33.イスマイルとクッキーの味
「馬車に並走して飛び続けろなどと、簡単に言ってくれる、まったく……」
まりえさんの乗った馬車が鉱山にたどり着いたのを見届けてから、私はようやく茂みの中で腰を下ろすことができた。
エルフの耳は音を拾うことに長けているので、彼女が採掘家たちにつるはしを借りて一緒に採掘する気まんまんではしゃいでいるのもしっかりと聞いて把握した。
(あの人はどんな時でも自分が楽しむのを諦めようとしないよな……)
彼女はしばらく鉱山から出てこないだろう。また長時間の追跡が始まるのだから少しでも休んでおいた方がいい。私は木立に寄りかかり、少し目を閉じる。
(疲れた……。ずっと飛ぶのは疲れるな……。いや、飛ばずとも私はずっと疲弊しつづけている……)
いつからか私はこの、マリエ・ス・カラカンを主人公にした仮想の箱に閉じ込められている。金貸しのイスマイルという役割を与えられ、何度も彼女の物語を傍観者の立ち位置で見送る日々を送り続けている……。
私は腰にくくりつけたポーチからまりえさんが今朝くれたプレゼントのクッキーを取り出してまじまじと見つめた。これは彼女がスイーツショップに卸している赤いリボンの包みではなく、私のために緑のリボンで飾ってくれた特別なクッキーだ。
(綺麗な色だ。まりえさんはこの色のリボンが私にふさわしいと思ったのだな。がさつなようだが、彼女はそういうセンスのある人なんだ)
若芽のように瑞々しく艶めくサテンの布切れを引っ張って、しゅるりとほどく。こんな些細な小さなリボンがこんなにも心に嬉しい。小さなクッキーを指でつまみ上げて口に入れると素朴な甘みが驚くほど舌を楽しませる。小麦の塊が崩れてほどけると次に甘酸っぱいジャムの味がやってきた。
「美味しい」
プレゼントのクッキーは攻略対象やマリエ・ス・カラカンと商売ができる者たちのみが味わえる特別な物だ。私はその存在は知っていたものの、繰り返される周回の中でそれを味わうことができたのはまりえさんがやってきた今回が初めてだった。ちょっとした気遣い程度でも、自分だけに向けられた好意の味はとても甘い。
「あたたかい。あたたかい味がする……」
まりえさんが私の店に来た時に見せた涙を思い出す。突然仮想の世界に投げ込まれた嘆きの涙。その手の涙は私はもう流し尽くしてしまった。そのはずなのに、このクッキーを噛みしめるたび、枯れたはずのその涙が溢れそうになるのだ。悲しい。苦しい。だというのに心地よい。何度でもこれを受け取って、ときめきに似た心の動きを味わいたかった。
(依存だ。よくない……)
欲望のままにすべて食いつくしそうになる自分を抑えて、包みをまたリボンで封じ直す。これはいつものように食い散らかしていい甘味ではないのだ。
(この味まで忘れてしまったら私はもう正気でいられないだろう。その時がきたらまた思い出せるように、これは残しておくのだ……)
私がどうしてこの仮想に閉じ込められているのか、元はどんな男でどんな名前だったのか。どうしたらこの仮想から出ることができるのか。それすらも私は忘れてしまっている。理由は私が犯したルール違反による罰だった。
『ルール1・金貸しイスマイルはマリエ・ス・カラカンに自分から関わりに行ってはいけない。ただし、マリエ・ス・カラカンのほうから関わってきた場合に限り、彼女に協力しなくてはいけない』
『ルール2・金貸しイスマイルはマリエ・ス・カラカンに助言することができるが、この箱の世界の仕組みについて教えてはならない』
『ルール3・攻略対象、ワルブレヒトとオンドレアに危害を加えてはいけない』
『ルール4・以上のルールを破った場合、ルール違反の重要度によって金貸しイスマイルの記憶の消去または負傷、マリエ・ス・カラカンがその周回から退場させられるなどのペナルティが課される』
おそらくルール4が繰り返し行使された結果により、私はどうしたらここから抜け出せるかの記憶すらなくしてしまった。もう箱の中で死ぬこともできず永遠に同じ世界を繰り返すことしかできない。その恐ろしさを紛らわすため、いつからか私は山のような砂糖を舌に載せて周回をやりすごすようになった。
繰り返すたびにまた世界に投下されるマリエ・ス・カラカン。彼女たちの中に時々中身が違う転生者が混じっていることがある。転生マリエ。おそらく私がこの煉獄から抜け出すにはその存在が必要なのだ。だから今回もこうやって私はまりえさんが失敗しないように見守る。
「まりえさん……」
まりえさんは不思議な人だ。粗忽で危なっかしくて、ちょっと褒めるとすぐ図に乗って、なんでも思い付きで行動して窮地に陥りそうになって。そうかと思えば、妙に頭の回転が早かったり肝が据わっていたりして驚かされる。私は彼女がいるこの周回が久しぶりに楽しくなっていることを認めざるを得ない……。
(私がまた周回の波にあえなく飲まれていくだけなのだとしても……まりえさんには飲まれてほしくない。彼女だけはあの馬鹿馬鹿しいくらい明るい笑顔を振りまき続けることのできる結末にたどり着いてほしい……。ああ、私は)
私はおそらく恋をしている。決して報われることのない恋をしている。彼女がこの世界からどんな方法であれ解き放たれることがあったら、もうその後の周回を生き続ける気力は私には残らないだろう。
そうなったら私は、今度はこの箱の中で死ぬ方法を見つけようと思う。その瞬間を迎える前に最後に口にするものの味は、やはり彼女が作ったこのクッキーであってほしいのだ。だから大事に、最後まで食べきらずに大事に取っておくのだ。
やることのなくなった私は束の間目を閉じる。ぐるぐると止まらない思考を追わぬように瞑想を始める。元々自分がエルフで、よくこうやって瞑想していた記憶だけはなぜか消されずに残っていた。
それから数時間、採掘を終えたまりえさんが馬車に戻ってきた声で目を覚ますまで私は瞑想にふけっていた。そろそろ帰り道。まりえさんの本来の仕事はここからだ。
馬車に繋がれた馬が動き出すのに合わせて、私は再び飛行の魔法を発動した。
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