表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/39

第31話 赤い依頼札



 朝。


 清水の間の仮受付前には、昨日よりも多い依頼札が並んでいた。


 紅肌の雫 取得依頼。


 本数 一。


 報酬 大銀貨三枚。


 条件 第3層踏破帰還記録保持者。


 確認 水紋数字および報酬確認台での照合必須。


 紅肌の雫 取得依頼。


 本数 二。


 報酬 一本につき大銀貨二枚。残日数十八以上なら上乗せ。


 条件 第3層踏破帰還記録保持者。


 確認 仮受付で取得記録を残すこと。


 紅肌の雫 取得依頼。


 本数 一。


 依頼主、宿場町荷馬車宿。


 報酬 大銀貨三枚。


 希望 残日数十八以上。


 確認 報酬確認台での照合後に引き渡し。


 紅肌の雫 取得依頼。


 本数 一。


 依頼主、プロンテラ商人ギルド経由。


 報酬 大銀貨四枚。


 希望 残日数十八以上。


 確認 取得者記録必須。


 昨日は三枚だった依頼札が、朝には六枚になっていた。


 さらに、宿場町から届いた革筒が二本。


 その中にも、紅肌の雫の取得依頼が入っているらしい。


 仮受付の職員は、書類の山を前にして固まっていた。


「……水汲み場だったはずなのに」


 ぽつりと呟いたその声に、フィンが深く頷いた。


「分かります。今、完全に依頼受付です」


 マイラは記録板を抱えたまま、依頼札を見ている。


「紅肌の雫の依頼が増えすぎている」


 サナが短く言う。


「人も増える」


 リオは腕を組んだ。


「第3層を回れる冒険者の価値が、急に上がったな」


 ニーナは少し不安そうに依頼札を見ていた。


「でも、欲を見てから第3層に入るのは、怖いです」


 その言葉に、クレスが頷いた。


「その感覚は正しい」


 カティアも仮受付の横で腕を組んでいる。


「大銀貨三枚、四枚って書かれた札を見てから藻の迷路に入るんだ。足が速くなるやつは必ず出る」


 フィンが自分の足を見た。


「俺、速くなりそうです」


「自覚があるならまだましだ」


 カティアは鼻で笑った。


「自覚がないやつが一番沈む」


 プロンテラ商人ギルドの鑑定人セヴランは、依頼札の内容を一枚ずつ確認していた。


 交渉役グラントも隣にいる。


 グラントは増えた依頼札を見て、満足そうに笑った。


「やはり需要はありますな。紅肌の雫は、店に置くより取得依頼が向いている」


 カティアが横目で睨む。


「需要があるからって、取りに行くやつが増えすぎたら死ぬぞ」


「ですから、条件をつけます。第3層踏破帰還記録保持者」


「それでも死ぬ時は死ぬ」


 グラントは笑みを少し引っ込めた。


「……なるほど」


 クレスが依頼札を一枚手に取った。


 新しく届いたものだ。


 そこには、こう書かれていた。


 紅肌の雫 取得依頼。


 本数 一。


 報酬 大銀貨五枚。


 希望 残日数二十。


 条件 第3層踏破帰還記録保持者。


 クレスはそれをしばらく見て、グラントへ渡した。


「これは受けない」


 グラントが眉を上げる。


「報酬は高いですが」


「残日数二十を指定すると、取得直後に走って戻ろうとする者が出る」


 マイラも頷いた。


「第3層の報酬は、持ち帰ることより戻り方が大事です。日数を一日でも多く残したいと思えば、確認が荒くなります」


 セヴランが記録板に書き込んだ。


「残日数二十限定依頼は危険度を上げる、と」


 カティアが言う。


「十八以上にしろ。それでも十分高い」


 グラントは少し考え、それから頷いた。


「では、商人ギルド経由の標準依頼では、残日数十八以上を希望値としましょう。二十限定は出さない」


 リオが依頼札を見た。


「二十と十八で、そんなに違うんですか」


 クレスが答える。


「値段の問題ではない。二十を指定されると、冒険者の頭の中で時計が鳴り続ける」


 サナが短く言う。


「焦る」


「そうだ」


 メリダが石席に腰掛けながら笑う。


「大銀貨が足に生えるんだよ。気づいたら勝手に走ってる」


 フィンが真顔で言う。


「怖い表現ですね」


「怖いから覚えやすいだろう?」


「覚えました」


 清水の間の水音が、依頼札のざわめきの奥で響いている。


 ぽたり。


 ぽたり。


 最初は、水を求めて人が来た。


 次は、訓練のために冒険者が来た。


 今は、依頼を求めて冒険者が来ている。


 同じ場所なのに、流れる欲が変わっていた。






 黒い水膜の内側で、俺は依頼札の増殖を見ていた。


「増え方が早い」


『欲は水より速く流れるものね』


「名言っぽいけど、怖い」


 俺は仮受付の前を見た。


 冒険者たちが依頼札を見ている。


 大銀貨。


 残日数十八以上。


 第3層踏破帰還記録。


 文字だけで、人の目が変わる。


「紅肌の雫って、棚に並ぶ商品じゃなくて、冒険者への仕事になったんだな」


『その方が迷宮らしいわ』


「確かに。店で売るより、潜って取ってこいって方がダンジョンっぽい」


『第3層を通れる者の価値が上がる。通れない者は、通れるようになろうとする』


「結果、挑戦者が増える」


『ええ』


「そして、無理するやつも増える」


『ええ』


「そこは否定してくれないんだな」


『迷宮だもの』


 便利な言葉である。


 でも、今回は本当にそうだった。


 紅肌の雫が欲しい人間は、清水の間へ来る。


 直接買うのではなく、冒険者に頼む。


 冒険者は依頼札を見る。


 自分なら取れるかもしれないと思う。


 その足で第3層へ向かう。


 欲が、仕事の顔をして歩き始めていた。


「ヴェルティア」


『何?』


「第3層の前に、講習用の待機場所を少し広げたい」


『また人間用の設備?』


「うん。今度は稼ぎたい人間用」


『言い方が俗っぽいわね』


「でも事実だろ。紅肌の雫目的の人間は、生活水目当てとも訓練目当てとも違う。欲が濃い」


『だから、入る前に冷やす場所がいる』


「そう」


 俺が意識を向けると、青白い表示が浮かんだ。


【第3層取得依頼の増加を確認】


【第3層挑戦者の待機、講習、記録確認の不足を検知】


【第3層入口前に講習待機石席を追加します】


【報酬確認台との導線を整理します】


【DPを120消費しました】


【現在DP:3338】


 清水の間の奥。


 第3層へ向かう通路の手前に、低い石席がいくつか生えた。


 以前なら、村人たちは声を上げていたかもしれない。


 冒険者たちも、武器に手をかけたかもしれない。


 だが、今は違った。


 誰も悲鳴を上げない。


 誰も逃げない。


 冒険者たちは一瞬だけ足を止め、商人たちはすぐに記録板を見る。


 そして仮受付の職員は、半ば諦めたように新しい石席の数を数え始めた。


「……講習用、ですかね」


 職員が呟く。


 フィンが壁の文字を読んだ。


 紅肌の雫は、戻った者の報酬。


 走る者ではなく、帰る者に渡る。


「刺さる」


 マイラが頷く。


「分かりやすい」


 サナが短く言う。


「慣れてきた」


 リオは新しくできた石席を見て、少し顔をしかめた。


「慣れていいのか、これ」


 カティアが腕を組む。


「よくはねえよ。でも、騒いでる暇があるなら座れってことだろ」


 クレスは石席を見る。


「第3層講習をここで行う」


 グラントも新しい石席を見て、感心したように目を細めた。


「必要が生まれると、場所が生まれる。いやはや、商人泣かせですな」


 セヴランはすでに記録していた。


「清水の迷宮、利用者増加に対して講習区画を自律形成。驚愕より先に運用が始まる点、注目」


 トマが小声で言った。


「皆さん、驚かなくなってきましたね」


 エリオ神官は、水音を聞きながら答える。


「慣れたのではありません。驚きより先に、必要だと理解したのでしょう」






 黒い水膜の内側で、俺はその言葉を聞いていた。


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


「……受け入れられてきたんだな」


『嬉しそうね』


「そりゃ嬉しいよ。最初は死にかけの洞窟と、怪しい水場だったんだぞ。それが今は、人が座って、話して、依頼を見て、戻るための準備をしてる」


 俺は新しくできた石席を見た。


 誰も悲鳴を上げない。


 誰も逃げない。


 冒険者たちは、そこが何のための場所かを考えている。


 商人は記録し、神官は意味を見て、村人は水を汲んでいる。


 それは、たぶん悪いことじゃない。


 むしろ、俺が望んだ形に近い。


「でもさ」


『何?』


「慣れすぎると、ここが迷宮だってことまで忘れそうで、それは少し怖い」


 ヴェルティアの赤い瞳が、少しだけ細くなった。


『それは正しい警戒ね』


「便利な水場。稼げる依頼所。報酬が出る場所。そう思われるのはいい。でも、ここは迷宮だ。奥へ行けば迷うし、欲を出せば死ぬ」


『だから、座らせるのでしょう』


「うん。走る前に座らせる。欲を見る前に、戻る話をさせる」


 受け入れられてきた。


 それは嬉しい。


 でも、受け入れられたからこそ、線引きはもっと必要になる。


 清水の迷宮は、便利な施設ではない。


 人間に使われ始めた迷宮なのだ。






 最初の紅肌取得依頼を受けたのは、リオたちだった。


 リオ、サナ、フィン、マイラ、ニーナ。


 依頼内容は、紅肌の雫一本。


 残日数十八以上。


 報酬、大銀貨三枚。


 依頼主は宿場町の荷馬車宿。


 使用予定者は女将の親族らしい。


 詳しい事情は書かれていない。


 だが、紅肌の雫が欲しい。


 それだけは、はっきりしていた。


 リオは依頼札を見てから、深く息を吐いた。


「大銀貨三枚」


 サナが横で言う。


「足に生やさない」


「分かってる」


 フィンが骨笛を確認する。


「今日の敵は藻と迷路と大銀貨ですね」


 マイラが記録板をしまう。


「あと、残日数」


 ニーナは杖を握った。


「二十で戻ろうと考えない。十八以上で十分」


 クレスは五人を見た。


「取得できても、帰路が乱れたら失敗だ」


 カティアが続ける。


「依頼札を見た後の第3層は、普通の第3層より危ねえ。報酬を取った瞬間、頭の中で依頼主の顔と大銀貨が踊る」


 フィンが顔をしかめた。


「大銀貨が踊るの、だいぶ嫌ですね」


「踊らせるな」


「はい」


 メリダがにこにこと言う。


「今日は臆病者講習の実地版だねえ。稼げると思った時ほど、戻る道を見る」


 リオは頷いた。


「行ってきます」


 五人は第3層、藻の迷路へ入った。






 第3層は、相変わらず静かだった。


 清水の間のざわめきが嘘のように、藻の匂いと湿った石の匂いだけがある。


 細い水路。


 壁に絡む藻。


 似たような曲がり角。


 足元を少しずつ変える浅い水。


 迷宮は、何も急がせてこない。


 だから、人間の方が勝手に急ぐ。


 リオはそれを知っていた。


「今日は、いつもより遅く行く」


 フィンが驚いた顔をする。


「いつもより?」


「依頼を受けてるから」


 サナが頷く。


「正しい」


 マイラが記録板ではなく、短い木札を確認する。


 今日の帰還予定。


 第一戻り地点。


 第二戻り地点。


 最大探索時間。


 紅肌の雫取得後は、最短確認だけして帰還。


 ニーナは壁の藻を見ていた。


「魔力の流れ、いつもより濃い気がします」


 フィンが少し笑う。


「それ、迷宮じゃなくて俺たちの欲じゃない?」


 マイラが静かに言う。


「両方かも」


 角を曲がる。


 また似たような水路。


 フィンが印をつける。


 サナが後ろを見る。


 リオが前を見る。


 ニーナが魔力の濁りを確認する。


 マイラが時間を見る。


 動きは悪くない。


 むしろ、今までより丁寧だった。


 だが、宝箱の部屋に近づいた時、リオの足が少し速くなった。


 サナが言った。


「速い」


 リオは止まった。


「……悪い」


「見えてないのに、見えた気になってる」


「そうだな」


 フィンが小声で言う。


「大銀貨、踊り始めました?」


「踊りかけた」


 マイラが短く言った。


「止められたなら大丈夫」


 彼らはもう一度、水を飲んだ。


 冷たい水が喉を通る。


 清水の間から持ってきた水だ。


 飲むと、少しだけ頭が戻る。


 迷宮の水は、戦うためだけではない。


 欲で熱くなった頭を、冷やすためにもある。


 宝箱の部屋に入る。


 小さな箱。


 赤い小瓶。


 紅肌の雫。


 ひとつではない。


 箱の中には、五本の赤い小瓶が並んでいた。


 帰ってきた者、一人につき一本。


 第3層の報酬は、そういう形で現れる。


 リオはすぐに手を伸ばさなかった。


 まず周囲を見る。


 サナが後ろを見る。


 フィンが帰路印を見る。


 ニーナが魔力の流れを見る。


 マイラが時間を見る。


 それから、リオが小瓶を一本ずつ取り出した。


「取得。五本」


 マイラが頷く。


「依頼分は一本。残り四本は帰還後に扱いを決める」


 フィンが小さく息を吐いた。


「残り四本って、字面がもう強い」


 サナが短く言う。


「今考えない」


「はい」


 マイラが続ける。


「帰還開始」


 彼らは戻った。


 紅肌の雫を取った後の第3層は、行きより長く感じる。


 持っている。


 手元にある。


 しかも五本ある。


 早く戻りたい。


 確認したい。


 売れるかもしれない。


 依頼に渡せる。


 残りはどうする。


 その考えが、背中を押す。


 だが、五人は走らなかった。


 リオが一度、道を間違えかけた。


 フィンが止めた。


 フィンが一度、近道に見える細い水路を見た。


 サナが止めた。


 ニーナが魔力の流れに気を取られた。


 マイラが名前を呼んだ。


 マイラが一度、小瓶の革袋の留め具を確認しすぎて足を止めた。


 リオが周囲を見た。


 それぞれが、一度ずつ危なかった。


 それぞれが、一度ずつ止められた。


 そして、清水の間の光が見えた。






 リオたちが戻ると、依頼札の前にいた冒険者たちが一斉に振り向いた。


 リオは紅肌の雫を報酬確認台へ置いた。


 五本。


 赤い小瓶が、石机の上に並ぶ。


 その瞬間、清水の間の空気が変わった。


 依頼分の一本ではない。


 五本。


 それは、冒険者が第3層を踏破した時に持ち帰る報酬の量を、初めてはっきり見せた。


 グラントの目が光る。


 セヴランはすぐに記録板を構えた。


 マイラが言う。


「一本ずつ確認します」


 一本目。


 魔力を流す。


 水紋数字が浮かぶ。


 二十。


 報酬確認台にも、二十。


 仮受付の職員が記録する。


 取得者、リオ組。


 取得日、本日。


 現在残日数、二十。


 二本目。


 二十。


 三本目。


 二十。


 四本目。


 二十。


 五本目。


 二十。


 数字はすべて、残日数だけを示している。


 取得者や番号は浮かばない。


 それは仮受付の記録で照合する。


 マイラは五本すべての確認が終わってから、息を吐いた。


「全て、本日取得。残日数二十。記録一致」


 グラントがにこやかに言った。


「素晴らしい。では、依頼分の一本を確定しましょう」


 一本目に札がつく。


 宿場町荷馬車宿依頼分。


 残り四本。


 グラントは、待っていたように言った。


「依頼分以外の紅肌の雫も、商人ギルドで買い取れますよ」


 その言葉に、周囲がざわついた。


 リオが瞬きする。


「残りも?」


「もちろんです。水紋数字と報酬確認台、取得記録がそろっているものなら、正規の買い取り対象です」


 カティアが低く言う。


「買い叩くなよ」


「もちろん」


 グラントは笑った。


「残日数二十。記録あり。取得直後。条件としては最上です。依頼札の満額とは別に、通常買い取りとして一本につき大銀貨二枚と少し。商人ギルドとしては、その条件で買い取れます」


 フィンの口が半開きになった。


「一本につき……」


 マイラがすぐに言う。


「計算しない。今は扱いを決める」


「はい」


 クレスがリオたちを見る。


「報酬は取得した君たちのものだ。依頼分を渡した後、残りを使うか、売るか、保管するかは君たちが決める」


 リオは四本の紅肌の雫を見た。


「一本は依頼分」


 サナが頷く。


「残り四本」


「二本は買い取りに出す」


 マイラが記録板に書く。


「商人ギルド買い取り、二本」


 ニーナが少し考えた。


「一本は、次の依頼に回せますか?」


 グラントが答える。


「可能です。ただし、残日数が減る前に依頼主を確定させた方がよいでしょう。仮受付で保管して、次の依頼へ充当する形が安全です」


 マイラが頷く。


「では一本は仮受付保管。次依頼充当候補」


 フィンが最後の一本を見る。


「あと一本」


 リオが腕を組む。


「売るか?」


 サナが短く言う。


「保管」


「理由は?」


「今後、交渉に使える。自分たちで使う選択も残る」


 マイラも頷く。


「全部売ると、あとで効果確認や比較ができない。組で一本保管はあり」


 ニーナが言う。


「記録を残して保管した方がいいです」


 リオは少しだけ迷った。


 だが、頷いた。


「一本は組で保管する」


 仮受付の職員が、慌ただしく札をつけていく。


 依頼分 一。


 商人ギルド買い取り 二。


 仮受付保管、次依頼充当候補 一。


 リオ組保管 一。


 五本あった赤い小瓶に、それぞれ行き先がついた。


 その光景を、他の冒険者たちは食い入るように見ていた。


 依頼を受けて取ってくる。


 依頼分を渡す。


 残りを売る。


 保管する。


 次の依頼に回す。


 第3層を安定して回れるということが、どういう意味を持つのか。


 それが、目の前で形になった。


 リオが低く呟いた。


「第3層を戻れるって、こういうことか」


 サナが頷く。


「仕事になる」


 フィンがまだ少し遠い目をしている。


「大銀貨が、いっぱい踊りそうです」


 カティアが即座に言った。


「踊らせるな」


「はい!」


 マイラは五本の記録を終え、深く息を吐いた。


「本数が増えるほど、記録が大事になる」


 セヴランが頷く。


「まさにその通りです。依頼分、買い取り分、保管分、個人使用分。混ざれば混ざるほど、偽物が入り込む余地が生まれる」


 グラントも言う。


「だから、ここで記録されたものだけを正規品として扱う。この形を、商人ギルドにも徹底させましょう」


 清水の間に、また別の緊張が生まれた。


 戦闘の緊張ではない。


 金と記録の緊張だった。






 二組目は、ノル、ヘイス、リタのEランク三人組だった。


 彼らは第3層踏破帰還記録を持っている。


 だが、安定しているかと言えば、まだ怪しい。


 依頼札の前で、ノルは何度も報酬額を見ていた。


「大銀貨三枚……」


 ヘイスが肩を叩く。


「見るな。顔が吸い寄せられてる」


 リタが小さく言う。


「リオさんたち、五本持って帰ってきたね」


 ノルの喉が鳴った。


「三人なら、三本……」


 その言葉を、カティアが遮った。


「受ける前に行け」


「え?」


「依頼を持って第3層に入るには、まだ顔が軽い。今日は依頼なしで二時間戻りだ」


 ノルは少し不満そうな顔をした。


「でも、踏破記録はあります」


「あるな。だから二時間戻りで確認する」


 クレスも言った。


「依頼を受けるのは、二時間戻りを乱さず終えてからだ」


 ヘイスがほっとした顔をする。


「俺はその方がいいです」


 リタも頷いた。


「私も」


 ノルは依頼札をもう一度見た。


 大銀貨三枚。


 さらに、リオたちの五本の記録。


 その両方から目を離すのに、少し時間がかかった。


 そして、ようやく頷いた。


「……分かりました」


 三人は依頼を受けず、第3層へ入った。


 結果、二時間戻りは成功した。


 だが、途中でノルが一度、奥へ向かいかけたらしい。


 ヘイスとリタが止めた。


 紅肌の雫はない。


 報酬もない。


 それでも、クレスは言った。


「今日の判断は成功だ」


 ノルは悔しそうだった。


「何も取ってません」


「死なずに戻った」


 カティアも言う。


「依頼を受けてたら、今ごろもっと奥にいたな」


 ノルは黙った。


 それから、小さく頷いた。


「次は、ちゃんと戻れるようにします」


 メリダが笑った。


「欲を見る前に戻れた。いい練習だねえ」


 ノルは依頼札を見た。


 今度は、さっきより少し距離を置いていた。






 その日の午後。


 紅肌の雫の依頼は、さらに二枚増えた。


 商人ギルド経由。


 宿場町経由。


 個人名を伏せた依頼。


 それぞれ報酬額も希望本数も違う。


 だが、条件はそろえられていた。


 第3層踏破帰還記録保持者。


 残日数十八以上希望。


 水紋数字および報酬確認台での照合必須。


 取得者記録必須。


 清水の間では、依頼札の前に立つ冒険者が後を絶たない。


 ただ見る者。


 悩む者。


 自分の実力を測り直す者。


 第2層からやり直そうとする者。


 第3層講習の石席に座る者。


 少しずつ、流れが分かれていく。


 依頼を見て、すぐ潜る者ばかりではない。


 潜る前に座る者が出てきた。


 それは、小さな変化だった。


 だが、俺には大きく見えた。






 黒い水膜の内側に、青白い表示が浮かんだ。


【紅肌の雫 取得依頼の増加を確認】


【第3層講習待機石席の利用を確認】


【紅肌の雫 五本取得を確認】


【水紋数字 二十 報酬確認台照合を確認】


【依頼分、買い取り分、保管分、次依頼充当候補への分配を確認】


【第3層依頼前訓練による撤退成功を確認】


【報酬欲、焦り、抑制、帰還判断、記録欲、商人欲を獲得】


【獲得DP:412】


【現在DP:3750】


「五本出ると、話が一気に商売になるな」


『帰ってきた者、一人につき一本。迷宮の報酬としては自然でしょう』


「自然だけど、依頼分以外の行き先が増える。売る、使う、保管する、次に回す。急に管理が大変になった」


『人間は持ち物が増えると、争いも記録も増えるわ』


「嫌な真理」


 俺は報酬確認台を見る。


 そこでは、まだ職員が記録を整えている。


 一本ずつ。


 誰が持つか。


 どこへ渡すか。


 いつ取得したか。


 残日数はいくつか。


 水紋数字は、残日数しか示さない。


 だからこそ、周りの記録がいる。


「依頼が増えると、挑戦者が増える。挑戦者が増えると、報酬も増える。報酬が増えると、管理が増える」


『高貴なる循環ね』


「事務の循環だよ」


『貴方向きではなくて?』


「前世を思い出して胃が痛くなる」


『迷宮主に胃はあるの?』


「気分的にはある」


 清水の間の奥では、ノルたちが石席に座っていた。


 依頼札は見える。


 でも、座っている。


 それだけで少しだけ意味があった。


「走らせない仕組み、もっといるな」


『次は何を作るの?』


「第3層の帰還記録を、もっと見える形にする。誰がどこまで安定して戻れるか。依頼を受ける前に、自分で分かるようにしたい」


『冒険者を選別するのね』


「いや、迷宮が選んでるのを、人間にも見えるようにする」


『同じことを、少し優しく言ったわね』


「そこ大事」


 ヴェルティアは少しだけ笑った。






 夕方。


 クレスは依頼札の前に立ち、仮受付の職員と話していた。


「明日から、第3層依頼を受ける前に確認を入れる」


「確認ですか」


「第3層踏破記録だけではなく、直近の帰還記録だ。二時間戻り、三時間戻り、踏破帰還。どれが安定しているかを見てから依頼を受けさせる」


 職員が慌てて書き込む。


「分かりました」


 カティアも言う。


「紅肌の雫目的なら、最低でも踏破帰還を二回。怪しいやつは講習席送りだ」


 フィンが小声で言った。


「講習席送りって、罰みたいですね」


 マイラが淡々と返す。


「命を守る席」


「言い方が急に良い」


 サナが短く言う。


「座る」


 リオは依頼札を見ながら言った。


「俺たちも、次に受ける前に確認する」


 ニーナが頷く。


「今日、取得後の帰りが怖かったので」


 クレスは五人を見る。


「その怖さを忘れなければ、次も戻れる」


 水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 依頼札が増えた。


 冒険者も増えた。


 金の匂いも、欲の匂いも濃くなった。


 だが、その前に座る場所ができた。


 走る前に、止まる場所ができた。


 そして、それを誰も異常だと叫ばなくなってきた。


 清水の迷宮は、少しずつこの場所の日常に入り込んでいる。


 それは嬉しいことだった。


 だが、便利なだけでは済まないことでもあった。


 紅肌の雫は、鏡の前へ向かう。


 けれど、その前に藻の迷路を通らなければならない。


 そして、藻の迷路は今日も静かに待っている。


 急ぐ者を迷わせるためではなく。


 戻れる者だけを、報酬と一緒に帰すために。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


紅肌の雫の取得依頼が増え始めました。


一人につき一本出る報酬は、依頼分だけでなく、買い取り、保管、次の依頼へと流れていきます。


依頼が増えるほど冒険者の仕事も増えますが、同時に焦りも増えていきます。


続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ