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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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34/42

第34話 看板娘と清水の酒場



 清水の間に、人が増えた。


 水を汲みに来る村人。


 第2層で泥まみれになる新人。


 第3層の依頼札を見る冒険者。


 第4層の琥珀水紋門を遠巻きに見る中堅。


 仮受付。


 商人。


 教会関係者。


 そして、戻ってきた者を待つ者。


 最初は、水場だった。


 次に、訓練場の入口になった。


 その次に、報酬確認と依頼受付の場所になった。


 今は、違う。


 人が、ここで時間を使い始めている。


 座る。


 待つ。


 相談する。


 食べる。


 装備をほどく。


 濡れた外套を絞る。


 折れかけた革紐を結び直す。


 そして、どこで寝るかを考える。


 水音は変わらない。


 ぽたり。


 ぽたり。


 でも、その周りで人間の生活音が増えすぎていた。


「そこ、水汲みの列だぞ。干し肉を広げるな」


「すまん、ちょっとだけ」


「ちょっとが増えたら通れなくなるんだよ」


「あの、報酬確認台の横で靴を脱がないでください」


「泥が入って気持ち悪くてな」


「泥落とし場は向こうです」


「針と革紐、誰か持ってないか?」


「道具屋は宿場町まで戻らないとないぞ」


「今から戻るのかよ」


 うん。


 限界です。


 これはもう、水場の混雑とか、待機場所の不足とか、そういうレベルではない。


 駅前に人が増えすぎて、改札横で弁当を食べ始めた感じだ。


 いや、異世界で駅前とか言っても通じないけど。


 俺の中では完全に駅前だった。


 黒い水膜の内側で、俺は腕を組んだ。


「ヴェルティアさん」


『何かしら』


「第1層、足りません」


『見れば分かるわ』


「清水の間が、完全に冒険者のたまり場になってる」


『水場であり、入口であり、報酬確認所であり、依頼所であり、講習所になったのだから当然ね』


「機能を積みすぎた」


『貴方が積んだのよ』


「はい」


 反論できない。


 清水の水盤。


 泥落とし。


 仮受付。


 報酬確認台。


 依頼札。


 講習席。


 不要物投入口。


 第2層入口。


 第3層入口。


 琥珀水紋門。


 便利なものを増やした結果、人も増えた。


 人が増えれば、食べる。


 飲む。


 寝る。


 直す。


 買う。


 売る。


 待つ。


 つまり、生活が発生する。


 迷宮なのに。


 いや、迷宮だからこそ。


「殺してDPを得るのは、短いんだよな」


『ええ』


 ヴェルティアは赤い瞳で清水の間を見ていた。


『死は一度きり。恐怖も、血も、魔力も、装備も吸える。けれど、それで終わり』


「継続しない」


『通う者、戻る者、欲しがる者、待つ者、商う者。そちらの方が長く育つわ』


「だよな」


 殺して終わり。


 それは簡単だ。


 でも、この迷宮はそっちへ行かない。


 第1層で水を出す。


 第2層で転ばせる。


 第3層で報酬と危険を渡す。


 第4層で欲と判断を試す。


 なら、その前後も必要だ。


 潜る前に準備できる場所。


 戻ってから息を吐ける場所。


 装備を直せる場所。


 温かいものを腹に入れられる場所。


 明日、また潜るかどうかを考える場所。


「第1層、拡張しよう」


『何を作るつもり?』


「酒場、調理場、道具屋、修理場、簡易宿泊所」


『ずいぶん人間の町に寄せるのね』


「町じゃない。あくまで迷宮の入口機能」


『違いは?』


「迷宮は場所だけ作る。商売は人間がやる」


 ヴェルティアがこちらを見た。


『場所だけ?』


「そう。俺たちが酒を出すわけじゃない。料理もしない。道具も売らない。剣も直さない。布団も干さない」


『では、何をするの?』


「床、壁、水、排水、煙抜き、区画、導線、火気制限。あと、掃除しやすさ」


『地味ね』


「地味が一番大事なんです」


 料理人がいても、水と排水がなければ詰む。


 酒場があっても、座る場所がなければ揉める。


 修理場があっても、火花と油と木箱が近ければ燃える。


 宿泊所があっても、湿気と臭いがこもれば地獄。


 人間の商売は、人間がやる。


 迷宮は、人間が使える形の場所を作る。


 それがいい。


 やりすぎると、清水の迷宮が全部を抱えることになる。


 それは違う。


 俺たちは宿屋の主人じゃない。


 迷宮主と迷宮核だ。


「使わせる。でも、所有させない」


『人間が迷宮内で力を持ちすぎるのは避けるべきね』


「うん。商人ギルド独占も避けたい。村にも仕事を回す。冒険者にも便利にする。迷宮は流れを作る」


『人間の流れを選ぶ、ということね』


「そういうこと」


 俺はDP表示を呼ぶ。


【現在DP:5000】


 第1層拡張。


 酒場区画。


 調理場区画。


 道具屋区画。


 装備修理場区画。


 簡易宿泊区画。


 村人作業控え室。


 荷物置き場拡張。


 排水路増設。


 換気路増設。


 火気制限石床。


 清掃水路。


 必要DPが、青白く浮かぶ。


【第1層生活支援区画拡張】


【消費DP:1200】


【水路、排水、換気、石床、区画壁、火気制限、清掃導線を生成します】


【家具、商品、調理器具、寝具、工具、人員は生成されません】


「お、分かってる」


『当然でしょう。迷宮は万能雑貨店ではないわ』


「そこは助かる」


『ただし、人間を呼び込むほど、迷宮は人間の欲も抱えることになるわよ』


「分かってる」


 俺は清水の間を見た。


 ミルが、小さな桶を抱えて水汲み場のそばにいる。


 エナさんも一緒だ。


 最初に水を汲みに来た子。


 清水の価値を、俺たちに教えてくれた子。


 あの子がいる場所で、冒険者が戻ってくる。


 それは、悪くない。


「やろう」


『ええ』


 俺は、DPを流した。


【DPを消費します】


【現在DP:3800】


 清水の間の奥側。


 水汲み場とは反対の壁が、低く震えた。


 人間たちが、一斉に顔を上げる。


 壁が崩れるのではない。


 水が走る。


 石が引く。


 奥へ向かって、新しい通路が開いていく。


 広間。


 水路。


 排水溝。


 煙抜きの穴。


 火を扱うための石床。


 小さな店を並べられる壁沿いの区画。


 工具を広げられる固い床。


 簡易寝台を置ける長い部屋。


 そして、村人や働き手が休める控え室。


 家具はない。


 鍋もない。


 椅子もない。


 棚もない。


 寝台もない。


 商品もない。


 ただ、場所だけがある。


 人間が持ち込めるように、場所だけが整っている。


 清水の間にいた者たちが、呆然と新しい通路を見つめた。


 最初に声を出したのは、フィンだった。


「……また増えた」


 マイラが記録板を抱え直す。


「第1層、拡張」


 カティアが眉を寄せる。


「今度は何だ」


 クレスが新しい通路を見た。


「人を流す場所だな」


 グラントは、すでに目を細めていた。


 商人の目だ。


 とても分かりやすい。


 オルド村長は杖をつき、新しく開いた区画の入口まで歩いていく。


「これは……」


 その横で、ミルが目を丸くした。


「お部屋が増えた!」


 うん。


 とても正しい感想。


 そうです。


 お部屋が増えました。




 新しくできた区画には、まだ何もなかった。


 ただの空間。


 でも、人間たちはすぐに何に使えるかを考え始めた。


 グラントが調理場区画を見て、手を顎に当てる。


「水路、排水、煙抜き。火を扱う場所もありますね。鍋と竈を入れれば、すぐ使える」


 カティアが睨む。


「すぐ商売の顔をするな」


「商人ですので」


「開き直るな」


 セヴランは道具屋用の小区画を見ている。


「棚を置くには十分。盗難対策は必要ですが、入口から見える位置なら管理しやすい」


 クレスは修理場の石床を見た。


「装備の応急修理ができるのは大きい。革紐、釘、留め具、替えの靴紐。そういうものがあるだけで助かる」


 メリダは宿泊区画を覗いて、肩をすくめた。


「寝られるだけでありがたい冒険者は多いよ。床で丸まるより、ずっといい」


 フィンが小声で言う。


「床で丸まったことあるんですか?」


「あるよ」


「聞かなきゃよかった」


「聞いておきな。若いうちにね」


 ニーナは調理場を見ている。


「ここで、温かいものが食べられるようになるんですか?」


 その言葉に、何人かの冒険者が反応した。


 温かいもの。


 迷宮から戻ったあとに食べる温かいもの。


 それは、思ったより強い言葉だった。


 ダリオが腕を組んで、新しい広間を見た。


「酒場か」


 シェラが頷く。


「酒は危ない」


「だな」


「でも、汁物は良い」


「それは良い」


 カティアが二人を見る。


「第4層の入口を見る前に、酒で足を滑らせるなよ」


 ダリオは笑った。


「今日は飲まない」


「今日は、じゃねえ。潜る前に飲むな」


「分かってる」


 シェラが短く言う。


「飲むなら戻ってから」


「それも少量だ」


 カティアが付け足す。


 なるほど。


 酒場といっても、冒険者向けなら規則がいる。


 潜る前の酒は禁止。


 酔っている者は第2層以降に入れない。


 未成年、という概念がこの世界でどこまで同じかは分からないが、少なくともミルに酒を運ばせる気はない。


 そこは絶対だ。


「ヴェルティア、酒場区画に規則いるな」


『書くの?』


「壁に短く出そう。人間側でも札を作ってもらう」


『内容は?』


「潜る前の飲酒禁止。酔者の入層禁止。火気は調理場内のみ」


『妥当ね』


 俺は調理場区画の壁に、水を走らせた。


【潜る前の飲酒禁止】


【酔者の入層禁止】


【火気は調理場内のみ】


 短い。


 冷たい。


 でも十分。


 カティアが壁を見て、頷いた。


「そこは当然だな」


 グラントも笑みを浮かべる。


「酒を売る側としても、迷宮内で事故を起こされては困ります」


「だったら煽るなよ」


「努力します」


「実行しろ」


「はい」


 グラントが珍しく素直に頷いた。


 少し怖い。


 商人が素直な時は、だいたい別の計算をしている。




 その日のうちに、話し合いが始まった。


 場所は、清水の間の新しい広間。


 まだ椅子がないので、石床に布を敷いている。


 参加者は、オルド村長。


 グラント。


 セヴラン。


 仮受付の職員。


 クレス。


 カティア。


 メリダ。


 そして、村人たちが数人。


 ミルとエナさんも、少し離れたところにいた。


 ミルは新しい広間が気になって仕方ないらしく、何度もきょろきょろしている。


 エナさんは、その肩にそっと手を置いていた。


 オルド村長が、最初に口を開く。


「迷宮が場所を用意した。ならば、使う者の決まりを作らねばならん」


 グラントが頷いた。


「商人ギルドとしては協力できます。調理道具、保存食、簡易の酒、食器、棚、寝具、修理道具。手配は可能です」


 カティアが即座に言う。


「独占はなしだ」


 グラントは笑った。


「もちろん。独占すれば反発が出ます。長く使うなら、村とギルドと商人で役割を分ける方がよい」


 セヴランが記録板を見ながら言った。


「区画ごとに管理者を置く必要があります。酒場、調理場、道具販売、修理場、宿泊。全てを一人で見るのは無理です」


 オルド村長が村人たちを見る。


「村からも希望者を募る。水汲みだけではなく、皿洗い、掃除、寝具干し、薪運び、野菜の持ち込み、洗濯。できる仕事はある」


 村人たちが顔を見合わせた。


 清水の迷宮は、村に水をくれた。


 でも、今度は仕事を生む。


 それは、村にとって大きい。


 ただ、怖さもある。


 迷宮に近づく仕事だ。


 冒険者や商人と関わる仕事だ。


 誰でもできるわけではない。


 オルド村長は、そこを分かっている顔だった。


「無理に働かせることはせん。希望する者だけだ。迷宮に礼を失わず、客に流されず、村の仕事としてできる者を選ぶ」


 グラントが穏やかに言う。


「専門職はこちらで手配しましょう。料理人、道具商、革と金具の修理ができる職人、宿の寝具管理を知る者。早ければ明後日には第一陣を連れてこられます」


 仮受付の職員が疲れた顔で言った。


「また人が増えるんですね」


「増えますね」


「そうですか」


 職員の肩が少し落ちた。


 マイラが横から静かに言う。


「記録用の板、増やした方がいいです」


 職員は深く頷いた。


「増やします」


 クレスが言う。


「冒険者側にも規則を徹底する。潜る前の飲酒禁止。修理場での武器の抜き身放置禁止。宿泊区画での揉め事禁止。荷物の盗難はギルド処分」


 カティアが続ける。


「酒場で騒いで、第3層に入るやつがいたら蹴り出す」


 メリダが笑う。


「臆病者講習の前に、酔っぱらい講習が必要になりそうだねえ」


「そんな講習はいらねえ」


「でも、いそうだよ?」


「いるだろうな」


 カティアが嫌そうな顔をした。


 大変そうだ。


 でも、必要だ。


 清水の間は、もうただの水場ではない。


 戻る者を増やすなら、戻った後の場所もいる。


 次に潜る者を増やすなら、準備する場所もいる。


 その場所で人が動けば、欲も恐れも感謝も疲労も安心も生まれる。


 それは全部、迷宮の流れになる。


 継続的にDPを得る仕組み。


 言葉にすると商売っぽい。


 でも、やっていることは生活だ。


 生活は、強い。


 水と同じくらい、強い。




 その話し合いの最後に、ミルが小さく手を上げた。


 周囲の大人たちが、少し驚いてそちらを見る。


 ミルは一度エナさんを見た。


 エナさんが、ゆっくり頷く。


 それからミルは言った。


「あの、わたしも、働けますか?」


 清水の間が静かになった。


 冒険者たちも、商人たちも、村人たちも、少しだけ表情を変える。


 最初に声を出したのはオルド村長だった。


「ミル。ここは冒険者も来る。酒も扱うかもしれん。簡単な場所ではないぞ」


「はい」


「怖くはないか」


 ミルは少し考えてから、清水の水盤を見た。


「怖いです。でも、最初にお水をもらった場所だから」


 小さな声だった。


 けれど、よく通った。


「お母さんが元気になってきたのも、ここのお水のおかげだから。わたしも、ここでお水を出したいです」


 エナさんが、ミルの肩に手を置く。


「私も、できる範囲で働きたいと思っています。重いものはまだ無理ですが、皿洗いや、簡単な汁物なら」


 オルド村長は、黙って二人を見た。


 カティアが少しだけ眉を寄せる。


「子どもを酒場で働かせるのは、どうなんだ」


 その声は厳しかったが、責めているわけではなかった。


 むしろ、守るための声だ。


 エナさんが頭を下げる。


「夜は働かせません。酒は運ばせません。水と、軽い食事だけにします」


 ミルも慌てて頷く。


「お水だけでもできます!」


 メリダが頬杖をついて笑った。


「看板娘だねえ」


「かんばんむすめ?」


 ミルが首を傾げる。


 フィンが小声で言う。


「強そうな称号が出た」


 マイラが淡々と答える。


「強いと思う」


 サナが短く言う。


「似合う」


 リオも笑った。


「ミルが水を出してくれるなら、戻ってきたくなるな」


 ニーナが小さく頷く。


「おかえりなさいって言われたら、たぶん嬉しいです」


 その言葉に、何人かの冒険者が黙った。


 おかえりなさい。


 迷宮から戻ってきた者に、その言葉を言う場所。


 それは、思ったより重かった。


 未帰還の記録が残ったばかりだから、なおさらだった。


 クレスが静かに言う。


「時間を決めるべきだ。昼間だけ。酒は扱わない。水と食事の受け渡しだけ。何かあれば、すぐ大人が代わる」


 カティアも頷いた。


「冒険者に絡まれたら、即ギルド処分だ。子ども相手にくだらねえことするやつは、第2層にも入れねえ」


 グラントが笑みを消して言った。


「商人ギルド側も同じ扱いにしましょう。店の者にも徹底します」


 オルド村長は、しばらく考えた。


 そして、ミルを見る。


「昼間だけだ。無理はしない。母のそばを離れすぎない。酒は運ばない。それでよいなら、手伝ってみなさい」


 ミルの顔が、ぱっと明るくなった。


「はい!」


 清水の間に、少しだけ柔らかい空気が流れた。


 カティアが小さく息を吐く。


「迷宮の酒場に子どもがいるってのは、妙に落ち着かねえな」


 メリダが笑う。


「だからいいんだよ。ここが入口だって思い出す」


 カティアは何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目を細めた。




 その翌日。


 清水の間の新しい区画に、人間のものが入り始めた。


 村からは、木の机が三つ。


 長椅子が四つ。


 大きな桶。


 洗った布。


 乾いた薪。


 野菜の籠。


 豆と干し肉。


 古いが磨かれた食器。


 エナさんは、調理場の水路を見て、何度も頷いていた。


「水が近いと、洗い物がずいぶん楽ですね」


 ミルは小さな布を持って、机を一生懸命拭いている。


「ここ、ぴかぴかにする!」


 フィンがそれを見て、にこにこしていた。


「看板娘、仕事が早い」


 ミルが胸を張る。


「かんばんむすめです!」


 マイラが小さく頷く。


「自覚した」


 サナが言う。


「早い」


 リオが笑った。


「じゃあ俺たちも、汚さないようにしないとな」


 カティアが横から言う。


「汚したら拭け」


「はい」


 冒険者たちは素直だった。


 ミルの前で雑に振る舞うのは、思ったより難しいらしい。


 いいぞ、看板娘。


 すでに効果が出ている。


 黒い水膜の内側で、俺は拳を握った。


「ヴェルティア、見たか。看板娘バフだ」


『何の補助効果よ』


「冒険者の素行改善」


『……否定しきれないのが嫌ね』


「強いぞ、ミル」


『水を運ぶ子どもが、冒険者の行動を整える。人間は不思議ね』


「強い人に怒られるより、子どもに見られてる方が効く時ってあるんだよ」


『貴方にも?』


「俺は常に品行方正です」


『足元』


「すみませんでした」


 足元が少し湿った。


 危ない。


 今日もギリギリだった。




 昼過ぎには、簡単な汁物が出された。


 豆と野菜と干し肉の薄いスープ。


 豪華ではない。


 だが、温かい。


 清水で煮たせいか、灰汁が少なく、匂いが澄んでいた。


 最初に買ったのは、ラグ組だった。


 途中撤退して講習を受けていた四人組だ。


 ラグが木の椀を受け取り、湯気を見つめる。


「迷宮でスープを飲む日が来るとはな」


 トーレが小さく笑う。


「稼げなかったけど、飯は食える」


 ミーナが椀を両手で持つ。


「それでいい日もある」


 オットが頷く。


「死んでないしな」


 ミルが少し緊張した顔で、椀を渡した。


「お水もどうぞ」


 ラグは受け取り、少しだけ表情を緩めた。


「ありがとう」


 ミルはぱっと笑った。


「おかえりなさい!」


 その場の空気が、一瞬止まった。


 ラグ組の四人が、言葉をなくした。


 周囲の冒険者たちも、少しだけ黙る。


 おかえりなさい。


 戻ってきた者に言う言葉。


 それを、ミルが何の計算もなく言った。


 ラグは椀を見て、それからミルを見た。


「ああ。ただいま」


 その声は、少し低かった。


 けれど、温かかった。


 カティアが横を向く。


 メリダが笑っている。


 クレスは静かに目を伏せた。


 エナさんは、ミルの後ろで少しだけ目を潤ませていた。


 俺も、黒い水膜の内側で黙った。


 これは、強い。


 紅肌の雫より、琥珀の雫より、別の意味で強い。


 戻ってきた者に、おかえりと言う場所。


 第3層で迷い、第4層で心が滑り、それでも戻った者が、最初に水と声を受け取る場所。


 迷宮の入口に、それがある。


「……これ、いいな」


『ええ』


 ヴェルティアの声も、少しだけ静かだった。


『戻る理由が、また一つ増えたわね』


「だな」


 戻る理由。


 赤い小瓶だけじゃない。


 金貨一枚だけじゃない。


 自分の名前が記録されることだけでもない。


 おかえりと言われること。


 温かいものを飲むこと。


 明日も潜るかどうかを、椀を持ちながら考えること。


 それも、迷宮に人を戻す力になる。


 青白い表示が、俺の前に浮かんだ。


【安心、感謝、帰還実感、再挑戦意欲を獲得】


【獲得DP:42】


【現在DP:3842】


「少ないけど、いいDPだ」


『継続するなら、強いわ』


「うん。毎日、ちょっとずつ積み重なるやつだ」


 殺して終わりじゃない。


 帰って、食べて、休んで、直して、また考える。


 その全部が、迷宮の糧になる。




 さらに翌日。


 宿場町から荷車が来た。


 先頭にいたのはグラントだ。


 その後ろに、数人の専門職が続いている。


 腹の出た料理人。


 細い目の道具商。


 腕の太い修理職人。


 寝具と宿の管理を知る中年女性。


 それぞれが、荷車に道具を積んでいた。


 鍋。


 鉄の網。


 皿。


 木箱。


 棚板。


 革紐。


 釘。


 砥石。


 油。


 針。


 厚手の布。


 藁を詰める袋。


 予備の毛布。


 全部、人間の手で運ばれてきたものだ。


 グラントが新しい広間を見て、満足そうに笑う。


「では、始めましょうか。清水の迷宮前支援区画、仮営業です」


 カティアが即座に言う。


「名前が長い」


 フィンが小声で言う。


「硬い」


 マイラが頷く。


「商人名」


 サナが短く言った。


「覚えにくい」


 リオが笑う。


「清水の酒場でいいんじゃないか?」


 ミルが、ぱっと顔を上げた。


「清水の酒場!」


 エナさんが微笑む。


「分かりやすいですね」


 グラントは少し考えたあと、肩をすくめた。


「では、通称は清水の酒場で」


 カティアが鼻を鳴らす。


「最初からそうしろ」


「商人は正式名を長くしたくなるものです」


「知るか」


 料理人が調理場を確認する。


「水がいい。排水も近い。煙も抜ける。これなら汁物と焼き物はいけるな」


 道具商が小区画に棚板を立てかける。


「油紙、火打ち石、針、革紐、包帯、予備の水袋。最初はこの辺りだな」


 修理職人が石床を足で叩く。


「固い。火花も飛ばしにくい位置だ。革と金具の応急修理ならできる。剣を鍛え直すのは無理だぞ」


 宿管理の女性が宿泊区画を見る。


「寝台を置くにはまだ足りないね。今日は藁袋と毛布で簡易寝床。濡れ物を干す場所を分けなきゃ臭くなるよ」


 人が、場所を使い始める。


 空だった区画が、少しずつ形を持っていく。


 迷宮が作ったのは、ただの空間だ。


 そこに、人間が鍋を置く。


 棚を置く。


 道具を置く。


 寝具を置く。


 仕事を置く。


 役割を置く。


 村人たちも動き始めた。


 水を運ぶ者。


 皿を洗う者。


 床を拭く者。


 薪を積む者。


 野菜を持ってくる者。


 寝具を干す者。


 荷物を預かる者。


 オルド村長は、それを一つずつ確認していた。


「無理をするな。迷宮に慣れるまでは半日交代だ。体調が悪ければすぐ戻れ」


 村人たちが頷く。


 エナさんは調理場で、料理人の補助に入った。


 重い鍋は持たない。


 だが、野菜を洗う。


 豆を分ける。


 椀を並べる。


 清水を汲む。


 その動きは、ゆっくりだが丁寧だった。


 ミルは、小さな布を胸に結んでいる。


 エナさんが作った簡単な前掛けだ。


 それをつけたミルは、少しだけ誇らしそうに立っていた。


 フィンがそれを見て言う。


「看板娘感、増しましたね」


 ミルが胸を張る。


「かんばんむすめです!」


 サナが短く言う。


「強い」


 マイラが頷く。


「強い」


 リオが笑う。


「じゃあ、清水を一杯ください。看板娘さん」


 ミルはぱっと笑って、木の杯に水を注いだ。


「はい! 清水です!」


 リオが受け取って飲む。


「うまい」


「清水ですから!」


 そのやり取りを見て、周囲の冒険者たちが少し笑った。


 笑い方が、昨日までと少し違う。


 浮ついた笑いではない。


 戻ってきた場所で、息を吐く笑いだった。




 夕方。


 清水の酒場は、まだ仮の形だった。


 椅子は足りない。


 寝床も簡易。


 道具屋の棚も半分だけ。


 修理場では、修理職人が早速、切れかけた革紐を交換していた。


 酒はまだ出していない。


 今日は汁物と水だけ。


 それでも、人は集まった。


 第2層から戻った新人が、泥落としのあとにスープを飲む。


 第3層から戻った冒険者が、報酬確認を終えてから水を飲む。


 講習席の冒険者が、話を聞きながら干し肉入りの汁をすする。


 村人が皿を洗う。


 商人が不足品を記録する。


 仮受付が、宿泊希望者の数を書き留める。


 水音に、人の声が混じる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 からん、と椀が鳴る。


 誰かが笑う。


 誰かがため息をつく。


 誰かが、明日は第3層に入るかと相談している。


 その全部を、迷宮は飲み込んでいく。


 黒い水膜の内側に、表示が浮かんだ。


【安心、疲労回復感、商売欲、再挑戦意欲、帰還感謝、滞在欲を獲得】


【獲得DP:118】


【現在DP:3960】


「これだよ、これ」


『嬉しそうね』


「嬉しいよ。殺して一回より、戻って何度も。食べて、休んで、直して、また潜る。その方がずっと迷宮が育つ」


『人間を飼うような言い方ね』


「飼うんじゃない。通ってもらう」


『似ているようで、違うわね』


「違う。たぶん、かなり違う」


 俺は清水の酒場を見る。


 ミルが、戻ってきた冒険者に水を渡している。


「おかえりなさい!」


 冒険者は少し照れたように笑った。


「ただいま」


 その一言で、また小さく表示が揺れた。


【帰還実感を獲得】


 小さい。


 でも、確かだ。


 この小さな積み重ねが、清水の迷宮を育てていく。


 水を汲みに来た子が、今は水を出す側にいる。


 病み上がりだった母親が、温かい汁を作る側にいる。


 村人が働き、商人が運び、冒険者が戻り、職人が直す。


 迷宮は、場所を作っただけだ。


 でも、場所があると、人は役割を持ち込む。


 役割があると、人はまた来る。


 また来れば、迷宮は育つ。


「清水の酒場、開店だな」


『仮営業ではなかったの?』


「気持ちの問題」


『貴方は気持ちで言葉を雑に扱うわね』


「そこはまあ、庶民派なので」


『便利な言葉に逃げたわね』


「はい」


 ヴェルティアは呆れたように息を吐いた。


 でも、嫌そうではなかった。


 清水の間は、また少し変わった。


 水場から、入口へ。


 入口から、依頼所へ。


 依頼所から、酒場へ。


 もちろん、ここは町ではない。


 迷宮だ。


 第3層では、戻らない者が出る。


 第4層では、心が滑る。


 奥は優しくない。


 それでも、入口には水がある。


 温かい汁がある。


 直せる場所がある。


 眠れる場所がある。


 そして、小さな看板娘がいる。


 ミルが、また水を注いだ。


「清水です!」


 冒険者が笑って、杯を受け取る。


 水音が続く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清水の酒場は、まだ何もかも足りない。


 椅子も、棚も、寝具も、人手も、規則も、これから増やす必要がある。


 でも、最初の一杯だけは、もう出ている。


 それは、迷宮が人を殺して終わる場所ではなく。


 戻った者をまた送り出す場所になり始めた、最初の一杯だった。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


清水の間に、酒場ができました。

まだ仮営業ですが、看板娘はすでに強いです。


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