつく。


 琥珀の雫が金貨一枚。


 紅琥珀の雫は、その五倍。


 量は同じ。


 効果も、治療も強化もない。


 ただ、酒として上位。


 珍しく、うまい。


 それだけで金貨五枚。


 フィンの手が、わなわなと震えた。


 ジョッキの泡が小さく揺れる。


「金貨五枚……飲んじゃったよ……」


 リオも自分のジョッキを見る。


「俺たち、今、金貨五枚を……」


 マイラが震える筆で記録板に書く。


「紅琥珀の雫、暫定金貨五枚。すでに五名で飲用済み」


 書いたあと、少しだけ固まった。


「……記録すると、重い」


 サナがジョッキを見て、短く言った。


「おいしい」


 ニーナは両手でジョッキを抱えたまま、真剣な顔で言った。


「残り、ちゃんと飲みます」


 フィンが震えた声で言う。


「急に一口の重さが変わったんですけど」


 カティアが呆れたように言った。


「だから言っただろ。後から値段で震えるなって」


「無理です!」


 フィンは即答した。


 グラントは静かに言った。


「正式に酒商や貴族筋へ流せば、さらに上がる可能性はあります。ただし、ここで無闇に釣り上げると、追う者が出る」


 カティアが頷いた。


「分かってるじゃねえか」


「高値は人を走らせますから」


「もう言ってる時点で走りそうだがな」


「だから暫定とします。依頼札に大きく出すべきではありません」


 クレスも頷いた。


「紅琥珀色のスライムは、追うものではない。帰路で倒せたのは運が良かった」


 マイラが記録する。


「紅琥珀の雫、仮称。暫定買取金貨五枚。高額掲示は保留。追跡禁止」


 フィンがジョッキを見つめる。


「すごいもの、飲んだんですね」


 サナが短く言う。


「戻ったから」


 リオが頷いた。


「そうだな。値段より先に、戻ったんだ」


 ニーナも小さく頷く。


「はい。戻りました」


 ミルが、五人を見て笑った。


「おかえりなさい!」


 五人は、少し照れながら答えた。


「ただいま」


 その声が、清水の酒場に混ざった。




 黒い水膜の内側に、青白い表示が浮かび上がった。


【第4層踏破、帰還を確認しました】


【フィン、マイラ、リオ、サナ、ニーナ】


【琥珀の雫取得、五本】


【紅琥珀色小型スライムの討伐を確認しました】


【紅琥珀の雫、仮称、取得一本】


【追跡なし、停止射撃、即時帰還を確認しました】


【驚き、欲、抑制、共有、鑑定欲、再挑戦意欲、帰還実感を獲得】


【獲得DP:734】


【現在DP:4350】


「一気に来たな」


『当然でしょう。第4層の若手帰還、琥珀の雫五本、紅琥珀の雫初確認。情報量が多いわ』


「しかも追わずに倒した」


『そこが大きいわね』


 ヴェルティアは満足そうだった。


 赤い瞳が、空になった紅琥珀の雫の瓶を見ている。


「やっぱり確認したかったんじゃないか?」


『……味そのものではなく、迷宮報酬としての完成度を確認したかったのよ』


「なるほど。高貴なる品質管理」


『そういうことにしておきなさい』


「はい」


 俺は清水の酒場を見た。


 若手たちが第4層から戻った。


 琥珀の雫を取った。


 赤みのある琥珀色の小型スライムを、追わずに倒した。


 紅琥珀の雫、仮称。


 それを味わい、値段がついた。


 金貨五枚。


 高い。


 でも、高すぎて世界が壊れるほどではない。


 欲を刺激する。


 けれど、追えば死ぬ。


 だから、また規則が増える。


 また講習が増える。


 また、戻る理由が増える。


 清水の酒場では、フィンたちがまだ震えた顔で杯を持っていた。


 カティアがその横で釘を刺している。


 クレスが静かに笑っている。


 マイラが記録をまとめている。


 ニーナが杖を抱えて、何かを考えている。


 サナは水を飲んでいる。


 リオは自分の手を見ていた。


 フィンは、ミルからもう一杯の清水を受け取っている。


 泡ではない。


 酒でもない。


 ただの清水。


 フィンはそれを飲んで、息を吐いた。


「やっぱり、最後はこれですね」


 ミルが笑う。


「清水ですから!」


 その言葉に、周囲が笑った。


 水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 泡が弾ける。


 ぱち。


 ぱちぱち。


 清水の酒場は、今日も入口で人を迎える。


 戻った者を迎え。


 次に行く者を見送り。


 欲を少しだけ軽くして、でも消しはしない。


 迷宮は、人間の欲で育つ。


 けれど、戻る者がいるから続いていく。


 紅琥珀の一滴は、そのことを少しだけ赤く照らしていた。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


最後に戻ってくる味が、清水でありますように。


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