39.イスマイルと口づけ
背中に熱い体温と荒い息遣いを感じながら私はまりえさんをおぶって闇の中を進んだ。
「んん……うぅ、イスマイルぅ……♡」
「なんて声出してるんですか、まったく……」
不可抗力で閉所に押し込められぎゅっと抱きしめられただけで、スライムの媚毒に触れた時と同じようにおかしくなってしまったまりえさん。これは彼女がいわゆる「そういうゲーム」のヒロインとしてここに存在しているという事実の表れなのだろう。
『ノーマニー×アルケミーはその……大人の女の人が楽しむための性的なフィクション作品なの』
いつのことだったか、遠い昔に見送った転生マリエに教えられ、私はその事実を知っている。だからまりえさんもこの仮想の世界の中で男に愛され、乱される存在としての魅力や性質をその身に宿していることもわかっているのだ。
(私だって、これ以上この柔らかい感触を味わっていたらどうにかなってしまいそうだ……)
甕の中でたまらない気持ちになっていたのは彼女だけではない、私もだった。小さく柔らかく頼りない肉体の感触。女性の髪からする独特の甘い香り。盗賊の男があの場を立ち去るのがもう少し遅かったら……。
「まりえさん大丈夫ですか? もうすぐこの洞窟から出られますからね」
「ふン……んん……♡」
私は洞窟の中に張り巡らされた横穴をたどって、盗賊たちが出入りに使っていないルートでまりえさんを迎えに来た。ここから地下水流の匂いが濃くなる方向へ歩くと盗賊たちも知らないような道が現われる。それに沿って歩けば外に出られるのだ。
やがて目の前に眩しい光が見えてきた。鳥の鳴き声も聞こえる。背中で身じろぐまりえさんを安全なところで休ませてあげたかった。
「まりえさん。ここならもう大丈夫ですよ。降ろしますからね」
「はあ……ああ……」
森にある湖のような回復地点ではないけれど、洞窟の近くには小さな湖があった。エルフの脚なら簡単にたどり着けるが普通の人間には簡単にたどり着けないような立地だった。まりえさんが逃げたことに気が付いたとしても盗賊たちはここまで追ってこないだろう。
「イスマイル……イスマイルぅ……♡」
ゆっくりと地面に下ろしてあげると、別人みたいに蕩けた目をした彼女は私のほうに両腕を伸ばしてくる。抱きしめて、キスしてほしいとねだっているかのようだった。あるいはただ私が彼女を抱きしめてキスしたくてたまらないのか。
「まりえさん、これはね。夢です。よく眠って、目覚めたら忘れてくださいね」
私に催眠の魔法は使えないが、眠りを誘う薬なら持っていた。自分の店の花壇で育てているハーブから抽出して作ったものだ。私は懐からそれを一服取り出して口に含むと、彼女のぷっくりと艶めいた可憐な唇の間から流し込んでやった。今まで私が口にしたどんな上等なスフレやプディングよりも甘く、そして切なくなるほどに柔らかい感触だった。
喉の奥に薬を押し込むだけの口づけを無為に長く、かき回すように激しくしてしまいたいと言う衝動が束の間脳を支配しそうになるが、かろうじてすっと冷静になることができた。おそらくオンドレアがまりえさんに貸していたなんだかという指輪のおかげだろう。あの男のことは嫌いだが、今は感謝したいと思った。
「んく……んふう……すぅ……」
「よしよし、ゆっくり眠りましょうね。まりえさん」
薄いワンピースのまま硬い地面に寝かせておきたくないので、私は隣に座ってあぐらをかき、その上に彼女の身体を引っ張り上げてやった。
まりえさんの身体はぐったりと力を抜いているのに羽のように軽い。ぬいぐるみを抱いて眠る幼子のように私は彼女を抱きしめたままその場に座り続けていた。
「ぐっすり眠って……安心しましたか? まりえさんの寝顔は幼いですねえ……」
熱に浮かされているように真っ赤だったまりえさんの顔は、今は落ち着いて静かだった。
私はこの世界に閉じ込められてから大勢のマリエ・ス・カラカンを見送ってきた。 例のノーマニー×アルケミーとかいう仮想のヒロイン、マリエから見れば私の方がNPCとやらに当たるけれど、私から見れば中身のないただのマリエは自動で動く人形と変わらなかった。綺麗でコケティッシュな少女人形。
そんな人形に命が宿るときがまれにあった。転生者が中に入っているときだ。多くの転生マリエは突然仮想の世界に投げ込まれて怯えていたり、逆にはしゃいでいたりした。
そんな中、まず行動あるのみとちょこまか走り回るまりえさんは初日から違っていた。彼女の目は常に何か考えてくるくると目まぐるしくその表情を変える。汚れたり、ボロボロになったり、時にあられもない姿になったりしながらも笑顔でいることをやめずに泥臭く立ち回っている。
「私、ここに来てからこんなに楽しいの、初めてなんですよ。こうやってあなたを助けることに喜びを感じている」
願わくばいつまでもこうしていたかった。そして面と向かって自分の想いをまっすぐに伝えたかった。
「でもそんなのだめですよね。だってあなたと私は同じ場所にいながら違う道を走っているんだから」
彼女がこの世界でエンディングを迎えて去り、そして私は次の周回へ行く。その結末が決まっているのに今愛し合ってしまったりしたらお互いに辛いだけだ。
「それに……私は嘘つきだから」
いや、嘘じゃないかもしれないが、知っていながら言っていないことがたくさんある。それなのに、まりえさんは無垢な信頼を私に預けてこんなにも無防備に眠っている。
「好きです。好きですよ、まりえさん」
「んぅ……むにゃ、イスマイル……」
まりえさんが呼ぶ私の名前、それは本当は私の名前ではないのだけれど。彼女がそう呼んでくれるのなら私はもうイスマイルでいい。
私は眠ったままの彼女の髪を撫でながら、小さな声で秘めている愛を囁き続けた。彼女が聞いていないのならばいくら言ってもいいだろうと思ったからだ。
「ええ、イスマイルはここにいます。ねえまりえさん。愛していますよ。愛していますからね……」
もうすぐ夜が明けそうだった。朝になったらまりえさんを起こして、そしてもし眠りに落ちる前に私が落としたキスのことを彼女が覚えていたらこう言って笑ってやるのだ。
「何を寝ぼけてるんですか。夢でも見たんでしょ、馬鹿なんじゃないですか」と。
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