第2話 清い水、村へ届く
最初の客が帰ったあと、清水の迷宮には水音だけが残った。
ぽたり。
ぽたり。
石の割れ目から落ちる清い水が、小さな水たまりを少しずつ広げている。
洞窟の床はまだ粗い。
壁も黒ずんでいる。
入口の看板も、正直ちょっと斜めだ。
だけど、そこに水があるだけで、さっきまで死にかけ倉庫みたいだった場所が、ぎりぎり営業中に見えた。
「……いけるな」
『何がよ』
「営業」
『迷宮を店扱いしないでちょうだい』
「でも今、最初のお客さん来たじゃん」
『来訪者よ』
「じゃあ来訪者一号」
『番号を振るのもやめなさい。高貴さが削れるわ』
「死にかけコアに高貴さの余剰はないと思う」
『床を沈めるわよ?』
「ごめんなさい」
俺は素直に謝った。
残DPが少ない迷宮で床を沈められたら、たぶん俺の方が先に心を折る。
とはいえ、今の俺は少し浮かれていた。
いや、かなり浮かれていた。
だって、死んだ。
異世界に来た。
死にかけのコアと契約した。
水を作った。
その水で、子どもが助かったかもしれない。
人生二周目、初日から情報量が牛丼特盛どころじゃない。
胃袋ではなく魂がもたれる。
「なあ、ヴェルティア」
『何?』
「さっきの子、ちゃんと村に着いたかな」
『知らないわ』
「え、分からないのか?」
『当然でしょう。ここは迷宮よ。私が把握できるのは、基本的に迷宮の内側だけ。外の森も村も、私の領域ではないわ』
「そっか。外の様子まで見えるわけじゃないのか」
『見えた方がよかった?』
「いや、便利すぎるから、それくらいでいい。全部見えたら、たぶん俺が調子に乗る」
『人間はすぐ調子に乗るものね』
「否定できないのがつらい」
俺は入口の方を見た。
そこにはもう、子どもの姿はない。
水を入れた桶を抱えて、森の道を走っていった。
ちゃんと帰れたかは分からない。
母親に飲ませられたかも分からない。
水が足りたかどうかも分からない。
迷宮の中にいる俺たちは、ただ待つしかなかった。
「けっこう不安だな」
『迷宮主が初日から不安そうな顔をしないでちょうだい』
「いや、初日だから不安なんだろ」
『高貴なる迷宮は、来る者を待つものよ』
「じゃあ待つか」
『ええ』
「……何かあった時は先に教えてな。俺、こっちの仕様まだ全然分かってないから」
『仕様?』
「できること、できないこと、危ないこと、そういうやつ。前の職場では報連相って言ってだな」
『ほうれんそう?』
「報告、連絡、相談」
『……葉物野菜ではないの?』
「違う」
『人間社会は奇妙ね。なぜ大事なことに野菜みたいな名前をつけるの』
「俺に聞かれても困る」
『まあいいわ。私が必要だと判断したら教えてあげる』
「必要だと判断する前に教えてくれると助かる」
『それは高貴なる検討事項ね』
「検討で止まるやつ!」
ヴェルティアの赤黒いコアが、ふんと鼻を鳴らすように光った。
いや、コアに鼻はない。
でも絶対に鼻で笑った。
そのころ、ルスカ村では、一人の子どもが息を切らして走っていた。
名前はミル。
薄茶色の髪を汗で額に張りつかせ、両腕で木桶を抱え込んでいる。
桶の中には、透明な水が揺れていた。
森の道を抜け、畑の脇を抜け、傾いた柵の隙間をくぐる。
村の井戸の周りには、空の桶がいくつも置かれていた。
水はある。
けれど濁っている。
底の泥が混じり、嫌な匂いもする。
飲めないわけではない。
だが、熱で弱った者に飲ませるには怖すぎた。
「ミル!」
村の女が叫んだ。
「あんた、どこ行ってたんだい! みんな探してたんだよ!」
「お母さんに水!」
ミルはそれだけ叫んで、自分の家へ飛び込んだ。
土壁の小さな家。
炉の火は落ち、部屋の中は薄暗い。
寝台には、やせた女性が横たわっていた。
ミルの母、エナだった。
頬はこけ、唇は乾き、額の布はぬるくなっている。
「お母さん!」
「……ミル?」
「お水、持ってきたよ!」
ミルは椀に水を注いだ。
手が震え、少しこぼれる。
それでも、透明な水は濁らなかった。
エナはミルに支えられ、ゆっくり水を口にした。
一口。
喉が動く。
もう一口。
乾ききった唇に、少しだけ色が戻る。
病が消えたわけではない。
熱が一瞬で引いたわけでもない。
けれど、苦しげに乱れていた呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた。
「……冷たい」
「うん」
「きれいな、水……」
「うん!」
ミルは泣きながら笑った。
その声を聞きつけ、近所の女が家の中を覗く。
「ミル、その水、どこで」
「森の洞窟!」
「森?」
「看板があったの。清い水、ありますって。困っている人、歓迎って」
女の目が、桶に吸い寄せられた。
透明な水。
濁っていない水。
病人が飲んでも咳き込まない水。
それを見た瞬間、女の顔に浮かんだのは、驚きだけではなかった。
ほしい。
自分の家にも。
自分の子にも。
明日の分も。
できれば多く。
その感情は、口に出す前から顔に出ていた。
「少し……少しだけ分けてもらえないかい?」
ミルは桶を抱え込んだ。
「だめ。これはお母さんの分」
「そ、そうだね。悪かったよ」
女はすぐ引いた。
だが視線は水から離れない。
その日のルスカ村では、水は貨幣より重かった。
銀貨を抱いても喉は潤わない。
宝石を舐めても熱は下がらない。
水だけが、いま必要だった。
噂は早かった。
森の奥に清い水がある。
洞窟に看板が立っている。
ミルが水を持ち帰った。
エナが飲めた。
清い水。
清い水。
清い水。
村の空気がざわついた。
驚き。
疑い。
期待。
焦り。
そして、欲。
「魔物の巣じゃないのか」
「でもミルは帰ってきたぞ」
「水は本物だ」
「うちの子も熱を出してるんだ」
「井戸の水はもう駄目だ」
「明日まで待てるか」
「桶を二つ持っていけば」
「いや、みんなで行けばもっと」
声が重なり、熱を帯びる。
その中心に、白い髭の老人が立った。
ルスカ村の村長、オルドである。
背は少し曲がっている。
けれど、その目はまだ強い。
オルドはミルの家に入り、桶の水を見た。
指先に少し取り、匂いを確かめる。
それから、エナの様子を見た。
すぐに立ち上がったわけではない。
奇跡のように病が治ったわけでもない。
だが、明らかに呼吸は楽になっていた。
「……これは、ただの水ではないな」
「村長」
ミルが不安そうに見上げる。
「私、悪いことした?」
「いいや」
オルドは首を横に振った。
「お前は母を助けようとした。それは悪いことではない」
「じゃあ、また行ってもいい?」
オルドはすぐには答えなかった。
家の外では、村人たちが空桶を持って集まり始めている。
誰もが困っている。
誰もが水を必要としている。
だからこそ、危ない。
困窮した人間は、感謝と同じ手で奪う。
オルドはそれを知っていた。
「ミル。その看板には、ほかに何と書いてあった」
「えっと……奪いに来る人、お断りって」
家の中が静かになった。
近所の女が、息を呑む。
オルドは目を閉じた。
「奪いに来る人、お断り、か」
それは警告だった。
水場を見つけた村への、最初の線引き。
オルドは杖を持ち、家の外へ出た。
「行く者は桶を一つだけ持て」
「村長!」
「病人、子ども、老人を優先する。騒ぐな。走るな。森で散るな。洞窟に着いたら、まず看板を読む」
「水がたくさんあったら?」
「桶一つだ」
「うちは家族が多い!」
「それでもまず一つだ。余分に求めるなら、隠すな。理由を言え」
「誰に言うんだ?」
誰かが言った。
オルドは、ミルから聞いた言葉を思い出した。
清い水、あります。
困っている人、歓迎。
奪いに来る人、お断り。
それは人間の立てた看板ではない。
ならば、相手はただの水場ではない。
「洞窟にだ」
村人たちの顔がこわばる。
「相手に意志があると思え。こちらの言い分が通るとは限らん。だが、奪いに行けば終わりだ」
「終わりって……」
「水を得られんだけで済めばいいがな」
オルドは短く言った。
それだけで、村人たちの熱が少し冷めた。
恐怖は、人を止める。
完全には止められない。
けれど、一歩目を遅らせることはできる。
夜。
清水の迷宮の入口に、村人たちが現れた。
先頭はオルド村長。
その後ろにミル。
さらに、桶を持った村人たちが十数人。
誰も大声を出さない。
けれど視線は、洞窟の奥にある水へ吸い寄せられていた。
俺はその様子を、迷宮の内側から見ていた。
「来たな」
『ええ。ずいぶん連れてきたわね』
「まあ、こうなるよな」
『水が必要なのでしょう』
「だろうな」
村人たちは入口の看板を読んだ。
清い水、あります。
困っている人、歓迎。
奪いに来る人、お断り。
その言葉を見て、何人かが喉を鳴らした。
オルド村長は、洞窟に入る前に村人たちを振り返った。
「一人、桶一つ。順番を守れ。汚すな。欲張るな」
誰も返事をしなかった。
ただ、うなずいた。
俺は水場の前に立つ。
もちろん、村人から俺の姿は見えない。
ヴェルティアのコアも、奥の暗がりで弱く光っているだけだ。
「第1層は生活区域。ここで揉められると困る」
『ええ。生活欲は薄くても長く流れる。最初に荒らされるのは避けたいわ』
「ルールを増やす」
『何を書くの?』
「短くする。細かい説明はいらない。最低限の禁止だけだ」
『珍しく分かっているじゃない』
「長い規則は読まれないからな。前世でも利用規約は誰も読まない」
『人間、愚かすぎない?』
「だから短くする」
俺とヴェルティアは、壁に文字を刻むことを決めた。
それはお願いではない。
迷宮側からの、一方的な利用規則だ。
【壁文字を生成します】
【DPを2消費しました】
【残DP:7】
入口を入ってすぐの石壁に、青白い文字が浮かんだ。
転売禁止。
大量持ち出し禁止。
破壊行為禁止。
村人たちが、その文字を見上げた。
ざわめきが走る。
「文字が……」
「今、出たぞ」
「本当に、意志があるのか」
オルド村長の表情が引き締まった。
「読んだな。従え」
村人たちは、一人ずつ水場へ進んだ。
最初は、子どもを抱いた女。
次に、足の悪い老人。
それから、病人の家族。
桶に水が注がれるたび、表情が変わる。
驚き。
安堵。
疑い。
感謝。
そして、もっと欲しいという欲。
その感情は、迷宮の中に薄く流れ込んできた。
声ではない。
映像でもない。
匂いに近い。
水を求める喉の渇き。
病人を助けたい焦り。
自分だけ多く持ち帰りたい小さなずるさ。
売れば金になるかもしれないという濁った計算。
そういうものが、水面に触れた瞬間、迷宮へ伝わってくる。
「……これが、欲を読むってやつか」
『ええ。言葉より正直よ』
「全部分かるのか?」
『全部ではないわ。強い欲ほど濃く流れる。薄い嘘や迷いは読みにくい。でも、転売目的や奪う意思のように濁った欲は分かりやすい』
「つまり、壁に全部書かなくても分かるわけだ」
『そうよ。迷宮は人間の規則書ではなく、欲を見て判断する。細かい言い逃れなど無意味だわ』
「便利だなあ」
『便利ではないわ。高貴なる審判よ』
「言い換え方が大げさ」
『大げさではないわ』
水汲みは、思ったより静かに進んだ。
誰も走らない。
誰も桶を倒さない。
誰も壁を壊そうとしない。
ただ、空気は張りつめている。
清い水は優しい。
でも、その水場を支配している何かは優しいだけではない。
それを、村人たちは肌で感じていた。
そして、やはり問題は起きた。
がっしりした体格の若い農夫、バランが、自分の桶を満たしたあと、後ろに隠していた小さな桶を取り出した。
村人たちがざわつく。
「おい、二つ目は駄目だろ」
「大量持ち出し禁止って書いてあるぞ」
バランの顔が青くなった。
「ち、違う! これは隣のばあさんの分だ! 足が悪くて、ここまで来られねえんだよ!」
その瞬間、水の流れが止まった。
ぽたり、という音さえ消えた。
バランは桶を抱えたまま固まる。
「ほ、本当だ。売る気なんかねえ。ばあさん、昨日から井戸の水も飲めなくて……」
水場はしばらく沈黙した。
誰も動かない。
誰も喋らない。
ただ、清水の迷宮だけが、バランの言葉ではなく、その奥にある欲を見ているようだった。
やがて、止まっていた水が、静かに流れ出した。
二つ目の桶へ、清い水が注がれていく。
村人たちは息を呑んだ。
「……出た」
「止まったのに、また流れたぞ」
「本当だったってことか?」
「この迷宮、水だけじゃなくて、人の腹の中まで見てるのか……」
バランは震える手で桶を抱え、深く頭を下げた。
「す、すまねえ。次は先に言う」
誰も笑わなかった。
誰も文句を言わなかった。
この迷宮は、ただ水を出す場所ではない。
転売か。
持ち逃げか。
本当に困っている者の分か。
そこまで見て、勝手に判断する。
しかも、説明はない。
文字も増えない。
水が止まるか。
流れるか。
それだけで答えを出す。
村人たちは、そのことを嫌というほど理解した。
俺はその光景を、迷宮の奥から見ていた。
「……え、待って」
俺は思わず水場を指差した。
「俺が判断する前に、迷宮が勝手に判断してくれるのか!?」
『当然でしょう』
ヴェルティアのコアが、得意げに赤く光った。
『ここは高貴なる迷宮よ。人間の言い訳を一つ一つ聞いて、貴方が毎回うんうん悩む必要などないわ』
「めちゃくちゃ便利じゃん!」
『便利ではないわ。高貴なる審判よ』
「いや便利機能だろ! 転売目的か、本当に困ってるのか、迷宮側で自動判定! しかも追加メッセージなし! 水が出るか止まるかだけ! めちゃくちゃ分かりやすい!」
『追加めっせーじ?』
「いちいち貼り紙を増やさなくていいってこと! 前世なら絶対に注意書きが増えて、最後は壁が文字だらけになるやつ!」
『人間はそこまで愚かなの?』
「なる。めちゃくちゃなる」
『なら、この迷宮の方が高貴ね』
「勝ったな。ヴェルティア、これは勝ってる」
『ふふん。ようやく私の偉大さが分かったようね』
「分かった分かった。これなら清水の間、ちゃんと運営できそうだ」
『当然よ。私を誰だと思っているの?』
「死にかけだけど有能なダンジョンコア」
『死にかけは余計よ!』
次に進み出た女は、桶を両手で抱きしめながら言った。
「熱を出した子が二人います。夫は森で足を怪我して、ここまで来られません。二桶、お願いします」
水は一度だけ細くなった。
それから、すぐに流れを戻した。
許可。
青白い文字が浮かぶ。
女の桶が満たされる。
その後、小さな二桶目にも水が注がれた。
女は泣きそうな顔で頭を下げた。
声は出さない。
迷宮に話しかけない。
ただ、深く頭を下げた。
【感謝を検知しました】
【畏れを検知しました】
【規律認識を検知しました】
【生活欲を検知しました】
表示が一瞬だけ浮かび、消える。
数値はまだ出ない。
けれど、コアの光が少し強くなったのは分かった。
「今のも自動判定?」
『そうよ』
「すごい。これ、本当に受付いらずだな」
『受付?』
「水場の受付係。いや、今後人が増えたら必要かもしれないけど、最初から全部俺が対応してたら絶対パンクする。初日で胃が死ぬ。前世の再放送になる」
『それは困るわ。貴方にまた死なれては、私も困るもの』
「だろ? だからこの機能は大事。めちゃくちゃ大事」
『ようやく理解したようね』
「うん。清水の間、だいぶ未来が見えてきた」
『でも、転売目的の者が来たら?』
「止まるんだろ」
『ええ』
「大量に奪おうとしたら?」
『止まるわ』
「壊そうとしたら?」
俺は少しだけ黙った。
水音が、洞窟に響く。
『そこから先は、高貴なる出禁処理ね』
「出禁で済む?」
『相手次第よ』
「なるほど。迷宮式の出禁、だいぶ怖そう」
『怖い方が効くでしょう?』
「否定できないなあ」
その夜、ルスカ村の人々は清い水を持ち帰った。
熱に苦しむ子どもが飲んだ。
咳き込んでいた老人が飲んだ。
畑仕事で倒れかけていた男が飲んだ。
水は病を消さなかった。
傷を塞がなかった。
老いた体を若返らせもしなかった。
ただ、乾いた体を潤した。
弱った者が眠れるだけの余力を与えた。
明日の朝を迎えるための、細い橋をかけた。
村には、安堵が広がった。
同時に、別のものも広がった。
あの水をもっと得られないか。
他の村に売れないか。
大きな樽で運べないか。
村で管理できないか。
洞窟を見張るべきではないか。
迷宮の水なのか。
神の恵みなのか。
魔物の罠なのか。
誰も答えを持っていなかった。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
清い水は、もう秘密ではなくなった。
村人たちが帰ったあと、清水の迷宮にはまた水音だけが残った。
ぽたり。
ぽたり。
さっきまでの足音も、ざわめきも、桶の擦れる音もない。
俺は水場の前に座り込んだ。
「疲れた……けど、なんかいけそうだな」
『迷宮主が水汲みを見ていただけで疲れないでちょうだい』
「いや、精神的に疲れた。人間の欲、思ったより濃い。でも自動判定があるのはでかい。これはでかいぞ」
『だから高貴なる審判だと言っているでしょう』
「はいはい、高貴なる便利審判」
『混ぜるんじゃないわ』
「でも、悪い欲ばっかりじゃないな」
『ええ。助けたい欲も、守りたい欲も、独り占めしたい欲も、売りたい欲も、同じ人間の中に混ざっている』
「面倒くさいな、人間」
『貴方も人間でしょう』
「だから面倒くさいの分かるんだよ」
水場の上に、青白い表示が浮かんだ。
【初回村内利用を確認しました】
【感謝、畏れ、生活欲、規律認識を獲得しました】
【獲得DP:31】
【現在DP:38】
「おお。増えてる!」
『当然でしょう。感謝、畏れ、欲、規律への理解。どれも迷宮を満たすものだもの』
「数字で見ると、ちょっと安心するな」
『その発想が庶民ね』
「元会社員だからな。数字が増えると、とりあえず上司に怒られにくい気がする」
『その上司という存在、魔物より厄介ではないの?』
「場合による」
俺は水場を見た。
今のままだと、村人が数人来るだけでいっぱいになる。
床は粗いし、桶を置く場所もない。
足の悪い老人や子どもが転んだら危ない。
水は出る。
でも、使いやすい場所ではない。
第1層は生活区域にする。
そう決めたばかりなのに、今のままでは生活区域というより、湧き水が出るだけの危ない洞窟だ。
「なあ、ヴェルティア」
『何?』
「DPってさ、何に使えるんだ?」
『迷宮を広げる。形を変える。水を増やす。床を整える。罠を作る。魔物を生む。報酬を作る。貴方が望み、私が迷宮として形にできるものなら、多くは叶えられるわ』
「つまり、候補から選ぶんじゃなくて、俺たちで考えるのか」
『当然でしょう。高貴なる迷宮を、勝手に並んだ項目から選んで作るなど無粋よ』
「ゲーム脳に刺さるなあ」
『何よ、げーむのうって』
「俺の前世の持病」
『治しなさい』
「無理」
俺は腕を組んだ。
「まず必要なのは、水量を増やすこと。でも、ただ増やすだけだと人が押し寄せる」
『水を欲しがる者は増えるでしょうね』
「だから、部屋を整える。水を汲む場所、待つ場所、入口と出口。人がぶつからないように流れを作る」
『地味ね』
「地味は強い。動線が悪い店は荒れる」
『また店扱いしているわ』
「迷宮でも動線は大事だろ?」
『……否定はしないわ』
「あと、床。今のままだと足の悪い人が危ない」
『床を滑らかにするの?』
「滑らかすぎると濡れて滑る。少しざらつかせて、水が流れる溝を作る」
『妙に具体的ね』
「前世で店舗改装の打ち合わせに巻き込まれたことがある」
『貴方の前世、便利なのか不幸なのか分からないわね』
「どっちもだな」
俺は小さな水場を見た。
昨日まで、ここは死にかけの洞窟だった。
今は、村の命綱になりかけている。
でも、命綱は細いままだと切れる。
「よし。次は水場を広げる。床を整える。人が並べる場所を作る」
『罠は?』
「まだいらない」
『毒霧は?』
「いらない」
『落とし穴は?』
「入口に落とし穴がある水汲み場、誰が使うんだよ」
『奪いに来た者には効果的よ』
「それはもう少し後。今は、ルールを守る人が使いやすい場所にする」
『甘いわね』
「甘いんじゃない。順番だ」
『順番?』
「先に優しい場所を作る。そうすると、後でそれを壊そうとするやつが悪く見える」
ヴェルティアが黙った。
赤黒いコアの光が、ゆっくり揺れる。
『……人間にしては、なかなか嫌な考え方をするわね』
「褒めてる?」
『高貴なる評価よ』
「それ、便利ワードにしてない?」
『してないわ』
「してるな」
『してない』
俺は笑いながら、入口の看板を見た。
清い水、あります。
困っている人、歓迎。
奪いに来る人、お断り。
この場所は、まだ第一層しかない。
できることも少ない。
けれどもう、世界の端っこをほんの少し濡らし始めている。
「大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」
『その言葉、根拠が薄くて不安になるわ』
「俺も言いながらちょっと不安!」
『なら言わないでちょうだい!』
ヴェルティアの叫びが、洞窟に響いた。
その向こうで、水は静かに流れ続ける。
清い水。
優しい水。
そして、人間の欲を映す水。
明日、この場所は少しだけ変わる。
ただの水たまりから、清水の間へ。
迷宮が、人を迎える形を持ち始める。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
清水の迷宮、まずは村に見つかりました。
水は人を助けますが、同時に「もっと欲しい」という気持ちも連れてきます。
次話では、大地とヴェルティアが相談しながら、清水の間を少しずつ整えていきます。
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