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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第33話 入口を見るために戻る者たち



 琥珀の雫の依頼札は、夕方になっても外されていなかった。


 金貨一枚。


 第4層踏破記録保持者。


 赤い依頼札の隣にあるその文字は、清水の間の空気を妙に重くしていた。


 昼まで、冒険者たちの目は紅肌の雫に吸い寄せられていた。


 大銀貨三枚。


 残日数十八以上。


 第3層踏破帰還記録保持者。


 見れば足が前に出る札だった。


 だが、三人組が戻らなかったあと、その赤い札は違うものに見え始めた。


 稼げる札。


 同時に、帰れなければ終わる札。


 その隣に、さらに奥の札がある。


 琥珀の雫。


 金貨一枚。


 けれど、それを受けるには第4層踏破記録がいる。


 そして、第4層へ入るには、第3層を踏破して帰還した記録がいる。


 越えただけでは足りない。


 戻らなければ、門は開かない。


 その条件を、清水の間にいる者たちは、ようやく肌で理解し始めていた。




「第4層の依頼、まだ残ってるか?」


 大柄な槍使いの男が、琥珀の雫の依頼札を見上げて言った。


 肩幅が広い。


 背には大きな槍。


 声も低い。


 けれど、粗い男ではなかった。


 清水の間に入ってから、一度も水盤の縁を踏んでいない。


 依頼札を見る前に、出口を見た。


 第3層への通路を見た。


 琥珀水紋門の位置を見た。


 そして、講習席に座る冒険者たちも見ていた。


 隣に立つのは、灰色のローブを着た女だ。


 細身で、目つきが鋭い。


 杖を持っているが、飾りは少ない。


 ローブの裾には乾いた泥の跡がある。


 仮受付の職員が名簿を確認し、少し緊張した声で言った。


「Cランク冒険者、ダリオ、シェラ。二名組。宿場町経由、プロンテラ方面より来訪」


 Cランク。


 周囲が少しだけざわつく。


 だが、昼のハルバ組の時ほどではない。


 この場にいる者たちは、もう見ている。


 Cランクでも、依頼札を軽く見れば危ない。


 Dランクでも、戻る判断ができれば次がある。


 ランクだけでは、第3層は測れない。


 それが、ほんの少しだけ伝わっていた。


 仮受付の職員が、琥珀の依頼札を見ながら答える。


「依頼は残っています。ただし、琥珀の雫取得依頼の受領条件は、第4層踏破記録保持者です」


 大柄な男、ダリオは小さく笑った。


「だろうな」


 シェラが第3層への通路を見る。


「第4層へ入る条件は?」


「第3層踏破、帰還記録保持者です」


「つまり、まず第3層から戻る必要がある」


「はい」


 ダリオは肩を回した。


「なら、まず第3層を抜けるか。ついでに、第4層の入口だけでも見てくる」


 その言葉に、清水の間の空気が少しだけ冷えた。


 ついで。


 入口だけ。


 昼にも、似たような軽さがあった。


 一回行って戻ればいい。


 紅肌が三本出れば、依頼分以外も売れる。


 そう言って第3層へ入った三人は、まだ戻っていない。


 カティアが低く言う。


「ついで、で帰れなくなる奴は多いぞ」


 ダリオはカティアを見た。


「だろうな」


「なら、言い方を考えろ」


「口が軽いんだ。許せ」


「許す理由がねえ」


 シェラが杖の柄で、ダリオの脇腹を小さく突いた。


「軽い」


「分かってる」


「今のは、かなり軽い」


「反省してる」


「していない声」


「厳しいな」


 ダリオは苦笑した。


 その軽さに、フィンが少しだけ眉を寄せる。


 だが、すぐに首を傾げた。


「……なんか、昼の三人とは違いますね」


 マイラが記録板を抱えたまま答える。


「見ている」


 サナも短く言った。


「軽い。でも、見てる」


 リオは依頼札から二人へ視線を移した。


「口だけ軽いのか」


 カティアは腕を組む。


「それを今から本人たちが証明するんだよ。戻ってこられりゃな」


 クレスが二人の前に出た。


「第3層の情報は?」


 ダリオは依頼札から目を離し、クレスを見た。


「藻の迷路。似た通路。水音で声が薄くなる。帰路喪失。報酬取得後に判断が乱れる。赤い小瓶は、取ったあとが危ない」


 シェラが続ける。


「壁印は大きく、少なく。細かい印は帰りに迷う。時間で止まる。報酬を見ても、その場で売却の話はしない。帰るまで数えない」


 クレスは頷いた。


「聞いてるな」


「聞いた」


 ダリオが答える。


「でも、聞いたこととできることは別だろ」


 カティアが少しだけ口元を歪める。


「分かってるなら、まだましだ」


 ニーナがシェラの杖を見る。


「魔術師、ですか?」


 シェラはニーナに視線を向けた。


「風と土。火はあまり使わない」


「土魔法……」


「泥の中で足場を固めるくらいならできる。迷宮の床を変えるほどではない」


 カティアが即座に言った。


「迷宮の床に余計なことをするなよ」


「しない」


 シェラは短く答えた。


「床を変えたら、帰り道も変わる」


 カティアは鼻を鳴らした。


「分かってるならいい」


 グラントが石席から口を開く。


「第3層で紅肌の雫を取得した場合、記録がそろっていれば商人ギルドで買い取りは可能です」


 ダリオはすぐに言った。


「今日は売らない」


 グラントの眉がわずかに上がる。


「理由を伺っても?」


「今日の目的は金じゃない。扉を見ることだ」


 シェラが続ける。


「紅肌の雫が出た場合は持ち帰る。ただし、帰路が乱れるなら捨てる」


 清水の間が、静かになった。


 捨てる。


 紅肌の雫を。


 大銀貨三枚にも四枚にもなる赤い小瓶を。


 フィンが思わず声を漏らす。


「捨てるんですか」


 シェラは頷いた。


「持って帰れない報酬は、荷物ではなく罠」


 メリダが、にこりと笑う。


「いいねえ。臆病者の匂いがする」


 ダリオが眉を上げた。


「褒めてるのか?」


「もちろん。生き残る才能があるってことだよ」


「なら、ありがたく受け取っておく」


 カティアが言う。


「口は軽いが、荷物は軽くする気があるわけだ」


「重い槍を背負ってるからな。余計なもんは持てねえ」


「その槍も余計そうだが」


「これは俺の半分だ」


「なら、残り半分でちゃんと帰ってこい」


「了解」


 ダリオは軽く手を上げた。


 その軽さに、今度は誰も顔をしかめなかった。


 軽い。


 だが、見ている。


 昼の三人組とは、軽さの底が違った。




 黒い水膜の内側で、俺は二人を見ていた。


「出たな、ちゃんと軽いやつ」


『妙な評価ね』


「大事だぞ。軽口を叩くやつ全員が駄目なわけじゃない。俺だって軽口でここまで来たようなところあるし」


『来たのか、流されてきたのか、微妙なところね』


「そこは優しくして」


『高貴なる検討だけしておくわ』


「検討で止まった」


 ヴェルティアは赤い瞳で、ダリオとシェラを見ていた。


『あの二人は、第4層を見ているわね』


「琥珀の依頼札だけじゃなくて、その手前の条件も見てる」


『紅肌の雫を目的から外したのも悪くないわ』


「うん。第3層を攻略する時、紅肌の雫を目的にしすぎると足が速くなる。でもあの二人は、扉を見るために第3層へ行く。紅肌は副産物」


『副産物にするには、価値が高すぎるけれど』


「だから危ない。そこで捨てるって言えたのは強い」


『口だけでなければね』


「だな」


 俺は清水の間を見た。


 講習席には、まだ人が座っている。


 メリダの臆病者講習を聞く者。


 ラグ組のように、途中撤退してから座った者。


 依頼札の前で足を止めた者。


 その横を、ダリオとシェラが通っていく。


 止まる者。


 進む者。


 同じ水音の中に、両方がいる。


 ああ、迷宮っぽくなってきたな。


 便利な水場で、訓練場で、依頼所で。


 でも、やっぱりここは迷宮だ。




 ダリオとシェラは、紅肌の雫の依頼を受けなかった。


 琥珀の雫の依頼も、当然まだ受けられない。


 仮受付に残したのは、帰還予定時刻と目的だけだった。


 第3層踏破帰還記録の取得。


 第4層入口確認のための条件達成。


 紅肌の雫は取得可能なら持ち帰り。


 ただし、帰路優先。


 仮受付の職員が、少し戸惑いながら聞く。


「紅肌の雫を取得した場合、確認後の扱いは?」


 ダリオはシェラを見る。


 シェラが答えた。


「保留。売買は今日決めない」


 グラントが小さく笑った。


「商人としては少々残念です」


 シェラは淡々と言う。


「残念で済むなら、良い日」


 グラントは目を細めた。


「なるほど。良い言葉です」


 カティアが釘を刺すように言った。


「今は商談の場じゃねえ。これ以上、依頼札の前で足を速くさせるな」


 グラントは肩をすくめた。


「失礼しました」


 クレスは二人を見る。


「第2層から確認して抜けろ。第3層に入った時点で、帰還予定時刻の管理を始める」


「分かった」


「第4層の門が開いても、今日は入るな」


 ダリオは片手を上げる。


「入口だけ見る」


 カティアが低く言った。


「その言葉、信用していいんだな」


 ダリオは、今度は笑わなかった。


「信用しなくていい。記録で見てくれ」


 シェラが頷く。


「帰れば、記録になる」


 クレスも頷いた。


「そうだ」


 二人は第2層へ向かった。


 その背中が、第2層の奥へ消える。


 清水の間に残った者たちからは、もう見えない。


 見えるのは、泥の匂いを少しだけ残した入口と、仮受付の記録板だけだ。




 清水の間では、しばらく誰も大きな声を出さなかった。


 仮受付の職員が、帰還予定時刻を記録する。


 クレスは第2層の入口ではなく、第3層への通路の方を見ていた。


 カティアは腕を組んだまま、依頼札の前に立つ冒険者たちを睨んでいる。


 メリダの講習席には、さっきより人が増えていた。


 フィンが小声で言う。


「中、見えないのが嫌ですね」


 マイラが頷く。


「だから記録が必要」


 サナが短く言う。


「戻るまで分からない」


 リオは赤い依頼札を見た。


「戻ってから、初めて分かるんだな」


 ニーナが杖を握る。


「第3層って、そういう場所なんですね」


 カティアが振り返らずに言う。


「今さらか?」


「……はい。今さらです」


「なら覚えとけ。中が見えねえから、戻るやつの価値がある」


 ニーナは小さく頷いた。


 清水の間には、水音だけが続く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 人は待つしかない。


 中に入った者が、自分の足で戻ってくるまで。




 黒い水膜の内側では、二人の姿が見えていた。


 第2層、ぬかるみ回廊。


 ダリオとシェラは、そこで時間を使った。


 泥の深さを見る。


 足の沈み方を見る。


 魔物をすべて倒そうとはしない。


 泥スライムは、進路を塞ぐものだけをどける。


 苔鼠は追わない。


 シェラは土魔法で泥の表面を一瞬だけ締めたが、床そのものを変えることはしなかった。


 ダリオは大きな槍を持っているのに、振り回さない。


 石突で距離を取る。


 泥に足を取られた時は、すぐに止まる。


 速くはない。


 だが、無駄に減らない。


「悪くないな」


『ええ。第2層を、勝つ場所ではなく残す場所として見ている』


「第2層で全部使い切ったら、第3層の帰りに足が残らないもんな」


『第2層を軽く見ていない。そこは評価していいわ』


「高貴なる評価?」


『普通の評価よ』


「高貴じゃない時もあるんだ」


『足元』


「はい」


 俺、学習しました。


 こういう時はすぐ引く。


 足元が沈む前に、心の中で土下座。


 大事。




 ダリオとシェラは、第2層を抜けた。


 泥落としの泉で靴と裾を洗う。


 水を飲む。


 時間を見る。


「予定より少し遅いな」


 ダリオが言う。


 シェラは地図板を確認しながら答えた。


「確認で増えた遅れ。悪くない」


「遅れに良い悪いがあるのか」


「ある。焦りで縮める遅れは悪い。確認で増える遅れは良い」


「覚えておく」


「覚えて」


「ああ」


 二人は第3層の入口へ向かった。


 藻の迷路。


 そこから先は、水音が変わる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清水の間の水音に似ている。


 だが、違う。


 清水の間の水音は、人を落ち着かせる。


 第3層の水音は、人の距離を薄くする。


 声を遠くする。


 帰り道を、少しだけ別の形に見せる。


 ダリオは入口で足を止めた。


「ここからか」


 シェラが頷く。


「ここから」


「入口だけ見て帰る、では駄目だよな」


「第3層踏破帰還記録にならない」


「だよな」


「軽く言わない」


「……今のもか」


「少し」


「分かった」


 ダリオは槍を持ち直した。


「戻るために行く」


 シェラが小さく頷く。


「戻るために」


 二人は第3層へ入った。




 第3層は、静かだった。


 水路。


 藻。


 湿った壁。


 似たような曲がり角。


 細い通路。


 天井から落ちる水。


 右へ行っても、左へ行っても、同じ場所へ戻ってきそうな感覚。


 ダリオは壁に触れない。


 触れそうになった時、シェラが杖で軽く止める。


「壁印は決めた場所だけ」


「分かってる」


「今、触ろうとした」


「癖だ」


「迷宮で癖は敵」


「分かった」


 十五分ごとに止まる。


 水を飲む。


 壁印を見る。


 地図板を見る。


 シェラが風の流れを確かめる。


 ダリオが槍の石突で床を叩き、音の返りを聞く。


 藻が床を覆い始めた時、ダリオは槍を横に構えた。


 シェラが短く言う。


「切りすぎない」


「なぜ?」


「帰りの目印がなくなる」


「なるほど」


 ダリオは藻を根元から斬らず、踏む場所だけを払った。


 シェラは壁の高い位置に、白石で大きな線を一本だけ引く。


 細かい印は付けない。


 大きく。


 少なく。


 戻る時に見える位置。


「迷宮が拒まないなら、ああいう印は使えるわけか」


『破壊ではなく、帰還のための目印だもの。拒む理由はないわ』


「帰るための工夫なら、こっちとしても歓迎だな」


『ええ。戻る者が増えるなら、迷宮は育つ』


 俺は第3層の壁に残った白い線を見る。


 細くない。


 多すぎない。


 帰りに目が拾える高さ。


 なるほど。


 生き残る人間は、こういうところが丁寧だ。




 やがて、水音が強くなった。


 ダリオの視線が、奥へ向く。


「近いか」


 シェラが聞く。


「何に」


「報酬」


「今、報酬を探した」


「……探したな」


「止まる」


 ダリオは自分で言って、足を止めた。


 シェラも止まる。


 二人は、その場で十だけ数える。


 何も起きない。


 だが、足は落ち着いた。


「自分で止まったな」


『悪くないわ』


「フィンの笛が外にあるなら、この二人は自分の中に笛を持ってる感じだな」


『面白い言い方ね』


「カティアが言いそう」


『本人が言ったような顔をしないことね』


「俺の心の中では言ってた」


『貴方の心の中は、だいたい騒がしいわね』


「否定できない」


 二人は、また進む。




 ダリオとシェラは、赤い光を見つけた。


 通路の奥。


 水路を越えた先。


 藻の影の中に、小さな赤が揺れている。


 紅肌の雫の報酬箱。


 ダリオの足が、半歩だけ速くなった。


 シェラが言う。


「足」


 ダリオは止まった。


「速くなったか」


「なった」


「見つけた瞬間だな」


「そう」


 ダリオは笑わなかった。


 ゆっくり息を吐く。


「赤いな」


「赤い」


「高そうだ」


「高い」


「持ち帰るか」


「帰れるなら」


 それだけで、足の速さが戻る。


 二人は報酬箱へ近づいた。


 周囲を確認する。


 水路。


 藻。


 天井。


 後方。


 左右。


 シェラが魔力を薄く広げる。


「大きな反応なし。小さい揺れあり」


「藻か?」


「たぶん」


「たぶんで手を出すのは嫌だな」


「嫌なら正しい」


「臆病者講習みたいになってきた」


「受けていないのに、影響されている」


「清水の間、怖いな」


「怖いから見る」


 二人は箱を開けた。


 中には、小瓶が二本。


 淡い赤。


 紅肌の雫。


 ダリオはすぐに手を伸ばさなかった。


 シェラが布を出し、一本ずつ包む。


 その間、ダリオは後ろを見ている。


 報酬を見ない。


 通路を見る。


 帰り道を見る。


「報酬を取る手より、後ろを見る目か」


『必要な判断ね』


「帰るまでが仕事、か」


『ええ』


 革袋の中に、赤い小瓶が二本入る。


 重さは軽い。


 だが、たぶん意識には重い。


 報酬を持ったあとの帰り道。


 第3層の本番は、ここからだ。




 帰路。


 第3層は、少しだけ姿を変えた。


 いや、たぶん、姿は変わっていない。


 変わったように見えるだけだ。


 報酬を持ったあと、人間の目が変わる。


 革袋の中に、赤い小瓶が二本ある。


 その重さは軽い。


 けれど、意識には重い。


 ダリオが一度、革袋へ手を伸ばしかけた。


 シェラが言う。


「触らない」


「数えただけだ」


「数えない」


「二本だぞ」


「分かっていても数えない」


「厳しい」


「帰るまで、赤はないものにする」


 ダリオは革袋から手を離した。


「赤はない」


「ない」


「じゃあ、何を持ってる?」


「帰る理由」


 ダリオは少しだけ笑った。


「それは重いな」


「重いから落とさない」


 俺は思わず頷いた。


「いいな、それ」


『帰る理由?』


「うん。紅肌の雫を金じゃなくて、帰る理由に変えた。こういう言葉が出るやつは強い」


『報酬を持った者は、帰る義務が強くなる』


「そう。それを分かってる」


 未帰還のあとに、ちゃんと戻るために潜る者が来た。


 それだけで、胸のざらつきが少しだけ別の形になる。


 消えるわけじゃない。


 でも、ただ重いだけではなくなる。




 第3層の帰り道で、水音が変わった。


 ぽたり。


 ぽたり。


 ぽた、ぽたり。


 右の通路から、細い水音が増える。


 ダリオが足を止めた。


「来た道は左か?」


 シェラが地図板を見る。


「印は左」


「音は右が近い」


「音を信じない」


「印を信じる」


「時間は?」


「予定より五分遅れ」


「戻る速度を上げるか」


「上げない。確認を減らさない」


「遅れるぞ」


「焦って迷うよりいい」


「分かった」


 二人は左へ進んだ。


 数歩。


 ダリオが息を吐く。


「右に行きたくなるな」


 シェラが頷く。


「音が呼んでいる」


「迷宮、性格悪いな」


「褒め言葉になるかもしれない」


「やめろ。聞こえてたら困る」


 聞こえてます。


 直接じゃないけど、なんとなく聞こえてます。


 俺は心の中で小さく手を上げた。


 そして、口に出す前に止めた。


 俺、学習しました。


 今言ったら、たぶん足元が沈む。


 高貴なる制裁は、最近反応が速い。




 ダリオとシェラは、帰路を選び続けた。


 音ではなく印。


 広い道ではなく、覚えのある道。


 進みやすい方ではなく、戻れる方。


 赤い小瓶は二本。


 だが、その話はしない。


 帰るまで、赤はない。


 帰るまで、仕事は終わらない。


 やがて、二人の前に第3層の出口が見えた。


 清水の間へ続く通路。


 ダリオが、そこで初めて大きく息を吐く。


「戻ったな」


 シェラが言った。


「まだ。受付まで」


「厳しい」


「床で転ぶかもしれない」


「ここで?」


「油断すると」


「分かった。受付まで」


 二人は第3層を出た。




 清水の間に、二人が戻ってきた。


 その瞬間、空気が動いた。


 誰かが息を吐く。


 誰かが姿勢を正す。


 講習席の冒険者たちが、二人を見る。


 泥。


 濡れた外套。


 藻のついた靴。


 疲労の残る肩。


 だが、倒れ込んではいない。


 焦ってもいない。


 ダリオは仮受付の石机の前まで歩き、そこで革袋を置いた。


「紅肌の雫、二本。確認を頼む」


 仮受付の職員が頷く。


「確認します」


 報酬確認台へ、小瓶が一本置かれる。


 魔力が流れる。


 瓶底に、水紋数字が浮かんだ。


 二十。


 報酬確認台にも、二十。


 職員が記録する。


 取得者、ダリオ、シェラ。


 取得日、本日。


 現在残日数、二十。


 二本目。


 二十。


 セヴランが記録板を構え、静かに頷く。


「二本とも、取得記録と一致。残日数二十」


 グラントが柔らかく笑った。


「買い取りは、いつでも」


 ダリオはすぐには答えなかった。


 シェラを見る。


 シェラは首を横に振る。


「今日は売らない」


 ダリオがそのまま伝えた。


「今日は売らない」


「理由は、やはり扉ですか」


 グラントが聞く。


「そうだ。今日は扉を見るための記録を取りに来た」


 仮受付の職員が記録板を確認し、はっきりと言った。


「第3層踏破、帰還を確認しました」


 それから、職員は手元の木札を取り出した。


 炭筆の先が、乾いた木肌をこする。


 ダリオ。


 シェラ。


 第3層踏破、帰還。


 紅肌の雫取得、二本。


 周囲の冒険者たちが、その木札を見る。


 踏破。


 帰還。


 その二つが並んで、ようやく記録になる。


 ダリオは琥珀水紋門へ視線を向けた。


 シェラも同じ方向を見る。


 だが、二人はすぐには動かなかった。


 カティアが言う。


「触るのか」


 ダリオは少し考えた。


 それから、首を横に振った。


「今日は触らない」


 清水の間が、少しだけざわつく。


 ダリオは琥珀水紋門を見たまま言った。


「入口を見に来た。でも、第3層から戻ったばかりだ。赤を持ってる。疲れもある。今触ったら、入口だけで済むか分からない」


 シェラが頷いた。


「今日は、条件を得た日。入口を見る日は、別」


 カティアが、わずかに目を細めた。


「……悪くねえ」


 クレスも静かに言う。


「いい判断だ」


 フィンが小さく息を吐いた。


「入口を見るのも、今日はやめるんだ」


 マイラが記録板に書く。


「第4層入口確認、延期。理由、疲労と報酬所持」


 サナが短く言った。


「正しい」


 リオも頷く。


「第3層をついでにしなかった」


 ニーナは琥珀水紋門を見つめたまま言う。


「入る前から、止まる判断がいるんですね」


 メリダがにこりと笑った。


「いいねえ。臆病者講習、聞く前から半分できてるよ」


 ダリオが講習席の方を見る。


「その講習、まだ空いてるか?」


 清水の間が、少しだけ静かになった。


 Cランクが講習席に座る。


 昼までなら、誰かが笑ったかもしれない。


 だが、今は誰も笑わなかった。


 メリダはいつものように笑う。


「もちろん。座った時点で、半分くらいは臆病者だよ」


 ダリオは石席に腰を下ろした。


「残り半分は?」


 シェラも隣に座る。


「帰ってから決まる」


 メリダは満足そうに頷いた。


「いいねえ。もう半分くらい分かってるじゃないか」


 カティアが呟く。


「面倒そうだが、悪くねえ」


 クレスも頷く。


「こういう流れは必要だ」


 グラントは琥珀の依頼札を見て、少しだけ笑った。


「依頼は、まだ残りましたね」


 セヴランが記録板を閉じる。


「ですが、記録は増えました」


「商売としては遠回りです」


「鑑定としては前進です」


「なるほど」


 グラントは肩をすくめた。


「迷宮との商売は、急ぐと損をしそうだ」


 カティアが即座に言う。


「分かったなら煽るな」


「努力します」


「努力じゃなくて実行しろ」


「厳しい」


「商人に優しくする理由がねえ」


 そのやり取りに、清水の間の空気が少しだけ戻る。


 だが、完全には戻らない。


 未帰還の記録は、まだ残っている。


 赤い依頼札も、琥珀の依頼札も、まだ壁にある。


 第3層への通路は、何も言わずに開いている。


 琥珀水紋門は、静かに閉じている。


 水音は変わらない。


 ぽたり。


 ぽたり。


 戻らなかった者がいる。


 戻ってきた者がいる。


 入口を見たいと言いながら、今日は見なかった者がいる。


 清水の間は、その全部を飲み込んで、少しずつ迷宮らしくなっていく。




 黒い水膜の内側に、青白い表示が浮かんだ。


【第3層踏破、帰還を確認しました】


【ダリオ、シェラ】


【紅肌の雫取得、二本】


【第4層入場条件を満たしました】


【第4層未接触を確認しました】


【欲、警戒、好奇心、判断抑制、帰還意識を獲得】


【獲得DP:386】


【現在DP:5000】


「おお、きれいに五千」


『数字の見栄えに反応するところが、少し俗っぽいわね』


「元会社員なので、キリのいい数字には弱い」


『威厳がないわ』


「威厳より分かりやすさで売ってます」


『売ってはいないでしょう』


「それもそう」


 俺は琥珀水紋門を見る。


 ダリオとシェラは、今日は触らなかった。


 第3層を踏破した。


 紅肌の雫も持ち帰った。


 第4層に入る条件も得た。


 それでも、入口を見るのを明日に回した。


 入口だけ。


 少しだけ。


 様子見だけ。


 その「だけ」が危ないと、二人は分かっていた。


「こういうのが増えるといいな」


『戻る者?』


「戻る者。あと、入口の前で止まれる者」


『欲を持ちながら、欲で足を動かしすぎない者ね』


「そうそう」


 俺は少し考える。


 第4層の入口。


 琥珀水紋門。


 これから、第3層を越えた者は、きっと触れたくなる。


 今日のダリオたちみたいに、入口だけ見たいと思う者も出る。


 そして、開いた門の先を見たら、足を出したくなる者も出る。


 なら、先に書いておいた方がいい。


「壁文字、増やすか」


『何を書くの?』


「こういうの」


 俺は琥珀水紋門の横へ意識を向けた。


 水が壁を伝う。


 清水の間の石壁に、細い文字が浮かび上がる。


 短く。


 冷たく。


 でも、見れば分かるように。


【第四層の門は、第三層を越えた者ではなく、第三層から戻った者にのみ開く】


 文字が刻まれた瞬間、清水の間にいた何人かが顔を上げた。


 仮受付の職員が、すぐにその壁文字を記録板に写す。


 カティアが壁を見て、鼻を鳴らした。


「いいこと書くじゃねえか」


 クレスも頷く。


「必要な言葉だ」


 メリダが笑う。


「戻った者、ねえ。臆病者向きだ」


 フィンが壁文字を読んで、少しだけ背筋を伸ばす。


「越えた者じゃなくて、戻った者」


 マイラが記録板に写す。


「重要」


 サナが短く言う。


「そこ」


 リオも頷いた。


「そこだな」


 ニーナは琥珀水紋門を見る。


「第4層に入る前から、帰ることを考える」


 シェラが、その言葉に頷いた。


「そう」


 ダリオは壁文字を見て、少しだけ笑った。


「言われたな」


 シェラが返す。


「言われてよかった」


「ああ」


 ダリオは琥珀水紋門から視線を外した。


 今度は、完全に。


 そして、講習席に座り直した。


 赤い依頼札は、まだ残っている。


 琥珀の依頼札も、まだ残っている。


 未帰還の記録も、消えない。


 だが、その横に新しい記録が増えた。


 第3層踏破、帰還。


 第4層入場条件達成。


 第4層未接触。


 進んだ者。


 戻った者。


 そして、入口の前で止まった者。


 清水の間に、水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清水の間は、今日も優しい。


 けれど、その奥にある琥珀色の門は、まだ開かれていない。


 だからこそ、明日、誰がその前に立つのか。


 それを待つように、壁の文字だけが静かに濡れていた。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第4層の入口は、まだ開かれませんでした。

けれど、入口を見る前に止まれる者もまた、迷宮にとっては大事な記録です。


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