第35話 清水の酒場と泡立つ水
清水の酒場は、三日で酒場らしくなった。
最初は、ただの広い空間だった。
水路がある。
排水がある。
煙抜きがある。
石床がある。
壁沿いに店を置ける場所がある。
それだけだった。
けれど、人間がそこへ物を運び込むと、空気が変わる。
木の机。
長椅子。
磨かれた杯。
大鍋。
皿。
棚。
革紐。
針。
砥石。
油。
干し肉。
豆。
野菜。
寝具。
藁袋。
毛布。
そして、人の声。
「そこの桶、調理場の奥だ! 水路の横に置くな!」
「修理の革紐は道具屋の棚にまとめろ。床に置くと踏まれるぞ」
「寝具は濡れ物と離して干しな。臭くなる」
「ミル、杯は両手で持つんだよ」
「はい!」
料理人が怒鳴る。
道具商が棚を並べる。
修理職人が石床に腰を下ろして、釘と金具を分ける。
寝具管理の女将が、冒険者の荷物の置き方に文句を言う。
村人たちは、皿を洗い、床を拭き、薪を積み、野菜を運ぶ。
エナさんは調理場で、豆と野菜を分けていた。
ミルは胸に小さな前掛けをつけて、水の入った杯を運んでいる。
「お水です!」
「ありがとう」
「おかえりなさい!」
「ただいま」
戻ってきた冒険者が、少し照れたように笑う。
それを見て、別の冒険者がにやつく。
「おい、今ちょっと嬉しそうだったぞ」
「うるせえ。清水がうまかっただけだ」
「本当か?」
「本当だ」
ミルはよく分かっていない顔で、また別の杯へ水を注ぐ。
看板娘、強い。
すでに場の空気を少し変えている。
黒い水膜の内側で、俺は感心していた。
「ヴェルティア、見たか。あれが看板娘パワーだ」
『何でも力にするのをやめなさい』
「冒険者の荒さが二割くらい減ってる」
『否定しにくいのが嫌ね』
「子どもにおかえりなさいって言われると、雑に荒れにくいんだよ」
『人間は面倒ね』
「でも、そこが使える」
『迷宮主らしい言い方になってきたわね』
「褒められた?」
『少しだけよ』
「高貴なる少し、いただきました」
『足元』
「はい」
俺はすぐ黙った。
足元は沈まなかった。
俺、日々成長している。
たぶん。
清水の酒場が動き出すと、問題もすぐに出た。
まず料金だ。
清水は迷宮の水だ。
村人が勝手に値段をつけるわけにはいかない。
けれど、杯を洗う人はいる。
床を拭く人もいる。
薪を割る人も、皿を運ぶ人も、寝具を干す人もいる。
人間の手間は、ただでは続かない。
新しい広間の一角で、オルド村長、グラント、料理人、寝具管理の女将、仮受付の職員、そして村人たちが話し合っていた。
カティアとクレスも近くにいる。
メリダは、まるで酒場の常連みたいな顔で椅子に座っている。
まだ正式営業三日目なのに、馴染みすぎだ。
オルド村長が言った。
「清水そのものに値をつけることはできん。だが、杯を貸し、洗い、運ぶ者の手間は別だ」
グラントが頷く。
「ええ。水の代金ではなく、器と人手の代金。それなら筋が通ります」
カティアが目を細める。
「高くするなよ」
「高くすれば客が減ります。安すぎれば働く者が続きません」
「商人の顔だな」
「商人ですので」
寝具管理の女将が、腰に手を当てて言う。
「水一杯のために杯を出して洗って拭くんだ。銅貨一枚じゃ少し安いね。二枚なら、まあ続く」
料理人も頷いた。
「熱い汁物なら材料代がいる。水だけなら手間賃。分けて書け」
仮受付の職員が疲れた顔で記録する。
「清水用杯貸出、銅貨二枚。水代ではなく杯と洗浄の手間賃」
メリダが笑った。
「いいねえ。水は清いが、手間は人間臭い」
カティアが言う。
「その言い方はどうなんだ」
「褒めてるよ」
「分かりづらい」
ミルが首を傾げた。
「お水はただなの?」
エナさんが優しく答える。
「お水は迷宮からいただくものね。でも、杯を洗ったり、運んだりする人の仕事には、お代をいただくの」
「じゃあ、わたしが運んだら?」
「それもお仕事よ」
ミルの目が丸くなる。
「わたし、お仕事してる!」
周囲の村人が笑った。
冒険者も少し笑った。
でも、その笑いは馬鹿にするものではなかった。
水を運ぶ子どもにも役割がある。
清水の酒場は、そういう場所になり始めていた。
黒い水膜に、青白い表示が浮かんだ。
【安心、労働意欲、商売欲、滞在欲、再訪意欲を獲得】
【獲得DP:214】
【現在DP:4174】
「お、増えてる」
『少しずつね』
「少しずつでいいんだよ。毎日入る方が強い」
『殺して一度より、戻して何度も、かしら』
「そうそう。戻って、食って、直して、寝て、また来る。これが強い」
俺は清水の酒場を見た。
まだ足りないものだらけだ。
椅子も少ない。
棚も仮置き。
寝具も簡易。
メニューも薄いスープと清水ばかり。
でも、人が動いている。
仕事が生まれている。
冒険者が戻ってきて、そこに座っている。
悪くない。
かなり悪くない。
「DPも沢山溜まったし、サービスしてやるか」
『また軽いことを言い出したわね』
「大丈夫大丈夫。今回は酒場向けの小さいやつ」
『その大丈夫は、あまり信用していないわ』
「信用を積み立てたい」
『積み立て残高は低いわよ』
「世知辛い」
俺は酒場の調理場奥に意識を向けた。
普通の清水とは別。
料理用の水路とも別。
酒場でだけ使える、小さな湧き口。
泡立つ水。
現代の感覚では珍しくない。
でも、この世界にはない。
水に泡を閉じ込める。
喉で弾ける水。
酒を軽くする水。
清水の迷宮らしい、ちょっとしたサービス。
表示が浮かぶ。
【泡立つ清水湧き口】
【第1層酒場区画専用】
【消費DP:800】
【継続湧出量:小】
【通常清水とは別系統】
【生成しますか?】
「八百か。まあ、現代っぽい特殊水だし、こんなもんかな」
『安くはないわね』
「でも、酒場の売りになる。琥珀の雫の使い方も広がる。普通の酒にも使える。継続DP狙いなら投資としてあり」
『投資』
「元会社員ワードです」
『妙に現実的な響きね』
「では、生成」
【DPを消費します】
【現在DP:3374】
調理場の奥の壁が、静かに震えた。
石が裂けるのではなく、水の筋が走る。
壁の低い位置に、小さな湧き口ができた。
そこから、透明な水が細く流れ始める。
ただし、普通の水ではない。
細かい泡が、水の中でぱちぱちと弾けていた。
水面が、静かに鳴っている。
ぱち。
ぱちぱち。
最初に気づいたのは、料理人だった。
「おい。壁から妙な水が出てるぞ」
清水の酒場にいた者たちが、一斉にそちらを見る。
調理場の奥。
水路とは別の、壁の低い位置。
小さな湧き口。
そこから流れる、泡立つ水。
ミルが真っ先に近づいた。
「お水が鳴ってる!」
料理人が慌てて手で止める。
「待て、飲むな。腐ってるかもしれん」
道具商が後ろから覗き込む。
「水が泡立つなんて聞いたことがないぞ」
修理職人が腕を組む。
「毒じゃねえのか」
ミルが不満そうに頬を膨らませる。
「清水の迷宮のお水だよ?」
その通り。
でも、初見だとそうなるよね。
泡立つ水の湧き口の上。
壁に、水が細く走った。
【ジョッキ一杯に、琥珀の雫、匙一杯。】
それだけだ。
調理場にいた者たちが、壁文字を読む。
料理人が眉を寄せた。
「じょっき、というのは大きめの杯のことか?」
グラントがすぐに反応する。
「酒場用の大杯でしょう。匙一杯ということは、琥珀の雫を薄める飲み方ですか」
カティアが低く言う。
「また変なのが出たな」
メリダは楽しそうに笑っている。
「泡の水で、琥珀の雫を割るわけか。へえ」
クレスは壁文字をじっと見た。
「一本を一口で飲むものではなくなる、ということか」
セヴランは記録板を構え、湧き口と壁文字を交互に見ている。
「泡立つ清水。用途指定、琥珀の雫を匙一杯。酒場内調理場壁に新設」
仮受付の職員が、少し遠い目をした。
「また記録が増えましたね」
「増えましたね」
セヴランが淡々と答える。
職員は小さくため息をついた。
ごめん。
でも増やしました。
必要だったので。
最初に泡立つ水だけを口にしたのは、料理人だった。
木の杯に少しだけ注ぎ、警戒しながら飲む。
次の瞬間、顔をしかめた。
「痛い」
ミルが目を丸くする。
「痛いお水?」
「いや、痛いというか、舌が弾ける」
料理人はもう一口飲んだ。
今度は、少しだけ目を細める。
「……変だが、悪くない。口がさっぱりする」
道具商も恐る恐る飲む。
「うわっ」
フィンが笑った。
「すごい顔」
道具商は咳き込みながら言う。
「水が口の中で暴れる!」
サナが短く呟く。
「暴れる水」
マイラが記録板へ書きそうになって、少し迷った。
書いた。
暴れる水。
たぶん残る。
ミルは小さな杯にほんの少しだけ注いでもらい、口をつけた。
すぐに目を輝かせる。
「ぱちぱちする!」
エナさんが慌てて言う。
「少しだけよ」
「うん!」
ミルはにこにこしている。
泡立つ水だけなら酒ではない。
ただ、琥珀の雫を入れたら酒だ。
そこは絶対に分ける。
カティアがすぐに言った。
「ミルには酒を運ばせるなよ」
エナさんが頷く。
「はい。泡のお水と匙だけにします」
オルド村長も頷いた。
「酒を入れるのは、飲む本人か大人の係に限る。それでよいな」
グラントが笑う。
「妥当でしょう。琥珀の雫は持ち込み品ですし、酒場の商品として扱うには高すぎます」
「高すぎる?」
フィンが聞く。
グラントは琥珀の依頼札を指差した。
「琥珀の雫一本は金貨一枚相当です。それを五杯に分けても、一杯あたり大銀貨二枚ほど。酒場の普通の酒として売る値段ではありません」
フィンが顔を引きつらせる。
「水で薄めても高い」
シェラが淡々と言う。
「元が高いから」
ダリオが笑った。
「でも、五杯になるならだいぶ違うな」
クレスが頷く。
「パーティで分けられる。揉め事は減るかもしれない」
カティアが言う。
「うまければ別の揉め事が増えるけどな」
「それはあり得る」
クレスは否定しなかった。
琥珀の雫は、今までは一口で終わる高級品だった。
飲めばうまい。
だが、少ない。
誰が飲むか。
売るか。
取っておくか。
それだけで話し合いになる。
でも、ジョッキ五杯になるなら話が変わる。
薄まる。
でも、一口で終わらない。
香りを楽しみながら飲める。
仲間と分けられる。
それは、かなり大きい。
「試してみるか」
ダリオが言った。
シェラが頷く。
「試すべき」
カティアが二人を見る。
「琥珀の雫、持ってるのか」
ダリオは小さな革袋を叩いた。
「二本ある。昨日、第4層から戻った」
フィンが目を丸くする。
「行ったんですか」
「入口だけ見た翌日に二時間。さらにその翌日に、短く入って一本ずつ取った」
シェラが補足する。
「赤い影は追わなかった」
カティアが鼻を鳴らす。
「そこは当然だ」
「当然を守るのが難しい」
シェラが言う。
カティアは少しだけ口元を緩めた。
「分かってるならいい」
ダリオは琥珀の雫を一本取り出した。
小さな瓶。
琥珀色の液体。
それを見ただけで、酒場の空気が少し変わる。
グラントの目が商人の目になる。
セヴランの筆が速くなる。
料理人は鼻をひくつかせる。
ミルは興味津々だが、エナさんの横でちゃんと止まっている。
「試飲は三人でいい」
ダリオが言った。
「俺とシェラ。あと一人、適当に」
周囲が少しざわつく。
琥珀の雫の試飲。
それは、適当に選ぶには価値が高い。
カティアが周囲を見て、すぐに一人を指差した。
「ラグ。お前飲め」
「俺か?」
ラグが驚いた顔をする。
途中撤退して、講習を受けて、今は清水の酒場で汁物を飲んでいたDランク冒険者だ。
カティアは頷く。
「Cランクだけがうまいって言ってもつまらねえ。途中で戻る判断をしたDランクの舌も使え」
「舌の使われ方が怖いな」
ラグはそう言いながらも立ち上がった。
ミルが三つのジョッキを運ぶ。
それから、匙を三本。
炭酸水は、料理人が壁の湧き口から注いだ。
ミルは酒には触らない。
ジョッキと匙を置くと、一歩下がった。
「泡のお水です!」
「ありがとう」
ダリオが言った。
そして、自分の手で琥珀の雫の封を開けた。
香りが、ふわりと広がる。
木。
蜜。
煙。
乾いた果実。
それだけで、何人かが息を呑んだ。
ダリオは匙で琥珀の雫をすくう。
ジョッキ一杯に、匙一杯。
壁文字の通りに。
一杯目。
泡が、琥珀色を抱き込むように上がった。
二杯目。
香りが少し軽くなる。
三杯目。
酒場の空気が、妙に静かになる。
ダリオは瓶を見た。
「まだ残ってるな」
シェラが頷く。
「五杯分くらい」
「本当に五杯か」
「だいたい」
「だいたいでいい」
ダリオはジョッキを持ち上げた。
シェラも。
ラグも少し緊張した顔で持つ。
カティアが言う。
「一気に飲むなよ」
ダリオが笑う。
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「ばれたか」
「ばれる」
三人は、一口飲んだ。
最初に反応したのは、ラグだった。
「……なんだこれ」
ラグはジョッキを見た。
それから、もう一口飲む。
「酒なのに、軽い。でも、水じゃない。喉で跳ねて、あとから香りが戻ってくる」
ダリオは大きく息を吐いた。
「うまいな」
短い。
でも、重い一言だった。
彼はもう一口飲み、今度は笑う。
「薄まってるのに、弱くなった感じがしねえ。むしろ、香りが広がる。喉が面白い」
シェラは静かに飲んでいた。
少しだけ目を細める。
「一口で終わらない」
それから、もう一口。
「危ない」
カティアが即座に反応する。
「何がだ」
「話しながら飲める。少しずつ飲める。飲み終わるまで、次の一口を考える」
「つまり?」
「長く欲しくなる」
カティアは舌打ちした。
「やっぱり危ねえじゃねえか」
ダリオは笑っている。
「でも、いい危なさだ」
「酒飲みの言い訳だな」
「否定しない」
ラグはジョッキを両手で持っていた。
「琥珀の雫なんて、自分には縁がないと思ってた」
彼の声は、少しだけ真面目だった。
「でも、これなら……一本を組で分けられるな。誰が飲むかで揉めにくい」
トーレが後ろから言う。
「お前だけ飲むなよ」
ラグが振り返る。
「まだ取ってねえよ」
「取ったら分けろよ」
「戻れたらな」
その言葉に、少しだけ空気が落ち着いた。
戻れたら。
当たり前の言葉だ。
でも、この清水の酒場では、軽すぎない。
それでも、重すぎもしない。
これから挑戦者は増える。
獲得者も増える。
琥珀の雫も、いつまでも伝説の一口ではない。
少しずつ、扱いは日常に近づいていく。
その方がいい。
迷宮にとっても、人間にとっても。
クレスが三人の反応を見て言った。
「琥珀の雫一本で五杯。組で分けるにはちょうどいいな」
グラントがすぐに頷く。
「価値は落ちません。むしろ使い道が広がります」
カティアが睨む。
「売るなよ」
「琥珀の雫を酒場の商品にするには高すぎます。これは持ち込みで楽しむものにした方がよいでしょう」
珍しく、グラントの判断は早かった。
「ただし、泡水で普通の酒を割る商品は作れます」
料理人が顎を撫でる。
「安い麦酒を混ぜたらどうなる」
道具商が言う。
「果実酒は?」
寝具管理の女将が鼻で笑う。
「酸っぱい酒なら飲みやすくなるかもしれないね」
カティアが低く言う。
「潜る前に飲ませるなよ」
料理人が即答した。
「戻った客だけだ。仕事前に飲む馬鹿には出さん」
「それならいい」
仮受付の職員が記録板に書いていく。
泡水用ジョッキ貸出。
銅貨二枚。
琥珀の雫は持ち込みのみ。
酒を入れるのは本人、または成人の係。
酒場商品として、泡水割りの安酒を試作予定。
潜る前の飲酒禁止。
酔者の入層禁止。
書くことが多い。
職員の顔がまた少し遠くなる。
でも、必要な記録だ。
マイラが横から言う。
「手伝います」
職員は本気でありがたそうに頷いた。
「お願いします」
フィンがラグのジョッキを見ている。
「そんなにうまいですか」
ラグが少し意地悪く笑う。
「うまい」
「感想がずるい」
「自分で取ってこい」
「急に厳しい」
カティアが言う。
「そのために潜って死ぬなよ」
「はい」
フィンはすぐ真面目な顔になった。
泡立つ水。
琥珀の雫。
新しい飲み方。
それは楽しい。
でも、奥へ行く理由にもなる。
だから、釘は必要だ。
清水の酒場は、人を送り出す場所でもあるのだから。
黒い水膜の内側で、青白い表示が浮かんだ。
【驚き、嗜好、共有欲、商売欲、再挑戦意欲、滞在欲を獲得】
【獲得DP:176】
【現在DP:3550】
「よし。これ、続くやつだ」
『確かに、継続性はあるわね』
「琥珀の雫一本で五杯。パーティで飲める。しかも普通の酒を割るメニューも作れる」
『人間は、泡立つ水ひとつでよくそこまで騒げるものね』
「新しい飲み物は強いんだよ」
『貴方の世界では、そんなに一般的だったの?』
「一般的だったな。酒を割ったり、そのまま飲んだり」
『……そのまま飲むの?』
ヴェルティアが少しだけ湧き口の方を見る。
興味がありますね。
これは興味があります。
「高貴なる迷宮核様、泡デビューします?」
『その言い方が気に入らないわ』
「でも気にはなる」
『気になってはいないわ』
「じゃあ飲まない?」
『……味を確認するだけよ』
「はいはい、確認ですね」
『はいは一回!』
「はい」
俺は迷宮側で、小さな杯を二つ用意した。
炭酸水。
そして、琥珀の雫をほんの少し。
ジョッキではない。
試すだけだ。
ヴェルティアは杯を受け取り、しばらく中を見つめた。
泡が細かく弾けている。
琥珀色が、清水の中で淡く広がっている。
『見た目は悪くないわね』
「高貴なる泡です」
『余計な言葉を乗せるのをやめなさい』
「はい」
ヴェルティアは杯に口をつけた。
一口。
赤い瞳が、ほんの少しだけ開く。
沈黙。
それから、もう一口。
『……悪くないわ』
来ました。
悪くないわ、来ました。
これはかなり気に入っています。
俺はにやけそうになる口元を必死に抑えた。
抑えた。
抑えたはずだった。
『何よ』
「いえ、ヴェルちゃん気に入ったなって」
足元が沈んだ。
即。
早い。
最近、制裁の出が早い。
「すみません! 高貴なる試飲でした!」
『当然でしょう』
ヴェルティアはそっぽを向いた。
でも、杯は手放していなかった。
もう一口飲んでいた。
気に入ってるじゃん。
口には出さない。
俺、学習しました。
清水の酒場では、泡立つ水の湧き口の前に、小さな列ができていた。
琥珀の雫を持っている者は少ない。
けれど、泡水だけを試したい者は多い。
ミルはジョッキと匙を運ぶ。
酒を入れるのは、冒険者本人か大人の係。
エナさんは、洗い場で杯を受け取り、村人たちと一緒に洗っている。
料理人は安い酒を少しずつ泡水で割って、顔をしかめたり、頷いたりしている。
「これは薄い」
「これは悪くない」
「果実酒は泡に合うな」
道具商がすぐに札を用意する。
炭酸水割り果実酒、試作。
炭酸水割り麦酒、試作。
泡水用ジョッキ貸出、銅貨二枚。
琥珀の雫は持ち込みのみ。
文字は人間の手で書かれ、人間の手で壁際の札掛けに置かれた。
冒険者たちがそれを見る。
誰かが笑う。
誰かが財布を確認する。
誰かが、次に琥珀の雫を取ったら試してみようと言う。
軽い。
でも、それでいい。
これから挑む者は増える。
獲得者も増える。
琥珀の雫も、いつまでも一部の高ランクだけが遠巻きに見るものではない。
第4層から戻った者が、自分たちで楽しむものになる。
その方が、迷宮は回る。
戻る。
飲む。
話す。
また潜る。
直す。
買う。
泊まる。
戻る。
その繰り返しが、DPになる。
黒い水膜に、また小さな表示が浮かぶ。
【好奇心、飲食欲、共有欲、商売欲を獲得】
【獲得DP:39】
【現在DP:3589】
小さい。
でも、すぐまた次が揺れる。
【滞在欲、再訪意欲を獲得】
【獲得DP:27】
【現在DP:3616】
細かい。
でも、途切れない。
「これでいいんだよな」
『ええ』
ヴェルティアは、手元の杯を見ながら言った。
『殺して終わるより、ずっと長いわ』
「だな」
俺は清水の酒場を見る。
看板娘が、泡のお水を運んでいる。
料理人が、新しい酒の割り方を考えている。
商人が値段を考えている。
冒険者が笑っている。
カティアが釘を刺している。
クレスが記録と規則を確認している。
メリダが面白そうに飲み方を眺めている。
ラグがジョッキを大事そうに持っている。
ダリオが「次は五人で飲むか」と笑っている。
シェラが「飲みすぎない」と短く止めている。
水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
その横で、泡が弾ける。
ぱち。
ぱちぱち。
清水の酒場に、新しい音が増えた。
戻ってきた者が笑う音。
杯を置く音。
泡が弾ける音。
迷宮は、また少し人間臭くなった。
でも、それでいい。
人間が来るなら、人間臭さもDPになる。
水は清い。
酒は琥珀。
泡は、少しだけ騒がしい。
清水の酒場は、今日も入口で人を待つ。
奥へ行く者を見送り。
戻った者に、杯を出すために。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
清水の酒場に、泡立つ水が増えました。
琥珀の雫は一口の高級品から、仲間で分けられる楽しみ方へ少し広がりました。
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