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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第1話 清い水、あります


 死ぬ時、人間は走馬灯を見るらしい。


 俺は見なかった。


 見えたのは、真っ白な天井と、蛍光灯と、上司から届いた未読メッセージ三件だった。


『獅堂くん、例の件だけど』


『明日の朝までに』


『なんとかなる?』


「なんとか……ならんわ……」


 そこで俺、獅堂大地、三十八歳。


 現代日本のしがない会社員は、見事に息絶えた。


 たぶん過労だ。


 いや、過労とストレスとコンビニ飯と睡眠不足と、あと最後に届いた上司の追撃メッセージの合わせ技一本だ。


 俺の人生、最後の敵は魔王ではなく通知音だった。


 ピコン。


 あれは悪魔の鈴である。


 そして次に目を覚ました時。


 俺は、石の床に寝転がっていた。


「……冷たっ」


 背中が痛い。


 腰も痛い。


 首も変な角度で痛い。


 死後の世界、寝具の質が悪すぎる。


 ゆっくり体を起こすと、そこは洞窟だった。


 壁は黒ずんだ石。


 天井には細い亀裂。


 床には乾いた砂と、小さな骨の欠片。


 空気は重く、湿っていて、どこか鉄臭い。


 そして目の前には、光る宝石みたいなものが浮いていた。


 赤黒い。


 ひび割れている。


 心臓みたいに、弱く脈打っている。


「おお……」


 俺は思わず手を合わせた。


「異世界っぽい」


『第一声がそれなの?』


「うわ喋った!」


 宝石から声がした。


 女の声だった。


 高く、澄んでいて、やけに偉そうな声。


『当然でしょう。私は高貴なるダンジョンコア、ヴェルティア。貴方のような死にたて人間が本来なら声を聞くことも許されない、迷宮核の中の迷宮核よ』


「死にたて人間って言い方、これから捌かれる魚みたいで嫌だな」


『口を慎みなさい。貴方は今、奇跡的に私の前へ召喚されたのよ』


「奇跡的に?」


『そう。つまり幸運に感謝しなさい』


 ひび割れた宝石は、ふんぞり返るように少しだけ浮き上がった。


 いや、宝石だから胸はない。


 でも空気だけは完全に腕組みしている。


「なるほど。で、その高貴なるダンジョンコア様は、なんでそんなにバキバキに割れてるの?」


『…………』


 宝石が沈黙した。


 脈動が弱くなった。


 なんか気まずい。


『……少しだけ、ほんの少しだけ、存続危機なの』


「かなり死にかけじゃない?」


『少しよ!』


「いや、見た目が完全に閉店間際の蛍光灯なんだけど」


『誰が閉店間際よ! 私はまだ営業中よ! 迷宮核としての尊厳は残っているわ!』


「でも洞窟、ガラガラだぞ」


『休業中なの!』


「閉店じゃん」


『違うわよ!』


 赤黒い宝石がぷるぷる震えた。


 高飛車な声のわりに、反応がいちいち分かりやすい。


 俺は周囲を見回した。


 魔物はいない。


 宝箱もない。


 罠もない。


 入口も、たぶん崩れている。


 あるのは、死にかけのコアと、死にたての俺。


 最悪の開業メンバーだった。


 ……いや、待て。


 死んだ。


 起きた。


 洞窟。


 喋る宝石。


 ダンジョンコア。


 これは、もしかして。


「なあ、ヴェルティア」


『いきなり呼び捨て?』


「ここって、どんな世界?」


『どんな世界、とは?』


「剣とかある? 魔物とかいる? 冒険者ギルドとかある? 魔法は? 魔法ある? 魔法あるよな!?」


『急に目が輝いたわね』


「そりゃ輝くよ! 死んだと思ったら異世界っぽい洞窟にいるんだぞ! ここで魔法ありませんって言われたら、転生特典の九割が消える!」


『意味は分からないけれど、魔法はあるわ』


「よっしゃああああ!」


 俺は拳を突き上げた。


 洞窟の天井から、ぱらりと砂が落ちた。


『騒がないで。天井が落ちたら私ごと終わるわ』


「ごめん。でも魔法あるのか! 火とか出せる? 風で飛べる? 水を操れる? 回復魔法とか、収納魔法とか、転移魔法とか!」


『この世界には魔力があり、魔力を術式に変える者を魔術師と呼ぶわ。魔物もいる。冒険者もいる。冒険者ギルド、商人ギルド、教会、王侯貴族、領主、迷宮、遺跡、魔道具。貴方が想像しているものは、おおむね存在するでしょうね』


「最高じゃん!」


『ただし』


「ただし?」


『貴方個人には、ほとんど魔法適性がないわ』


「…………」


 俺は固まった。


「え?」


『貴方自身が火球を撃ったり、風で飛んだり、治癒魔法を使ったりするのは、まあ無理ね』


「そんな……!」


 膝から崩れそうになった。


「俺の異世界魔法ライフが、開始三分で終了した……!」


『情緒が忙しい人間ね』


「だって魔法だぞ!? 現代日本で三十八年、俺が使えた魔法なんて、電子レンジのあたためボタンくらいだったんだぞ!?」


『それは魔法ではないわ』


「でも弁当が温まるんだぞ。実質、生活魔法だろ」


『貴方、魔法への敬意が浅いのか深いのか分からないわね』


 俺は床に手をつき、深く息を吐いた。


 魔法はある。


 でも俺は使えない。


 喜びと絶望が、同時に胸の中で綱引きしている。


『ただし、迷宮主としてなら話は別よ』


「えっ」


 俺は顔を上げた。


『貴方個人が魔法を使うのではない。私と契約し、迷宮主となれば、DPを使って迷宮を作り変えられる。水を湧かせる。床を整える。道を伸ばす。魔物を置く。罠を作る。報酬を生み出す。つまり、貴方自身ではなく、迷宮そのものを動かすの』


「……それ、めちゃくちゃ面白いやつでは?」


『ようやく分かったようね』


「自分で火球は撃てないけど、ダンジョンを設計できるってことだろ? つまり俺自身は魔法使いじゃないけど、建物全体が魔法設備になる感じか」


『雑だけれど、だいたい合っているわ』


「やばい。ちょっとテンション戻ってきた」


『戻るのが早いわね』


「大丈夫大丈夫! 俺、切り替えだけは早いから!」


『それで生前、仕事を押しつけられたのでは?』


「痛いところを石槍で刺すな」


『石槍はまだ作れないわ』


「作れたら刺す気だった?」


『必要なら』


「こわっ」


 俺は咳払いをした。


「それで、この世界って危ないの?」


『危ないわ。魔物はいるし、盗賊もいる。貴族は貴族で面倒だし、教会も商人も冒険者も、それぞれ欲で動く。迷宮は人間にとって富と危険の塊。だから人間は迷宮を恐れ、同時に求める』


「なるほど。欲と恐怖か」


『そう。迷宮は、人間や魔物を誘い込み、恐怖、欲望、魔力、血、命を糧に成長する存在よ』


「いきなり物騒になったな」


『迷宮だもの』


 ヴェルティアの声は、少し誇らしげだった。


『そして、貴方には私と契約してもらうわ』


「契約?」


『そう。私はダンジョンコア。けれど今の私は見ての通り、かなり……少しだけ弱っている』


「今、かなりって言ったよね?」


『少しよ!』


「はいはい」


『だから、外部の魂と契約し、迷宮主を立てる必要がある。貴方が迷宮主になるの』


「俺が?」


『光栄でしょう?』


「いや、急に社長にされるバイトみたいで怖い」


『社長?』


「責任だけ重い人」


『なら合っているわね』


「それで納得するな!」


 俺は立ち上がろうとして、ふらついた。


 体が妙に軽い。


 前世の最後にあった胸の苦しさはない。


 ただ、腹が減っていた。


 異世界でも腹は減る。


 生命の仕様がしぶとい。


「で、迷宮主にならなかったら?」


『私が砕けるわ』


「ふむ」


『貴方の魂も、行き場を失って消えるでしょうね』


「大丈夫大丈夫! 契約しよう!」


『決断が早いわね!?』


「死にたくないからな! 二度目はまだ早い!」


『節操がないわ』


「生存本能と言ってくれ」


 宝石が一瞬、柔らかく光った。


『では、契約を結ぶわ。獅堂大地。貴方は私の迷宮主となり、私と共に迷宮を育てる。人間を誘い、欲望を集め、恐怖を吸い、命を糧とし、深く、暗く、強き迷宮を築くのよ』


「うんうん」


『まずは血の匂いを撒きましょう。次に罠。入口には宝箱。浅層には弱い魔物を置き、愚かな冒険者を誘う。奥では悲鳴を響かせ、逃げ惑う者を迷わせ、最後に魂を』


「却下で」


『なんでよ!?』


 ヴェルティアの声が洞窟中に響いた。


「いや怖い怖い怖い。発想がいきなりブラック企業どころか処刑場なんだよ。もっとこう、サービス業として考えよう」


『さーびすぎょう?』


「人に来てもらうんだろ?」


『ええ』


「欲望を集めるんだろ?」


『そうよ』


「じゃあ殺すより、通わせた方がよくない?」


『…………』


 ヴェルティアが黙った。


 ひび割れた赤い光が、じんわり揺れる。


『通わせる?』


「そう。人間ってのは、痛い思いをする場所にはなるべく行きたくない。でも、得する場所には何度でも来る。便利、気持ちいい、助かる、儲かる、きれいになる。そういうものには勝手に群がる」


『……人間は愚かね』


「愚かだけど、財布の紐は欲望で開く」


『財布?』


「まあ、命より小分けにした欲望だな」


『なるほど。高貴なる理解をしたわ』


「理解の仕方が怪しいな」


『では、何を置くの? 金銀財宝? 若返りの秘薬? 不老の泉? 王権を奪える魔剣?』


「初手が重い!」


『高貴なる迷宮なのだから当然でしょう』


「今の君、床屋の水槽に入ってる弱った金魚くらいの体力だぞ」


『誰が金魚よ!』


「まずは低コストで、毎日必要で、誰でも価値が分かって、困ってる人ほど欲しがるもの」


『……血?』


「水だよ!」


 俺は洞窟の床を指差した。


「清潔な水。飲める水。安全な水。それがあれば人は来る」


『水? そんなもの、川に行けばあるでしょう』


「川の水がいつも安全とは限らない。井戸が枯れることもある。病人や老人や子どもは、水場まで行くだけでも大変だ。水は生活の基本だよ。派手さはない。でも、切れたら終わる」


『……地味ね』


「地味は強いんだよ。毎日使うからな」


『でも、それでは恐怖が薄いわ』


「最初は信頼を取る。怖さは奥で出せばいい」


『奥で?』


「そう。第一層は生活区域にする」


『生活区域?』


「うん。まずは清い湧き水を出して、村人を呼ぶ。病人がいる家、老人、子ども、水に困ってる人。そういう人が毎日来る場所にする」


『迷宮なのに?』


「迷宮だからだよ。毎日来る人がいれば、DPも毎日入る。薄くても継続する。いきなり一人殺して終わりより、ずっと安定する」


『……ふむ』


「それで、第一層は今後も広げる。水汲み場、休憩場所、待機場所。いずれ冒険者が来るようになったら、冒険者ギルドの受付みたいな場所も置きたい。戦利品や商品の売買もできるようにする。商人も呼ぶ。人が常駐する場所にする」


『人間を、迷宮に住みつかせるつもり?』


「住ませるというより、滞在させる。村人は水を汲みに来る。冒険者は準備と訓練に来る。商人は売買に来る。人が集まれば、欲も集まる。生活欲、金銭欲、冒険欲、名声欲。全部、迷宮の流れになる」


 ヴェルティアの光が、ゆっくり強くなった。


『第一層で生活欲を集める』


「そう」


『では、第二層は?』


「訓練施設」


『訓練?』


「簡単に冒険者が死んだら困るだろ?」


『私は別に困らないわ。死体は濃いDPになるもの』


「短期的にはな。でも死にすぎたら、人が来なくなる。噂が悪くなりすぎる。冒険者が定着しない。継続してDPが得られない」


『…………』


「だから第二層は、初心者や低ランク冒険者を鍛える場所にする。泥道、浅瀬、ぬかるみ、滑る石、弱い魔物。足元を見る。荷物を軽くする。仲間と戻る判断をする。そういう基礎を叩き込む」


『冒険者を助けるの?』


「違う。通わせるために、簡単には死なない形に整える」


『……高貴なる理解をしたわ』


 ヴェルティアの声が、少し嬉しそうに低くなった。


『第一層で生活欲を集め、第二層で冒険者を削って整え、第三層から本格的に報酬で釣る』


「そう、それ!」


『第三層からは、死んでもよい?』


「警告は出す。戻る道も作る。でも、欲を出して踏み込むなら自己責任だ。報酬も置く。美容、睡眠、酒、若返り。深い階層ほど強い報酬にする」


『人間の欲望を、殺す前に育てるのね』


「言い方」


『優しく招き、深く欲しがらせ、踏み越えた者を迷宮が呑む』


「まあ、だいたいそう」


『貴方、人間のくせに悪辣ね』


「俺は前職でポイントカード施策をやってたからな」


『ぽいんと、かーど……恐ろしい響きね』


「恐ろしいよ。人間はあと一個スタンプで無料になると判断力を失う」


『素晴らしいわ!』


「そこに感動するな」


 その瞬間、俺の足元に淡い文字が浮かんだ。


 青白い光が、石の床に滲む。


【契約候補:獅堂大地】


【迷宮主登録を開始します】


【初期DP:10】


【コア損傷率:82%】


【迷宮状態:崩壊寸前】


【外部入口:閉塞】


【水源:なし】


【来訪者導線:なし】


「初期DP少なっ!」


『うるさいわね! 死にかけなのよ!』


「そこは認めるんだ」


『認めてないわ! 戦略的低燃費状態よ!』


「言い換えただけ!」


 俺は表示を見つめた。


 DPは10。


 水源なし。


 入口も半分崩れている。


 来訪者導線もなし。


 床は汚い。


 客を呼ぶ以前に、店として終わっている。


 いや、店ではない。


 迷宮だ。


 でも、人を呼ぶなら最低限の導線はいる。


「まず、水だな」


『本当に水で始めるのね?』


「うん。あと入口を開けて、看板を立てる」


『罠は?』


「後回し」


『宝箱は?』


「後回し」


『悲鳴が響く回廊は?』


「初手で作るな。客が帰る」


『客という言い方、やっぱり変だわ』


「慣れろ。今日からうちは生活インフラ系ダンジョンだ」


『生活……いんふら……』


 ヴェルティアがその言葉をゆっくり噛むように繰り返した。


『高貴さに欠ける響きね』


「大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」


『その言葉、根拠が薄いわ』


「俺の人生の八割はこれで乗り切ってきた」


『だから死んだのでは?』


「今それ言う!?」


 俺とヴェルティアは、水場と入口看板を作ることに決めた。


 派手な罠でも、宝箱でも、魔物でもない。


 清い水と、読むだけで分かる看板。


 迷宮としては地味すぎる。


 でも、毎日必要なものは強い。


【小水脈を生成します】


【DPを8消費しました】


【残DP:2】


 洞窟の奥で、ぽたり、と音がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 乾いた石の割れ目から、水が落ちていた。


 最初は雫だった。


 次に細い糸になり、やがて床のくぼみに小さな水たまりを作った。


 透明な水だった。


 洞窟の暗さの中で、その水だけが淡く光っている。


 俺は膝をつき、両手ですくった。


 冷たい。


 きれいだ。


 前世のミネラルウォーターより、たぶんうまい。


「……できた」


『本当に、できたわね』


 ヴェルティアの声には、わずかな驚きが混じっていた。


 偉そうな仮面の隙間から、小さな不安と期待が覗いている。


「入口看板も作るぞ。文面はこれでいこう」


 俺は床の表示に向かって、ゆっくり言った。


「清い水、あります。困っている人、歓迎。奪いに来る人、お断り」


『……最後だけ急に冷たいわね』


「大事だ。優しい場所ほど、線引きがいる」


『人間を助けたいの? それとも拒みたいの?』


「どっちもだよ」


 俺は水面を見た。


 そこには、知らない顔の俺が映っていた。


 少し若く見える。


 でも目の奥の疲れは、まだ前世のままだった。


「困ってる人には開く。でも、奪いに来るやつには開かない。ここは無料の善意じゃない。迷宮だ」


『……ふうん』


 ヴェルティアの光が、少しだけ嬉しそうに揺れた。


『人間にしては悪くないわね』


「褒めた?」


『評価よ。高貴なる評価』


「分かりにくいなあ」


 床の文字が再び光る。


【入口看板を生成します】


【DPを1消費しました】


【残DP:1】


 ごご、と低い音がした。


 崩れていた洞窟の一部が動き、外へ通じる隙間が開く。


 その前に、木の板が立った。


 字は少し歪んでいる。


 でも読める。


 清い水、あります。


 困っている人、歓迎。


 奪いに来る人、お断り。


「よし」


『よし、ではないわ。残DPが1しかないのだけれど』


「大丈夫大丈夫!」


『なんとかなるって言ったら床を抜くわよ』


「まだ言ってない!」


『言いそうだったわ!』


 ヴェルティアが怒鳴った、その時だった。


 外から、音がした。


 ざり。


 ざり。


 誰かが、土を踏む音。


 俺とヴェルティアは同時に黙った。


 入口の向こう。


 夕暮れの赤い光の中に、小さな影が見えた。


 子どもだった。


 十歳くらいだろうか。


 ぼさぼさの髪。


 痩せた頬。


 抱えているのは、空っぽの木桶。


 足元はふらついていて、息が荒い。


「……水」


 子どもが、かすれた声で呟いた。


「お母さんに……水……」


 俺の背筋が伸びた。


 ヴェルティアが小さく囁く。


『大地。最初の来訪者よ』


「分かってる」


『どうするの?』


「水を出す」


『無料で?』


「最初の一杯は、うちの名刺だ」


『名刺?』


「信頼の初期投資」


『また変な言葉を……』


 子どもは入口の看板を見た。


 読めるのか、読めないのか。


 それでも「水」という文字だけは分かったらしい。


 ふらふらと中へ入ってくる。


 俺は思わず声をかけようとして、止まった。


 俺の姿は見えているのか?


 迷宮主って外の人間からどう見えるんだ?


 今さら基本仕様が分からない。


「ヴェルティア、俺って見えてる?」


『外の人間には見えないわ。貴方は今、迷宮核側の管理域にいるもの』


「管理域?」


『迷宮の内側であって、来訪者が歩いている空間とは少しズレている場所よ。貴方の声も、普通は届かない』


「重要事項は先に言って!」


『聞かれてないもの!』


「マニュアルのない職場か!」


『まにゅある?』


「ああもう!」


 子どもが水場の前で膝をついた。


 両手で水をすくい、夢中で飲む。


 一口。


 二口。


 そして、目を見開いた。


「……甘い」


 甘くはないはずだ。


 たぶん、そう感じるくらい乾いていたのだろう。


 子どもは泣きそうな顔で、木桶に水を汲み始めた。


 手が震えている。


 半分ほど入れたところで、桶が傾いた。


「あっ」


 水がこぼれそうになった。


 俺は反射的に手を伸ばしかけた。


 でも、届かない。


 俺は来訪者に触れられない。


 その代わり、水場の縁が淡く光った。


 こぼれかけた水が、桶の内側へすっと戻る。


「え……?」


 子どもが目を丸くした。


 俺も目を丸くした。


「今の何?」


『清水の間の機能よ。水を持ち帰る意思がある者には、最低限、こぼれにくくする。そういう形にしたのでしょう?』


「俺、そこまで細かく指定したっけ?」


『貴方の欲が混ざったのよ。困っている者に水を届けたい。けれど、こちらから手は出せない。だから迷宮が水だけを整えた』


「……なるほど」


『迷宮は、人間に手を貸すのではないわ。水の流れを決めるだけ』


「言い方は冷たいけど、今は助かった」


『助けたのではないわ。通わせるための初期調整よ』


「はいはい、高貴なる初期調整ね」


『はいは一回』


「はい」


 俺たちが言い合っている間に、子どもは桶を抱えた。


 重そうだ。


 でも、顔には力が戻っている。


 入口へ向かう途中、子どもは振り返った。


 こちらを見ているわけではない。


 たぶん、俺の姿は見えていない。


 でも、何かを感じたのだろう。


「あ、ありがとう……ございます」


 小さな声だった。


 それだけ言って、子どもは外へ駆けていった。


 俺はしばらく、その背中を見ていた。


 洞窟に残ったのは、水音だけだった。


 ぽたり。


 ぽたり。


【来訪者の渇きが満たされました】


【感謝を検知しました】


【不安を検知しました】


【生活欲を検知しました】


【獲得DP:8】


【現在DP:9】


「増えた!」


『増えたわね』


「すごいじゃん水!」


『……そうね』


 ヴェルティアの声は、少し震えていた。


 さっきまでの高飛車な響きが、薄くなっている。


『大地』


「ん?」


『今の子、また来ると思う?』


「来るよ」


『どうして分かるの?』


「水が必要だから」


『他の人間も?』


「来る。病人がいるなら、家族が来る。家族が来れば、村に話が広がる。村に広がれば、欲が混ざる。感謝する人もいる。疑う人もいる。奪おうとする人も出る」


『奪いに来たら?』


 俺は看板を見た。


 清い水、あります。


 困っている人、歓迎。


 奪いに来る人、お断り。


「警告は出してある」


『それでも来たら?』


「客じゃない」


 水音が、少しだけ低く響いた気がした。


 ヴェルティアは黙っていた。


 やがて、いつもの偉そうな声に戻る。


『いいでしょう。高貴なる私の迷宮は、本日より清水の迷宮として再起動するわ』


「清水の迷宮。いいね。分かりやすい」


『まずは村人を呼び、感謝を集め、生活欲を流させる』


「そうそう。第一層は生活区域。ここはこの先、清い水だけじゃなくて、もっと広げる」


『どこまで?』


「水汲み場、休憩場所、待機場所。いずれ冒険者ギルドの受付みたいな場所を置く。戦利品や商品の売買もできるようにする。商人も呼ぶ。人が常駐するようにする」


『迷宮なのに、人間の受付と商売を置くの?』


「迷宮だから置くんだよ。人がいれば欲が流れる。水を飲む。待つ。売る。買う。噂する。怖がる。羨む。全部DPになるなら、迷宮の中で人間社会を小さく回せばいい」


『……高貴なる私の迷宮が、市場になるのね』


「最初は水場。次に市場。さらにその奥に訓練場。そのさらに奥に本物の迷宮」


『第二層は訓練施設だったわね』


「そう。冒険者が簡単に死んだら継続してDPが得られない。それは困る。だから第二層で泥まみれにして、戻る判断を覚えさせる」


『第三層から報酬』


「そう。第三層からは本格的にダンジョンとして動く。報酬を出す。欲で釣る。怖さも出す。ここからは、踏み込むやつの自己責任だ」


『美容、睡眠、酒、若返り、王侯貴族さえ膝をつく恩恵を下層に置くのよ!』


「急に野望がでかい!」


『当然でしょう! 私は高貴なるダンジョンコア、ヴェルティアよ!』


「でも残DP9」


『現実を言うな!』


「まず床をきれいにしような」


『高貴なる第一歩が掃除!?』


「生活インフラは清潔感が大事」


『迷宮なのに!?』


「迷宮でも!」


 俺は笑った。


 死んだはずなのに。


 会社で燃え尽きたはずなのに。


 なぜか今、少しだけ胸が軽かった。


 魔法は使えない。


 剣も持っていない。


 勇者でもない。


 でも、迷宮は作れる。


 水を湧かせて、人を呼べる。


 その人間たちの欲で、死にかけのコアを生かせる。


 そして俺も、たぶん生きられる。


 小さな水場。


 死にかけのコア。


 残DP9。


 看板一枚。


 始まりとしては、あまりに貧弱だ。


 でも、最初の客は来た。


 最初の水は、誰かの命につながった。


「大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」


『だからその根拠のない言葉をやめなさい!』


「でも増えただろ、DP」


『……それは、そうだけれど』


「じゃあ次は床掃除だ!」


『嫌よ! 私は高貴なる迷宮核よ!?』


「高貴でも床が汚い店は流行らない!」


『店ではないわ! 迷宮よ!』


「清水の迷宮、営業開始!」


『勝手に開店宣言しないでちょうだい!』


 ぽたり。


 ぽたり。


 水音が、洞窟に響く。


 それはまだ、世界を変える音ではない。


 ただの一滴。


 けれど人間は、水を求める。


 欲望は、乾きから始まる。


 そして迷宮は、その乾きに名前をつけた。


 清い水、あります。



あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


死にかけのダンジョンコアと、明るすぎる元会社員による生活インフラ迷宮運営、ここから始まります。


続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


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