77.まりえと針千本
ちょ、洒落になんない……、洒落になんないよそんなの!
「や、やめて……!」
注射器とか出してくるのありえない! 中身は何!? 睡眠薬か、こんなゲームだから媚薬? わかんないけど、絶対に注射なんかされたらまずいということだけはわかる。わたしはオンドレアの手から逃れようと必死で身をよじった。
「そないに暴れんで、マリエ。針が皮膚破いてまうで」
「暴れるに決まってんでしょ! やだやだやだ!」
振りほどこうと必死になって力を入れてるのにぜんぜんなんにもできない。一人でマグマダイバーを倒すまでレベルを上げたはずのわたしなのに!
(くっ……やっぱり、こいつが攻略対象だからなのか……っ!)
攻略対象相手に迫られると弱くなってしまう。わたしはここでは乙女ゲームのヒロインだから……!
「なあ……、マリエ。後生やから俺のモンになるてお前から言うてくれ」
ギリギリとわたしを抑える手の力を全く緩めることなく、オンドレアは今度は泣き出しそうな顔になっていた。仕事に行っちゃうお母さんに行かないでとすがっている鍵っ子みたいな表情。拒んでいるこっちが罪悪感を抱いてしまいそうな顔をしていた。
「それだけでええ。それだけ言うてくれたら俺はこないなモンよう使わんよ。お前を傷つけたりもせぇへん。約束できる。指切りげんまんする」
「……」
「せやから言うてくれ。俺のモンになるて言うてくれよぉ、マぁリエェェ……」
わたしは何も言えなかった。恐怖。哀れみ。色んな感情が喉の奥で膨れて言葉が詰まった。下手な返答をしたら無事ではいられないかもしれないという不安。ゲームではクローズアップされることのない、選ばれなかった攻略対象という存在の悲しさ。黙っているわたしに何とか言えと激昂するかと思ったけど、好意とはかけ離れたわたしの感情が顔に出ていたのかもしれない。オンドレアの反応は想像と違っていた。
「……さよか。ほなら、針千本飲ますしかないわな」
わたしをまっすぐ見つめるオンドレアの目から光がすっと消えていく。
「あ……ううう……嫌……、いっ!!」
オンドレアの視線に絡み取られたまま抵抗できないわたしの首筋に、ちくりと冷たい針の感触が射しこまれていった。針を刺された瞬間も痛いし、薬を注入されるときも痛い。下手糞。最悪だ。
「いいい~っ……。いた……いっ、何を……何を注射した、のっ……」
わたしの問いには答えずに、オンドレアは空になった注射器を床に投げ捨てる。注射されてしまった。もしこれが惚れ薬とかだったらわたしはここで終了だ。今まで惚れ薬を作れなんて依頼がなかったし、このゲームにそんなものがなかったと祈りたい。
「大したモンやない。ただの睡眠薬や」
「あっそ……そんならよかったわ……よくはないけろ……」
強がって見せようとしたら舌が痺れて全然カッコつかなかった。オンドレアの腕を引きはがそうとしてた指の力も抜けてしまう。ああ、わたしはこのまま眠らされて連れてかれてオンドレアの家に監禁されるのだ……。
「……たひゅけて……いひゅまいる……」
どろどろと蕩けていくような脳みそが最後にひねり出した言葉はイスマイルへのSOSだった。その言葉を聞いたオンドレアは忌々しそうに口元を歪めている。
「ここまで来てもまだあいつの名前呼ぶんか。マリエはあいつが好きなんやのう。ほんま腹立つ……」
「あ……う……」
足から力が抜けて、立っていられない。まぶたも閉じてきた。唇も動かない……。
「せやけどあいつなら来ぉへんよ。今頃俺の事務所でくたばっとるわ」
くたばってる。それは殴られて気絶してるって意味なのかな。それとも文字通りなんだろうか。ああ、イスマイル。ごめんね。わたしに付き合わなければ痛い思いしないですんだかもしれないのに……ごめんね。
「果たしてそれはどうでしょうかね」
「あ!?」
オンドレアの肩に手が置かれて、そのまま後ろに引っ張った。わたしを抑えていた腕が外され、支えを失ったわたしはずるずるとその場に座り込む。
今一番聞きたい声が聞こえた。今一番会いたいひとが来てくれた。嬉しい。抱きしめたい。だけどもう手も上がらなくて、もつれた舌でなんとか彼の名前をもう一度呼んだ。
「いひゅ、まい、う」
「この野郎、追いかけてきよったんか!」
「ええ。探し物は事務所にはなかったので。あなたが自分で持っているんでしょう」
うとうとと眠たい目でわたしは二人の男が睨み合うのを見上げた。イスマイルはまた殴られたみたいで、かっこいい顔が少し腫れてしまっていた。
「ボコボコにしたったのにもう治っとるんか。どんだけ殴れば不細工になるねんお前は。けったくそ悪いのう」
「エルフというのはそういうものです。人間は脆弱で気の毒だ」
イスマイルはオンドレアから一定の距離を取りながら両の拳を握っていた。オンドレアも同じようにファイティングポーズを取る。
「ええ加減にせえ!」
「はっ」
オンドレアの長い腕がイスマイルの頬を打ち据えようとした。イスマイルは最小限の動きでそれを避けると、すかさず逆にオンドレアの顔を殴り抜いた。みしりと重たい音がする。オンドレアは倒れ込んだりはせずに、イスマイルの打撃を耐えた。
「お前……。俺を殴り返せるんか?」
「ええ。今までは理由があって我慢していただけです。もうそんなことはしていられない。あなたがまりえさんに危害を加えるなら、話は別だ」
「さよか。なら、殴り合いで勝った方がマリエの王子様っちゅうことやな」
「そうです……ねっ!!」
みんなで楽しく過ごした温かいリビングで二人の男が殴り合っている。真っ白なイスマイルと真っ黒なオンドレア。わたしは今にも途切れそうな意識を繋ぎとめるので精いっぱい。かすんだ目にはもう彼らの姿は見えなくて、輪郭と色がぼんやりと見えるだけだった。
(一人でやれるって思ったのに、結局イスマイルに助けに来てもらっちゃった……)
薬でむりやり与えられた眠気はすさまじくて、もう目もあけていられなくなった。暗闇の中で二人の男がぶつかり合う鈍い音だけが凄く遠くの方で聞こえている。
「まりえさん! しっかり! 今助けますからね!! うっ!」
「おかしな訛りで……マリエを呼ぶな! がっ!」
「訛りであなたになにも言われたくないんですよっ! ぐっ!!」
ドゴッ、バキッ、ドカッ。殴り合いは激しいようで、テーブルや椅子が壊れる音までしてきた。
(イスマイル……加勢したいけど、もうわたし起きてられないみたい……。絶対勝ってね……。絶対に勝って……わたしを守って……、イスマイル……)
それを最後に、もう何も考えられなくなる。わたしはイスマイルを信じて、意識をどろりとした闇の中に沈めた。
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