第27話 報酬は外で値段になる
街道沿いの宿場町に、革筒が届いたのは朝だった。
冒険者ギルド出張所。
宿場町とはいえ、立派な建物ではない。
荷馬車宿の横に増築された石造りの小さな受付所で、壁には依頼札が何枚も並んでいる。
護衛依頼。
荷運び補助。
街道の魔物確認。
迷子家畜の捜索。
いかにも宿場町らしい、地味で現実的な依頼ばかりだった。
そこへ、ルスカ村の仮受付から報告書が届いた。
受付役の男は、最初こそ眠そうに封を切った。
だが、三行読んだところで背筋が伸びた。
「……清水の迷宮、第4層踏破」
奥で茶を飲んでいた同僚が顔を上げる。
「昨日の酒の話か?」
「酒に類する高品質嗜好品。名称、琥珀の雫」
「本当に酒だったのか」
「正式鑑定要請。商人ギルドへ連絡推奨。高額取引の可能性あり」
受付所の空気が変わった。
清水の迷宮。
最近、その名前はこの宿場町にも届き始めている。
清い水。
病を治すわけではないが、旅人の疲れを少し和らげる水場。
紅肌の雫。
顔色と肌を整える、赤い小瓶。
そして今度は、琥珀の雫。
酒に類する高品質嗜好品。
出張所の男は、報告書をもう一度読み直した。
「第4層報酬の追加取得依頼を出す。目的は正式鑑定および流通価値確認」
「誰に?」
「前回踏破者。Bランク剣士クレス、Cランク斥候カティア、Dランク冒険者メリダ」
「妥当だな」
「条件もある」
男は報告書の末尾を読む。
「第4層内での開封、飲用、追加魔物の追跡を禁ず。報酬取得後は即時帰還。取得数は二本以上、可能なら三本」
同僚が苦笑した。
「酒を取りに行く依頼なのに、飲むな追うな戻れ、か」
「そこを守れる奴にしか頼めないんだろ」
男は革筒を閉じ、別の書類を取り出した。
プロンテラ商人ギルド宛の正式連絡。
その写しを、ルスカ村へ戻す使者にも持たせる。
清水の迷宮は、もう小さな村の噂ではなくなり始めていた。
同じ頃。
宿場町の端にある荷馬車宿でも、紅肌の雫の話が出ていた。
女将のミレーネは、朝の仕込みの途中で鏡を見ていた。
手の甲を眺める。
昨日まで荒れていた指先が、少し落ち着いている。
顔色も悪くない。
眠りが深くなったわけではない。
病が治ったわけでもない。
だが、鏡の中の自分が、いつもより少し疲れて見えない。
「……なるほどねえ」
ミレーネは小さく呟いた。
昨日、荷運びの冒険者から紅肌の雫を一本買った。
高かった。
正直、衝動買いに近かった。
だが、使ってみれば分かる。
これは治療薬ではない。
けれど、客の前に立つ女将には価値がある。
そこへ、宿の手伝い娘が駆け込んできた。
「女将さん、外に変な売り子がいます」
「変な?」
「紅肌の雫と同じ効果の赤い薬だって」
ミレーネの目が細くなった。
「瓶は?」
「普通の薬瓶です。清水の迷宮のものじゃないって言ったら、同じ材料で作ったとか言ってました」
「追い返しな。あと、出張所に知らせる」
「はい」
手伝い娘が走っていく。
ミレーネは鏡から目を離し、ため息をついた。
「価値がつくと、すぐこれだよ」
赤い雫は、もう外へ流れ始めている。
そして価値のあるものが流れれば、その横には偽物も流れようとする。
宿場町は、清水の迷宮の外側で、少しずつざわつき始めていた。
清水の間に使者が戻ってきたのは、昼前だった。
水場には村人が並び、冒険者たちは第2層と第3層へ向かう準備をしていた。
仮受付の前には、紅肌の雫の買い取りを希望する商人見習いが二人。
その少し後ろには、ただ見物に来たらしい旅人。
そして、教会のエリオ神官と助祭トマも、まだ清水の間の端で記録を続けていた。
ルスカ村は小さい。
清水の間も、以前よりは広がった。
だが、人が増えると、それでも足りない。
水汲みの列。
冒険者の準備。
報酬確認。
商人の相談。
全部が同じ場所に寄ってくる。
フィンが周囲を見て言った。
「なんか、清水の間が水場じゃなくて、受付所みたいになってきましたね」
マイラが頷く。
「受付所と水場と取引所と待合所」
「詰め込みすぎでは?」
「詰め込まれてる」
サナが短く言う。
「人が多い」
リオも顔をしかめる。
「第3層へ行く前に、人混みで疲れるな」
そこへ、宿場町からの使者が入ってきた。
革筒を持った若いギルド職員だ。
息を整え、仮受付の職員へ書類を渡す。
「宿場町出張所より、正式依頼です」
清水の間が、自然と静かになる。
職員は書類を読み上げた。
「第4層報酬、琥珀の雫の追加取得依頼。目的、正式鑑定および流通価値確認」
冒険者たちがざわつく。
「追加取得」
「琥珀の雫をまた取るのか」
「誰が行くんだ」
職員は続けた。
「推奨、前回踏破者。Bランク剣士クレス、Cランク斥候カティア、Dランク冒険者メリダ。取得数、二本以上。可能なら三本」
カティアが腕を組んだ。
「またあそこか」
メリダが肩をすくめる。
「酒を取りに行く依頼にしては、景気が暗いねえ」
クレスは書類を受け取って目を通した。
「条件は?」
職員が読み上げる。
「第4層内での開封、飲用を禁ず。報酬取得後、追加で出現する魔物、光、物音への追跡を禁ず。帰還後、仮受付で記録。破った場合は依頼失敗扱い」
カティアは少しだけ笑った。
「分かってるじゃねえか」
メリダも頷く。
「欲を持って取りに行く仕事は、臆病者向きだねえ」
クレスは書類を閉じた。
「受ける」
即答だった。
リオが思わず一歩前へ出る。
「クレスさん」
クレスはリオを見る。
「君たちはまだだ」
リオは口を閉じる。
分かっている。
でも、悔しい。
その顔だった。
クレスは静かに言う。
「これは取得依頼であると同時に、第4層の再現性確認だ。前回と同じように踏破できるか。報酬取得後に戻れるか。追加の誘いを無視できるか。それを確認する」
カティアがリオたちへ目を向けた。
「酒目当ての馬鹿が沈む前に、こっちで線を引くんだよ」
フィンが小さく言った。
「馬鹿、出ますかね」
「出る」
即答だった。
メリダもにこにこしながら言う。
「出るねえ」
マイラが記録板を握る。
「だから規則と記録が先」
ニーナも頷いた。
「私たちは、香り対策の練習を続けます」
サナがリオを見る。
「悔しい?」
「ああ」
「なら、覚えておく」
「そうする」
リオは小さく息を吐いた。
「第4層は四時間探索、帰還から。踏破はまだ狙わない」
クレスは頷いた。
「それでいい」
黒い水膜の内側で、俺は清水の間の混雑を見ていた。
「これ、導線また詰まるやつだ」
『欲が増えた証拠よ』
「証拠はいいけど、混雑は困るんだよ。水汲み、冒険者、商人、見物人、教会。全部同じ場所に集まってる」
『賑やかでよいではないの』
「賑やかと渋滞は違う」
俺は清水の間を見回した。
最初はただの水場だった。
今は違う。
水場。
仮受付。
木札。
報酬確認。
不要物投入口。
冒険者の待機場所。
もう、小さな洞窟の一室では足りない。
「ヴェルティア」
『何?』
「第1層、少し広げよう」
『また清潔で便利な方向に?』
「そう。水汲み列と冒険者列を分ける。報酬確認用の石机を別にする。商人の相談場所を、清水の水盤から離す。荷物置き場もいる」
『迷宮なのに、どんどん人間の施設になっていくわね』
「でも、管理権は渡さない」
ヴェルティアの赤い瞳が、少しだけ細くなる。
「人間が迷宮を管理するんじゃない。迷宮が人間の流れを選ぶ」
『……いい言い方ね』
「気に入った?」
『少しだけ』
「じゃあ、作るか」
俺が意識を向けると、青白い表示が浮かんだ。
【第1層の利用者増加を確認】
【清水利用、冒険者準備、報酬確認、取引相談が混在しています】
【導線整理を実行します】
【水汲み区域、冒険者待機区域、報酬確認台、取引相談用待機石席、荷物置き場を分離します】
【DPを180消費しました】
【現在DP:2146】
清水の間の床が、低く震えた。
外側の人間たちが、一斉に足元を見る。
水場の周囲はそのまま。
だが、その横にあった壁が、ゆっくり奥へ下がった。
新しい空間が生まれる。
水汲み場から少し離れたところに、低い石机。
報酬確認用の台だ。
その近くに、荷物を置ける棚。
さらに奥には、石の腰掛けがいくつか並ぶ。
取引相談や待機に使える場所。
水場へ向かう床の流れは、自然と左側へ。
冒険者の準備場所は右側へ。
文字は増えない。
だが、足が勝手に分かれる。
人間は床の形に従う。
俺は、それを前世で嫌というほど見ていた。
フィンが目を丸くした。
「広がった」
マイラが周囲を見る。
「水場と報酬確認が分かれた」
サナが頷く。
「使いやすい」
カティアが少しだけ口元を緩めた。
「迷宮のくせに、気が利くじゃねえか」
クレスは新しくできた石机を見る。
「報酬確認台か。助かる」
エリオ神官は静かに記録する。
「利用者増加に対して、迷宮が構造で対応」
トマが小声で言った。
「言葉ではなく、形で人を動かすのですね」
「ええ」
エリオ神官は頷いた。
「人が増えると、清い場所も濁ります。だから、仕組みが必要になる」
トマは新しい床の流れを見つめた。
清水の間は、また少し変わった。
水場から、迷宮の玄関へ。
そして、取引の入口へ。
クレスたちは、第4層へ入った。
クレス。
カティア。
メリダ。
前回と同じ三人。
だが、目的が違う。
今回は、依頼で取りに行く。
鑑定用の追加取得。
それは前回よりも、はっきり欲を背負っているということだった。
琥珀の貯蔵庫は、前回と同じように甘く重い香りで三人を迎えた。
足場は良い。
通路も広い。
だからこそ、進める。
カティアが最初に言った。
「昨日より嫌な感じだな」
クレスが聞く。
「何がだ」
「欲しいって分かって入ってる」
メリダが笑った。
「そうだねえ。昨日は確認。今日は取得。欲の濃さが違う」
クレスは頷いた。
「だから、昨日より早く止まる」
「了解」
三人は進んだ。
琥珀スライム。
酔香蛾。
樽齧り鼠。
敵は同じだ。
だが、同じだから楽というわけではない。
同じだと思った瞬間に、見落とす。
クレスは進行を急がない。
カティアは帰路印を二重にする。
メリダは、一つ進むたびに後ろを見る。
宝箱の部屋に近づいた時、香りが濃くなった。
前回と同じ場所だ。
クレスが足を止める。
「停止」
三人は止まった。
水を飲む。
呼吸を整える。
帰路印を見る。
体力を見る。
気分を見る。
カティアが短く言う。
「欲しいと思ってる」
メリダも笑う。
「私もだねえ」
クレスも頷いた。
「俺もだ」
それを認めてから、進む。
宝箱を開ける。
中には、琥珀の雫が三本。
前回と同じ形。
同じ色。
同じ封。
カティアが息を吐く。
「再現性あり、だな」
クレスは三本を袋へ入れる。
「目標達成。戻る」
その瞬間、棚の奥で、また小さな赤みがかった琥珀色の影が跳ねた。
ぴょん。
一瞬だけ見える。
すぐ逃げる。
昨日と同じ。
いや、昨日より少し近い。
カティアの手が、ほんの少し動いた。
だが、短剣は抜かなかった。
メリダが笑う。
「近いねえ」
クレスは言った。
「追わない」
カティアは舌打ちした。
「分かってる」
メリダも頷く。
「今日も、取らないのが仕事だねえ」
三人は宝箱の部屋を出た。
琥珀の雫を三本持って。
赤い影を置いて。
黒い水膜の内側で、ヴェルティアは少しだけ口を尖らせていた。
「……近かったわね」
「紅琥珀スライム?」
『ええ』
「追わなかったな」
『追わなかったわね』
「偉いな」
『ええ。腹立たしいくらいに正しいわ』
「ヴェルティア、完全に欲しくなってるじゃん」
『確認対象として重要なのよ』
「分かってる分かってる」
『その言い方、分かっていないでしょう』
「いや、かなり分かってる」
俺は第4層の水膜を見る。
赤い小さな影は、もう棚の奥に消えている。
追えば、たぶん迷う。
欲を出せば、たぶん帰りが乱れる。
紅琥珀の雫は、まだ早い。
クレスたちはそれを分かっている。
だから強い。
「欲を持って取りに行って、さらに強い欲を置いて帰る。第4層、かなりいい試験になってるな」
『高貴なる貯蔵庫だもの』
「酒蔵なのに教育力が高い」
『酒蔵ではないわ。琥珀の貯蔵庫よ』
「そこは譲らないんだな」
『当然よ』
ヴェルティアは少しだけ笑った。
クレスたちが戻るより前に、第3層から冒険者たちも帰ってきた。
ノルたちEランク三人組は、今日は踏破ではなく二時間探索。
戻りは安定していた。
ザック組は紅肌の雫を二本持ち帰った。
さらに別のDランク二人組も、一本だけ取得して帰還した。
報酬確認台が、すぐに役立った。
赤い小瓶が石机の上に並ぶ。
仮受付の職員が、一本ずつ記録する。
紅肌の雫。
取得者。
取得時間。
売却希望。
自己使用希望。
保管希望。
その横で、宿場町の使者が別の報告を読み上げた。
「紅肌の雫について、宿場町で流通反応あり。荷馬車宿の女将が使用。顔色、手荒れに改善を確認。ただし治療薬ではないとの記録」
マイラが小さく頷く。
「正しく伝わってる」
使者は続ける。
「一方で、紅肌の雫もどきを名乗る偽物販売の兆候あり。宿場町出張所にて注意喚起を開始」
マイラの表情が険しくなった。
「治療薬ではないと、何度も言ったのに」
カティアはいない。
代わりに、ザックが腕を組んで言った。
「価値がついたら偽物が出る。虫と同じだな」
ユーリが横目で見る。
「カティアさんみたいなこと言うね」
「やめろ。怖い」
マイラは記録板を強く握った。
「効能の記録を、もっと分かりやすくする必要がある」
エリオ神官が近づく。
「教会の記録にも、治療薬ではないと明記します」
「助かります」
「ただし、人の噂は記録より速い」
マイラは頷いた。
「だから、清水の間で何度でも言います」
使者が、少し声を低くした。
「宿場町出張所からも、偽物を見つけた場合は現物確認のためこちらへ回す可能性があるとのことです。清水の迷宮で得たものかどうか、箱や瓶、記録の照合が必要になるかもしれません」
仮受付の職員が青ざめた。
「偽物の照合まで……」
マイラは静かに息を吐いた。
「やります。間違ったものが紅肌の雫として広がる方が困ります」
サナが短く言う。
「聞かない人もいる」
「その時は?」
フィンが聞く。
サナは表情を変えずに答えた。
「水を飲んで落ち着かせる」
「優しい」
「駄目ならカティアさんを呼ぶ」
「急に怖い」
少し笑いが起きる。
だが、笑いごとではない。
紅肌の雫は、外で価値を持った。
そして、価値は偽物を呼ぶ。
清水の間は、また一つ学ぶことになった。
やがて、琥珀水紋門が揺れた。
クレスたちが戻ってきた。
三人とも無事。
クレスは仮受付へ向かい、袋から小瓶を三本取り出す。
琥珀の雫。
追加取得、三本。
清水の間が静まる。
初回の驚きとは違う。
今度は、価値を知った上での沈黙だった。
バルムが思わず身を乗り出す。
「三本、本当に取ってきたのか」
カティアが疲れた顔で言う。
「取った。赤いやつは追ってない」
メリダが笑う。
「今日も逃げられたねえ」
クレスは記録板を見る。
「依頼条件を満たした。三本取得。第4層内での開封なし。追加魔物の追跡なし。全員帰還」
仮受付の職員が記録する。
手が震えていた。
昨日の三本。
今日の三本。
合計六本。
まだ大量とは言えない。
だが、鑑定に出すには十分な数だ。
宿場町の使者が深く頭を下げる。
「これで、商人ギルドへ正式に送れます」
カティアが言う。
「送る前に、護衛と保管を決めろ。酒だと思ってる奴は盗む。薬だと思ってる奴も盗む。金になると思ってる奴はもっと盗む」
バルムが真顔で頷いた。
「分かってる。俺が宿場まで同行する。宿場から先は、出張所と商人筋で護衛をつける」
クレスも言う。
「一本は正式鑑定用。一本は商人ギルド保管。一本は比較用にギルドで保管。残りの扱いは、取得者と依頼主で取り決める」
メリダが肩をすくめる。
「臆病者としては、全部に名前札をつけたいねえ」
仮受付の職員は、すでに札を用意していた。
「つけます」
「仕事が早いねえ」
清水の間では、赤い小瓶と琥珀の小瓶が、それぞれ別の石机に並んだ。
紅肌の雫。
琥珀の雫。
見た目も、用途も、欲の向きも違う。
だが、どちらも人を動かす。
黒い水膜の内側に、青白い表示が浮かんだ。
【紅肌の雫の外部流通情報が持ち込まれました】
【紅肌の雫もどきへの警戒を検知】
【琥珀の雫追加取得依頼を確認】
【第4層再踏破、琥珀の雫三本取得を確認】
【追加誘導への不追跡を確認】
【冒険者欲、商人欲、記録欲、警戒、流通期待を獲得】
【獲得DP:412】
【現在DP:2558】
「外で売れた金は入らないけど、売れたって話を持って人が来ると、欲はこっちに流れるのか」
『ええ。外で膨らんだ欲が、ここへ戻ってきたのよ』
「経済って、迷宮にも流れるんだな」
『人間の欲が流れるなら、迷宮に流れない理由がないわ』
「清水、紅肌、琥珀。だんだん商品棚みたいになってきた」
『報酬よ』
「分かってる。でも外では商品になる」
『それもまた欲ね』
ヴェルティアは清水の間を見ていた。
赤い小瓶。
琥珀の小瓶。
記録する職員。
目を光らせる商人。
牽制する冒険者。
祈りではなく、値段と規則が生まれ始めている。
「ヴェルティア」
『何?』
「これ、迷宮が経済になり始めてるな」
『経済?』
「人が来る。報酬を取る。売る。買う。偽物が出る。規則ができる。護衛が必要になる。鑑定人が来る。つまり、迷宮の周りで仕事が増える」
『悪くないわね』
「うん。悪くない。でも絶対面倒」
『人間が増えれば面倒も増えるわ』
「それ、真理だな」
俺は清水の間の新しい空間を見た。
水場。
冒険者待機区域。
報酬確認台。
取引相談用の石席。
不要物投入口。
最初の水場から、ずいぶん遠くまで来た気がする。
でも、まだ始まりだ。
夕方。
宿場町へ向かう荷馬車が出る準備をしていた。
荷馬車といっても、積み荷は多くない。
革箱一つ。
その中に、琥珀の雫。
護衛はザック組と、宿場町から来た使者。
バルムも同行する。
クレスは清水の間に残る。
カティアも残る。
メリダは、石席に腰掛けて足を休めていた。
エリオ神官は、最後に報告書をもう一度確認する。
トマが隣で書き足した。
紅肌の雫は、鏡の前へ流れた。
琥珀の雫は、杯の前へ流れようとしている。
そして次に来るのは、その二つに値段をつける者たち。
エリオ神官はその一文を見て、静かに頷いた。
「良い記録です」
トマは少し照れた。
荷馬車の車輪が、土を噛む。
ごとり。
ごとり。
小さな音が、清水の間の外へ遠ざかっていく。
その先に、宿場町がある。
さらにその先に、プロンテラがある。
俺には、そこまでは見えない。
だが、何かが動き始めたことは分かった。
値段をつける者たちが、やって来る。
欲に目利きをする者たちが、やって来る。
清水の迷宮は、もう水だけの場所ではない。
報酬が外へ流れた時、迷宮は経済になる。
水音の奥で、石机に置かれた空の小瓶が、夕方の光を受けて赤く、そして琥珀色に光っていた。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
紅肌の雫は外で反応を生み、琥珀の雫は正式な鑑定へ向かいました。
価値がつくと、人も規則も面倒も増えていきます。
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