第32話 帰らなかった者たち
紅肌の雫が仕事になる。
その話が広がるのに、時間はかからなかった。
翌朝の清水の間は、昨日より明らかに人が多かった。
水を汲みに来た村人。
第2層で泥まみれになる新人冒険者。
第3層の依頼札を睨む中堅冒険者。
報酬確認台の前で書類を抱える仮受付の職員。
そして、紅肌の雫の買い取りを狙う商人たち。
水音は変わらない。
ぽたり。
ぽたり。
けれど、そこに混じる人間の声は、もう水場のものだけではなかった。
「紅肌の雫、まだ依頼残ってるか?」
「残ってるけど、希望残日数十八以上だぞ」
「第3層踏破帰還記録持ちなら受けられるって聞いた」
「五人で入れば五本出るんだろ?」
「依頼分以外も買い取るってよ」
依頼札の前で、知らない顔の冒険者たちがざわついている。
宿場町から来た者。
プロンテラ方面から商人と一緒に来た者。
噂を聞いて、半信半疑で覗きに来た者。
その全員の目が、赤い依頼札に吸い寄せられていた。
グラントは石席の近くで、柔らかい笑みを浮かべている。
「依頼分以外の紅肌の雫も、記録がそろっていれば商人ギルドで買い取ります。残日数が多いものほど、高値になりますよ」
その一言で、冒険者たちの目がさらに鋭くなった。
カティアが低く言う。
「煽るな」
「事実を述べているだけです」
「事実は人を走らせるんだよ」
グラントは肩をすくめた。
「なら、走らないように教えるのが冒険者の仕事でしょう」
「商人らしい押しつけ方だな」
カティアは舌打ちした。
クレスは依頼札の前へ進み、周囲を見回した。
その場の声が少しだけ小さくなる。
「依頼を受けるのは自由だ」
クレスは静かに言った。
「第3層に入るのも自由だ。だが、第3層は訓練場ではない。報酬がある迷宮だ」
冒険者たちが黙る。
「戻れなければ、依頼は失敗になる。信用も失う。運が悪ければ、命も失う」
カティアが腕を組んだまま続けた。
「受けるなとは言わねえ。だが、帰れなかったやつの報酬は、誰にも払われねえぞ」
フィンが小声で呟く。
「急に場が冷えましたね」
マイラが淡々と返す。
「必要」
サナが頷く。
「浮いてた」
リオは依頼札から目を離し、周囲の冒険者たちを見た。
「昨日の俺たちも、ああ見えてたのかもな」
ニーナが杖を握る。
「見えていたと思います」
「はっきり言うなあ」
そこへ、三人の冒険者が前に出た。
先頭の男は三十代半ばほど。
槍を背負い、革鎧の上から鉄の胸当てをつけている。
無駄に飾った装備ではない。
使い込まれて、手入れされている装備だ。
隣には短剣を腰に差した女。
さらに後ろに、杖を持った男。
仮受付の職員が名簿を見て、少し緊張した声で言った。
「Cランク冒険者、ハルバ組。第3層取得依頼、一件受領希望です」
周囲がざわつく。
Cランク。
その言葉には重さがある。
ハルバと呼ばれた槍使いは、クレスへ軽く頭を下げた。
「噂は聞いている。紅肌の雫を取りに来た」
クレスが聞く。
「第3層の情報は?」
「藻の迷路。足元、水路、似た通路、帰路の喪失。報酬取得後に判断が乱れる」
ハルバは淡々と答えた。
「第2層は?」
「確認しながら抜ける。訓練場と聞いているが、油断する気はない」
カティアが目を細める。
「ふうん。まともだな」
短剣の女が笑った。
「まともじゃなきゃCまで残れないよ」
フィンが小声で言う。
「名言っぽい」
サナが短く返す。
「生存者の言葉」
ハルバ組は、依頼札を受け取った。
だが、その顔に浮つきはない。
報酬額を見ても、すぐに折りたたんでしまった。
まず水を飲む。
装備を確認する。
靴紐、袋、地図板、炭筆、帰還用の水。
そして、三人は第2層へ向かった。
「そのまま第3層まで行くのか」
リオが呟く。
クレスが答えた。
「行くだろう。止める理由はない」
カティアも言う。
「経験があって、驕ってないやつは強い。迷宮で一番生き残るタイプだ」
黒い水膜の内側で、俺はハルバ組の背中を見ていた。
「おお、ベテラン感」
『落ち着いているわね』
「依頼札を見て目が燃えすぎないの、いいな。紅肌の雫を商品じゃなくて、仕事の対象として見てる感じ」
『仕事にできる者と、欲に飲まれる者。その差ね』
「だなあ」
清水の間では、人間たちが勝手に線を引き始めていた。
クレスもカティアも止めない。
迷宮も止めない。
でも、警告はある。
講習席もある。
水もある。
あとは、潜る側の判断だ。
「これでいいんだよな」
『何が?』
「依頼は自由。潜るのも自由。戻るのも自由。失敗するのも、まあ、自由」
『人間のくせに、ずいぶん迷宮側の言い方になったわね』
「第3層からは本物の迷宮だからな。全員の手を引いて戻すなら、第3層を作った意味がない」
『ええ』
「まあ、戻れるやつが増える仕組みは作るけど」
『それが第2層であり、講習席なのでしょう』
「そういうこと」
俺は第3層へ向かう通路を見た。
水場の音は優しい。
でも、その奥にある通路は、優しいだけの場所ではない。
それでいい。
そうでなければ、紅肌の雫に価値はつかない。
昼前。
最初に戻ってきたのは、ハルバ組だった。
三人とも泥はついている。
外套も濡れている。
だが、息は乱れていない。
槍使いのハルバは、革袋を仮受付の石机に置いた。
「紅肌の雫、三本。依頼分は一本」
清水の間にざわめきが走る。
三本。
三人で入り、三人で戻った。
報酬も三本。
仮受付の職員が報酬確認台の前に立つ。
「一本ずつ確認します」
セヴランが隣で記録板を構えた。
マイラも少し後ろで、確認の手順を見ている。
一本目。
仮受付の職員が魔力を流す。
瓶の底に、水紋数字が浮かぶ。
二十。
報酬確認台にも、二十。
職員が記録する。
取得者、ハルバ組。
取得日、本日。
現在残日数、二十。
二本目。
二十。
三本目。
二十。
セヴランが頷いた。
「三本とも、残日数二十。取得記録と一致」
職員は小さく息を吐き、札をつけていく。
依頼分、一。
残り二。
グラントがすぐに笑みを浮かべた。
「残り二本、買い取りも可能です」
ハルバは即答しなかった。
短剣の女と杖の男へ視線を向ける。
短剣の女が言う。
「一本は売る」
杖の男が続ける。
「一本は保管。次の依頼用でも、自分たち用でも使える」
ハルバが頷いた。
「では、依頼分一本。商人ギルド買い取り一本。組保管一本で」
仮受付の職員がさらに札をつける。
迷いが少ない。
手慣れている。
フィンが感心したように言う。
「早い」
マイラが頷く。
「決めてから潜っている」
サナが短く言う。
「だから戻れる」
カティアは依頼札の前にいた冒険者たちへ視線を向けた。
「見たか。あれが仕事として潜るってことだ。行き当たりばったりで、帰ってから金の計算をしてるわけじゃねえ」
ハルバは苦笑した。
「金の計算はしているさ。先に済ませているだけだ」
グラントが笑う。
「素晴らしい。商人としても大変ありがたい」
「商人にありがたがられると、少し不安になるな」
短剣の女が肩をすくめた。
だが、その軽口にも余裕があった。
周囲の冒険者たちは、三本の紅肌の雫と、三人の落ち着いた様子を見比べていた。
本当に持ち帰れる。
だが、誰でも簡単に持ち帰れるわけではない。
その両方が、目の前にあった。
次に第3層へ向かったのは、Dランクの四人組だった。
名前は、ラグ、トーレ、ミーナ、オット。
宿場町から来た冒険者たちらしい。
装備は悪くない。
声も大きくない。
ただ、どこか迷っている。
依頼札の前で足を止め、講習席を見て、また依頼札を見る。
カティアが言った。
「迷ってるなら受けるな」
リーダーらしいラグが、すぐに頷いた。
「今日は依頼なしで入ります」
周囲の若い冒険者が笑いかけた。
「Dランクなのに?」
ラグはその相手を見た。
「Dランクだからだ」
笑いかけた冒険者が黙る。
ラグ組は第2層を抜け、第3層へ入った。
戻ってきたのは、昼過ぎだった。
紅肌の雫はない。
ただ、四人とも帰ってきた。
ミーナの外套は藻で汚れている。
オットの地図板には、途中で引き返した印がいくつもある。
ラグは仮受付の前で頭を下げた。
「今日は途中撤退だ。水路の音が変わったところで、帰路に不安が出た」
クレスが頷く。
「良い判断だ」
トーレが悔しそうに言う。
「でも、何も取れてない」
カティアが即座に返した。
「今日は稼げなかっただけだ。死んだわけじゃねえ」
トーレは口を閉じた。
ラグが仲間たちを見る。
「次は講習を受けてから行く」
メリダが石席から手を上げた。
「臆病者講習なら空いてるよ。臆病は安い。死ぬよりずっと安い」
フィンが小さく言う。
「あの講習名、やっぱり攻めてる」
マイラが返す。
「でも効く」
ラグ組は講習席へ向かった。
その姿を見て、何人かの冒険者が依頼札から目を離した。
午後。
清水の間の空気が少し緩んだ頃、若い三人組が現れた。
全員、宿場町で見たことのない顔だった。
新しい革鎧。
手入れされた剣。
新品に近い背嚢。
顔には自信があった。
先頭の男が依頼札を見て笑う。
「第3層だろ? Cランクが行けたなら、俺たちもいける」
カティアの目が細くなった。
「ランクは?」
「Dだ」
「どこの?」
「宿場町の出張所で受けてる」
「第3層の経験は?」
「第2層なら抜けた」
カティアはしばらく黙った。
それから言った。
「講習を受けてからにしろ」
男は笑った。
「時間がもったいない。紅肌の雫は残日数が多い方が高いんだろ」
クレスが静かに言った。
「受けるのは自由だ」
カティアが横目でクレスを見た。
だが、止めなかった。
クレスは続ける。
「ただし、帰還時刻は仮受付に残せ。過ぎても戻らない場合、依頼は失敗扱いになる」
「分かってる」
男は軽く答えた。
仲間の一人が少し不安そうに講習席を見る。
「本当にいいのか?」
「一回行って戻ればいいだけだ。紅肌が三本出れば、依頼分以外も売れる」
その言葉に、周囲が静かになった。
フィンが小さく息を呑む。
マイラは記録板を握る手を強くした。
サナが短く言った。
「軽い」
リオも頷く。
「軽いな」
三人組は第2層へ入った。
泥に手こずりながらも、しばらくして第3層へ向かった。
清水の間では、誰も大声では話さなかった。
ただ、水音だけが続く。
ぽたり。
ぽたり。
帰還予定時刻が近づく。
過ぎる。
誰も戻らない。
さらに時間が過ぎる。
仮受付の職員が、記録板を見つめたまま顔を青くした。
「……戻りません」
カティアは目を閉じた。
クレスは第3層への通路を見たまま動かない。
グラントの笑みも消えている。
依頼札の前にいた冒険者たちも、誰も口を開かない。
やがて、仮受付の職員が静かに札を外した。
三人組が受けた依頼札。
未帰還。
依頼失敗。
それだけだ。
清水の間の空気は、急に冷たくなった。
死体はない。
悲鳴も聞こえない。
けれど、帰ってこない。
それだけで十分だった。
黒い水膜の内側に、青白い表示が浮かんだ。
【第3層内にて、欲、焦り、恐怖、喪失を獲得しました】
【血肉、装備、魔力残響を吸収しました】
【帰還失敗を確認しました】
【獲得DP:864】
【現在DP:4614】
「帰ってこない組も出るよな」
『ええ』
「紅肌の雫が仕事になるなら、そういう仕事にもなる」
『驚かないのね』
「驚きはしないよ。第3層からは、本物の迷宮だって決めたんだから」
俺は清水の間を見る。
水場には村人がいる。
講習席にはラグ組がいる。
依頼札の前には、青ざめた冒険者がいる。
その奥に、第3層への通路がある。
「講習も作る。水も置く。戻る考え方も広める。でも、奥へ行くかどうかは冒険者が決める」
『戻れなかったとしても?』
「それも含めて、迷宮だろ」
少しだけ、胸の奥にざらつきはある。
でも、沈み込むほどではない。
ここで全部を背負ったら、第3層はただの危ない施設になってしまう。
違う。
ここは迷宮だ。
欲しい者が潜る。
戻れる者が持ち帰る。
戻れない者は、戻れない。
「だからこそ、帰ってきたやつの価値が上がる」
『人間らしくない言い方ね』
「迷宮主だからな」
『少しはらしくなったわね』
「そこは喜んでいいやつ?」
『さあ』
「さあって」
ヴェルティアは赤い瞳で第3層への通路を見ていた。
笑ってはいない。
だが、悲しんでもいない。
迷宮核として、ただ見ている。
俺も同じ場所を見る。
あの奥は、そういう場所だ。
未帰還の知らせは、清水の間に静かに広がった。
騒ぎにはならなかった。
泣き叫ぶ者もいない。
彼らはこの村の者ではなかったし、清水の間に長くいたわけでもない。
だが、冒険者たちは理解した。
帰ってこない者が出た。
それだけで、依頼札の文字は別のものに見え始めた。
大銀貨三枚。
残日数十八以上。
第3層踏破帰還記録保持者。
さっきまで輝いて見えた文字が、急に重くなった。
若い冒険者の一人が、ぽつりと言った。
「討伐とかにはならないのか」
その声は小さかった。
だが、清水の間では妙に響いた。
オルド村長が水汲み場のそばで振り返る。
エリオ神官も顔を上げた。
クレスが答える前に、カティアが言った。
「討伐ってのは、ここなら封印か立入禁止だ。つまり、この水も止まる」
村人たちの顔が強張った。
オルド村長が低く続ける。
「清水の迷宮は、村を襲っておらん。魔物が外へ溢れたわけでもない。水を出し、冒険者を鍛え、報酬を出している」
エリオ神官が静かに言う。
「人が、欲を持って奥へ入ったのです。迷宮が外へ害を撒いたわけではありません」
グラントも口を開いた。
「それに、封鎖となれば反発は大きいでしょう。村人は水を失う。冒険者は訓練場を失う。商人は報酬を失う。紅肌の雫や琥珀の雫を求める人々も黙ってはいません」
カティアが鼻を鳴らす。
「結局、欲か」
「欲も秩序の一部です」
グラントは苦笑した。
クレスは第3層への通路を見たまま言った。
「だからといって、甘く見ていい理由にはならない」
その場にいた冒険者たちが、静かに頷く。
討伐にはならない。
だが、死なないわけではない。
封鎖されない。
だからこそ、自己責任になる。
その当たり前が、ようやく人の肌に触れ始めていた。
依頼札の前にいた冒険者たちが、少しずつ動いた。
第3層へ向かう者ではない。
講習席へ向かう者たちだった。
一人が座る。
また一人、座る。
さっきまで紅肌の雫の依頼札を睨んでいた若い冒険者が、黙って腰を下ろす。
ラグ組の隣に座った男が、気まずそうに言った。
「臆病者講習、まだ受けられるか」
メリダが笑った。
「もちろん。座った時点で、半分くらいは臆病者だよ」
「褒めてるのか?」
「生き残る才能があるって言ってる」
男は少しだけ笑った。
その笑いは、さっきまでの浮ついた笑いとは違っていた。
フィンが小声で言う。
「講習席、満席になりそうですね」
マイラが頷く。
「必要になった」
サナが短く言う。
「見たから」
リオは依頼札を見る。
「稼げる。でも、戻れないなら終わり」
ニーナが杖を握る。
「それが、ちゃんと伝わったんですね」
クレスは講習席へ向かう冒険者たちを見て、静かに言った。
「帰らなかった者が、戻る者を増やすこともある」
カティアが言う。
「いい言い方するじゃねえか」
「事実だ」
「そういうところだよ」
カティアは肩をすくめた。
清水の間に、また水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
紅肌の雫は、冒険者を集めた。
だが、第3層は戻れる者と戻れない者を分けた。
そして、戻れなかった者の影が、講習席に人を座らせた。
夕方。
依頼札の数は減っていなかった。
むしろ、商人ギルド経由の新しい札が一枚増えている。
紅肌の雫の依頼札。
そして、その隣。
琥珀の雫の依頼札。
金貨一枚。
第4層踏破記録保持者。
その文字だけは、周囲の冒険者たちもまだ遠巻きに見ていた。
第3層で未帰還者が出た日だ。
第4層の依頼札は、さらに重く見えた。
だが、欲は消えない。
入口近くに、二人の冒険者が立った。
一人は大柄な男。
肩幅が広く、背には大きな槍を背負っている。
もう一人は、灰色のローブを着た女。
細身で、目つきが鋭い。
男は琥珀の雫の依頼札を見て、にやりと笑った。
「第4層の依頼、まだ残ってるか?」
仮受付の職員が、少し慎重に答える。
「残っています。ただし、取得依頼の受領条件は第4層踏破記録保持者です」
「だろうな」
男は肩を回した。
灰色のローブの女が、第3層への通路を見る。
「第4層に入るにも、第3層の帰還記録が必要だったはず」
「なら、とりあえず第3層に行ってくるか」
男は軽く笑った。
だが、その笑いは、昼に帰らなかった三人組のものとは違っていた。
軽いようで、目は第3層の奥を見ている。
カティアがその二人を見て、口元を少しだけ歪めた。
「また、面倒そうなのが来たな」
クレスは静かに答える。
「だが、見ている」
「ああ。あれは、見てるやつだ」
清水の間の水音が、いつもより少しだけ低く響いた気がした。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
戻れなかった者の影が、講習席に人を座らせました。
次話も読んでいただけると嬉しいです。
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