第29話 餌を追わない者たち
翌朝。
清水の間は、いつもの水音よりも重い空気に包まれていた。
ぽたり。
ぽたり。
清水は変わらず流れている。
だが、水場の横に並ぶ冒険者たちの顔は、いつもより硬い。
今日は第3層でも、第4層でもない。
迷宮の外へ出る。
街道脇の森に出た森狼の群れを確認し、必要なら討伐する。
それが今日の依頼だった。
仮受付の前には、木札ではなく、依頼書が置かれている。
街道脇森狼群れ確認および討伐補助。
目的。
街道安全確保。
プロンテラ鑑定人一行の通行前に危険を低減すること。
確認済み情報。
森狼八頭以上。
大型個体一。
荷馬車追跡行動あり。
森内誘導行動あり。
クレスが依頼書を見下ろしていた。
隣にはカティア。
少し離れてメリダ。
リオ、サナ、フィン、マイラ、ニーナも装備を整えている。
さらにザック組。
ザック、ユーリ、ゴート。
今回は人数が多い。
ただし、全員が戦うためではない。
クレスは全員を見回した。
「目的は、森狼の群れを街道から剥がすことだ。全滅にこだわらない」
リオが頷く。
「はい」
「森狼は群れで狩る。倒せそうな一頭だけでなく、拾えそうな痕跡や、分かりやすい獲物にも注意しろ」
フィンが骨笛を握る。
「痕跡も餌かもしれない」
メリダが笑った。
「そういうことだねえ。森狼は肉だけじゃなく、目線も釣る」
カティアが言う。
「森の中で、都合よく見えるものは疑え。血跡、毛、足跡、死骸。全部だ。追うな。覗き込むな。屈み込みすぎるな」
ザックが片手斧を肩に担いだ。
「俺たちは?」
「ザック組は街道側の押さえだ」
クレスが答える。
「森狼が開けた場所へ出てきたら受ける。だが、森内へは追わない」
ゴートが盾を叩く。
「街道を壁にするわけだな」
「そうだ」
ユーリが弓を確認する。
「森の中は?」
カティアが答えた。
「あたしとフィンが足跡を見る。リオ、サナは前。マイラ、ニーナは中央。メリダは後ろを見る。クレスは全体を見る」
メリダが笑う。
「臆病者は後ろが似合うねえ」
フィンは自分の笛を持ち上げた。
「合図は昨日と同じでいいですか?」
「一回、停止。二回、撤退。三回、集合。四回、回り込み」
クレスが言う。
「ただし、今日は四回の意味をもう一つ増やす」
「もう一つ?」
「見えているものから目を外せ、だ」
フィンの表情が引き締まった。
「分かりました」
サナが短く言う。
「見えたものを疑う」
リオも槍を握り直した。
「倒すより、囲まれない」
カティアがにやりと笑う。
「ようやく冒険者っぽい顔になってきたじゃねえか」
リオは少しだけ照れた。
「ありがとうございます」
「褒めてねえ。油断するなって意味だ」
「はい」
そのやり取りに、少しだけ笑いが起きた。
だが、笑いはすぐに消えた。
今日の相手は、迷宮の魔物ではない。
外の森で腹を空かせ、群れで狩る生き物だ。
仕組みではなく、本能と経験で襲ってくる。
清水の間に、緊張が満ちていた。
黒い水膜の内側で、俺はその準備を見ていた。
「人数が多いと、いよいよ討伐依頼っぽいな」
『討伐依頼でしょう』
「そうなんだけどさ。第2層で泥に転んでた連中が、外の森狼相手に動くって思うと、なんか変な感じだ」
『育ったということよ』
「うん」
俺はリオたちを見る。
もう、最初の頃とは違う。
無理に突っ込むだけではない。
魔法を撃てるから撃つのでもない。
回復できるから傷を受けるのでもない。
戻るために見る。
それを覚え始めている。
「でも、外だと俺たちは手を出せない」
『ええ』
「見守るだけだな」
『迷宮で学んだものが本物かどうかは、外で分かるわ』
「試験みたいだな」
『迷宮はいつでも試すものよ』
「外でも?」
『外でも、人間は勝手に試されるわ』
ヴェルティアの言葉は静かだった。
俺は水膜の向こうの水音を聞く。
ぽたり。
ぽたり。
その音が、外へ出ていく冒険者たちの背中を押しているように思えた。
街道脇の森は、昨日よりもさらに静かだった。
クレスたちは街道の開けた場所で足を止めた。
森の入り口まで、少し距離を取る。
昨日、リオたちが森狼と接触した場所だ。
荷馬車の轍。
森狼の足跡。
折れた枝。
浅く血がついた葉。
昨日の痕跡が、まだ残っていた。
クレスは全体を見た。
「ここを基点にする」
ゴートが盾を地面に置く。
「街道側は俺たちが押さえる」
ザックが頷く。
「森から出たやつはこっちで受ける」
ユーリが弓を構える。
カティアはフィンへ顎をしゃくった。
「見るぞ」
「はい」
フィンはしゃがみ、昨日の足跡を確認した。
だが、すぐには森へ入らない。
土を見る。
草を見る。
枝を見る。
そして、顔をしかめた。
「新しい足跡があります。昨日より街道寄りです」
カティアが隣にしゃがむ。
「数は?」
「六……いや、重なってます。八はいます。あと、大きい足跡が一つ」
「頭だな」
フィンは少し離れた草むらを見た。
そこには、小さな魔物の死骸があった。
角兎。
額に短い角を持つ、低ランクの魔物だ。
喉を噛まれている。
だが、ほとんど食われていない。
街道から見えやすい位置に、ぽつんと置かれていた。
リオが眉をひそめる。
「食べ残し?」
フィンは首を横に振った。
「違うと思います」
マイラが問う。
「どうして?」
「血が広がってない。ここで殺したんじゃない。あと、周りに食べた跡が少なすぎる」
サナが短く言った。
「置いた?」
「たぶん」
ニーナが小さく息を呑む。
「死骸を、餌に?」
メリダが後ろからのんびり言った。
「肉じゃなくて、覗き込む人間を釣る餌かもしれないねえ」
リオは槍を握る手に力を込めた。
「調べたくなる位置だな」
「だから、調べない」
サナが即答した。
フィンは骨笛を口に当てた。
ピー。
一回。
停止。
全員が止まる。
フィンは死骸ではなく、左右を見た。
左の茂み。
右の低い木。
そして、枝に止まっていたはずの鳥が一羽もいないことに気づく。
「……変です」
カティアが低く言う。
「何が」
「この死骸の周りだけ、見やすい。でも、その左右の草が踏まれてます。人間が死骸を見に行くと、両側から来られる」
クレスの声が静かに落ちた。
「四回」
フィンは笛を鳴らした。
ピー、ピー、ピー、ピー。
回り込み。
見えているものから目を外せ。
全員が、死骸ではなく左右を見る。
その瞬間、茂みの中で灰色の影が動いた。
左に二頭。
右に一頭。
さらに後ろ側の低木の陰に、一頭。
森狼は、死骸を見せていた。
そこへ近づいた者の背中を取るつもりだったのだ。
カティアが短剣を抜く。
「来るぞ」
森狼が跳んだ。
左から二頭。
右から一頭。
後ろの一頭は、まだ待っている。
逃げ道を切る役だ。
リオが槍を構える。
左の一頭を受ける。
牙が槍の柄に噛みつく。
リオは押し返そうとした。
だが、押し込みすぎない。
第2層で足元を見た。
第3層で戻る道を見た。
第4層で欲を置いた。
今は、目の前の一頭を倒すことではない。
隊列を戻すことだ。
「サナ、左!」
「見てる」
サナの剣が、もう一頭の鼻先を払う。
深く斬らない。
近づけない。
フィンの矢が右の森狼の足元へ刺さる。
森狼が一瞬止まる。
ニーナが杖を向けた。
「エアブラスト!」
風が右側の茂みを叩いた。
森狼そのものではなく、茂みだ。
隠れていたもう一頭が、姿を現す。
マイラがすぐに言った。
「右、さらに一頭!」
フィンは腕を引こうとして、遅れた。
右から出た森狼が、矢を番えたフィンの腕へ跳ぶ。
フィンは笛を落とさないよう、左腕を上げた。
牙が腕をかすめる。
布が裂け、浅く血がにじんだ。
「っ」
マイラが動こうとする。
フィンが先に言った。
「浅い!」
声は震えていたが、言えた。
サナが一歩横へ入り、森狼の進路を切る。
リオが叫ぶ。
「下がる!」
フィンは痛む腕で笛を握り直した。
ピー、ピー。
二回。
撤退。
笛は鳴った。
カティアの目が、ほんの少しだけ細くなる。
助けに入るには、まだ早い。
見ている。
フィンは腕を押さえながらも、隊列の後ろへ下がった。
森狼は追う。
だが、こちらは崩れない。
フィンが笛を鳴らす。
一回。
停止。
二回。
撤退。
四回。
回り込み。
森の中で笛が短く響く。
そのたびに、全員が動きを変える。
やがて、森の奥から低い遠吠えが響いた。
うおおん。
空気が震える。
灰色の影が、一斉に動いた。
五。
六。
七。
多い。
フィンの顔が強張る。
「本隊、来ます!」
クレスが初めて剣を抜いた。
「ここからは俺も入る」
その一言だけで、場の圧が変わった。
Bランクの剣士が前に出る。
森狼たちが一瞬、動きを鈍らせた。
だが、群れの奥。
一回り大きな森狼が姿を現した。
灰色ではなく、黒に近い毛。
片目に古い傷。
群れの頭。
そいつは、クレスではなく、リオたちを見ていた。
弱い者から崩す。
そういう目だった。
カティアが舌打ちする。
「頭が見たな」
メリダが後ろを見た。
「退路はまだあるよ」
クレスが言う。
「街道まで下がる。頭を森から出させる」
カティアが笑った。
「餌を逆にするわけだ」
「そうだ」
リオたちは下がった。
焦らない。
走らない。
森狼が追う。
しかし、こちらは崩れない。
頭の森狼が、ついに苛立ったように唸った。
そして、街道に近い開けた場所へ踏み出した。
その瞬間。
ゴートの盾が、地面を叩いた。
どん。
ザックが前へ出る。
ユーリの矢が、頭の森狼の前脚の前に刺さる。
森狼の頭が、わずかに止まった。
クレスが踏み込む。
速い。
森の中ではない。
開けた街道脇。
足場が見える場所。
クレスの剣が、黒い毛の横を走った。
血が飛ぶ。
深い。
だが、致命傷ではない。
頭の森狼は飛び退いた。
カティアが横から短剣を投げる。
森狼の耳元を裂く。
メリダが石を投げる。
当てるためではない。
群れの後方、逃げ道の横へ。
音が鳴る。
森狼たちが一瞬、向きを迷う。
リオが叫んだ。
「今、押し返す!」
「深追いしない!」
サナが同時に言った。
リオは頷く。
「分かってる!」
リオの槍が、近づいた一頭の肩を突く。
サナの剣が、別の一頭の進路を切る。
フィンの矢が、逃げ道の反対側へ刺さる。
腕は痛む。
だが、狙いは大きく外れていない。
ニーナが唱えた。
「ウォーターバレット!」
水弾が、頭の森狼の顔の横を叩いた。
直撃ではない。
目と鼻を乱すため。
マイラが全員を見る。
「前に出すぎない!」
その声で、リオの足が止まった。
頭の森狼は、クレスを見る。
次に、リオたちを見る。
そして、低く唸った。
群れが、森の奥へ下がり始める。
勝ったわけではない。
全滅させたわけでもない。
だが、街道から剥がした。
頭の森狼に傷を入れ、開けた場所で不利だと教えた。
クレスは追わなかった。
カティアも追わなかった。
リオも追わなかった。
フィンは笛を口元に当てたまま、息を整えた。
ピー、ピー。
二回。
撤退。
最後まで、撤退の合図だった。
森狼の気配が薄れた後も、クレスたちはすぐには動かなかった。
街道側で隊列を整え直す。
マイラが負傷を確認する。
今回は、深い傷はない。
ただし、フィンの左腕に浅い裂傷があった。
右側の森狼を知らせる合図を優先した時、牙がかすった傷だ。
フィンは自分の腕を見て苦笑した。
「俺かあ」
マイラが布で押さえる。
「浅い。水で洗って止血。ライトヒールは使わない」
「了解。心の傷は?」
サナが即答した。
「自力」
「この流れ、外でも継続なんですね」
ニーナが少しだけ笑った。
リオも息を吐きながら笑う。
「でも、笛、助かった」
フィンは少し照れた。
「鳴らせました」
カティアが近づき、フィンの腕を見た。
「次は噛まれる前に下がれ」
「はい」
「でも、笛は良かった」
フィンの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「調子に乗るなよ」
「乗る前に降ります」
「よし」
クレスは森の奥を見ていた。
「群れは街道から離れた。だが、全滅ではない。頭に傷は入れた。しばらくはこの道を狩り場にしにくいだろう」
メリダが頷く。
「今日は勝ちすぎないのが勝ちだねえ」
ザックが肩を回す。
「全滅させた方がすっきりするけどな」
カティアが言う。
「すっきりするために森へ入るな。死ぬぞ」
「分かってる」
クレスは全員を見た。
「戻る。報告を持ち帰るまでが依頼だ」
その言葉に、全員が頷いた。
森狼の遠吠えは、もう聞こえなかった。
清水の間へ戻ると、冒険者たちは一斉に振り向いた。
誰も死んでいない。
それだけで、場の空気が緩む。
だが、クレスたちはすぐには休まない。
まず報告。
仮受付の前に立ち、クレスが言った。
「森狼群れ、街道脇から後退。頭個体に負傷を与えた。群れの全滅はしていない。街道通行は、護衛付きなら可能。ただし、単独通行は危険」
職員が記録する。
カティアが続ける。
「死骸を餌にして、確認に来たやつを左右から挟む動きがあった。森内で近づいてたら囲まれてた」
フィンが骨笛を置く。
「四回合図、機能しました」
マイラが言う。
「負傷者、フィン。左腕浅い裂傷。ライトヒール未使用。水洗い、止血で対応」
ニーナが続ける。
「魔法使用、エアブラスト一回、ウォーターバレット一回。火魔法なし。魔力残量あり」
リオが少しだけ拳を握った。
「追いませんでした」
サナが頷く。
「追わなかった」
クレスはリオたちを見た。
「今日の判断は良かった」
短い言葉だった。
だが、リオたちの顔には、それで十分だった。
エリオ神官が静かに記録していた。
トマが小声で言う。
「迷宮で覚えた判断が、外の街道を守ったのですね」
エリオ神官は頷いた。
「ええ。清水の迷宮は、報酬だけを外へ出しているのではありません」
「冒険者も、ですか」
「判断を持った冒険者を、です」
水音が響いた。
ぽたり。
ぽたり。
清水の間に戻ってきた者たちの緊張と安堵が、ゆっくりほどけていく。
黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。
【外部森狼討伐補助依頼の帰還報告を確認】
【森狼群れの街道離脱を確認】
【頭個体への負傷付与を確認】
【餌への不接近を確認】
【笛合図、外部戦闘での有効性を確認】
【迷宮内訓練による撤退判断の外部適用を確認】
【恐怖、緊張、連携、抑制、帰還の安堵、誇りを獲得】
【獲得DP:236】
【現在DP:2972】
「全滅じゃなくても、ちゃんと成果なんだな」
『街道から剥がした。情報を持ち帰った。生きて戻った。十分でしょう』
「そうだな」
俺はフィンが腕を洗っているのを見た。
今回はマイラではない。
フィンは痛そうにしながらも、どこか誇らしげだった。
サナが横で「動かさない」と短く注意している。
マイラは記録をしながら、治療しない判断をした自分の手を確認している。
ニーナは魔力を使い切らなかったことに、少し安心している。
リオは森の方角を見ているが、もう悔しさだけの目ではない。
「迷宮で鍛えた冒険者は、外でも死ににくい」
『また一つ、価値が増えたわね』
「水、紅肌、琥珀、訓練。商品棚どころか、だんだん学校と市場と水道が合体してきた」
『高貴なる複合迷宮ね』
「言い方はかっこいい」
『中身も高貴よ』
「床が濡れてないのは高貴だと思う」
『そこ?』
「大事だぞ、清潔な床」
ヴェルティアは呆れたように息を吐いた。
だが、少しだけ笑っていた。
夕方。
街道の見張りから、追加の知らせが届いた。
プロンテラからの鑑定人一行は予定通り進んでいる。
森狼の群れは街道から離れたが、護衛付きで迎えることになった。
到着は、明日か明後日。
清水の間は、またざわついた。
琥珀の雫の鑑定。
紅肌の雫の流通確認。
そして、清水の迷宮そのものの視察。
値段をつける者たちが、近づいている。
その前に、街道は守られた。
完全ではない。
だが、道はつながった。
クレスは清水を飲み、静かに言った。
「明日は、迎えの護衛を出す」
カティアが頷く。
「若い連中も行くか?」
リオたちが顔を上げる。
クレスは少し考えた。
「行く。ただし、前に出るためではない。今日守った道を、もう一度確認するためだ」
フィンが笛を握った。
「はい」
サナが頷く。
「見る」
マイラが記録板を閉じた。
「記録します」
ニーナが杖を抱えた。
「魔力、温存します」
リオが短く言った。
「戻ります」
カティアが笑う。
「それが言えりゃ、まあ連れていけるな」
水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
森狼はまだ森にいる。
プロンテラの鑑定人は街道を進んでいる。
清水の迷宮は、その二つをつなぐ道の真ん中で、水を流していた。
迷宮で覚えた戻る判断は、外の森で命を救った。
そして次は、値段をつける者たちを迎えるために、もう一度街道へ向かう。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
倒せそうな一頭ではなく、見えやすい餌そのものを追わないことが、今回の勝ちでした。
清水の迷宮で覚えた判断は、外の街道でも冒険者たちを生かしてくれました。
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