37話 失恋は未練。片想いの檻。
海原のような瞳が揺れる。楕円形の枠から液体が溢れ出るたびに多くの情報が頭の中に流入してくる。
頭の中を支配する男の声よりも強力で抗いようのない強制的な映像群。誰かの記憶が無理やりに中に入ってきて、歯を食いしばりたくなる疼痛に襲われる。
この声といい、見える景色といい、一方的な感情に飲み込まれてしまいそうだ。
私の体を這うスロウの感触に強弱が生まれる。スロウの刺激が、私の意識を繋げようと繋ぎ止めてくれているみたいだ。
――すべて造られた感情だ。本心ではないのだ。
「たとえきっかけがそうだったとしても、本人たちの感情は紛れもなく本心だ!」
くだらない妄言だ。そんな子供を騙すようなおとぎ話みたいな作り話で私の決意を鈍らせるとでも思っているのか。
――いくら平穏を望んでいても、根底にあるしがらみからは決して逃れられない。人間と魔物はそういう間柄だ。それでも混ざろうとするのは、本能的に支配からの脱却を望んでいるのだ。お前もよく知っているカイトの力は、そんな我々の奥底にある根深い因縁を解決させるきっかけであった。待ち望んでいた力だ。
ずきんと心臓が痛む。とっくに癒えているはずなのに、カイトに刺された喉や体にぬるりと滑り込む刃の感触が蘇る。
「御託を並べるのはもういい。もう一度言ってやる。何を言っても無駄だ、私の決意は揺るがない。転生はもう二度と起こさせない。妄想はお前の頭の中だけで勝手にやっていろ」
天地が逆転し、地上を見上げる違和感はまだ慣れなかったが、見えない鎖で縛られて動けなくなっていた体もスロウのお陰もあって抵抗できるようになってきた。
「こうやって私を捕まえたつもりなんだろうが、お前の姿を晒したのは失敗だったな」
――防衛機構である魔王が人類の進化に歩み寄り、人類もまた魔物を受入れ一つになる。理を超えた先の未来にこそ、希望があるとは思わないのか。
膝を曲げ、右手に力を込める。
――この先も繰り返すのか? それこそ無駄なことだ。人類の歩みは止められない、何度でも立ち上がり、先を目指すだろう。そしてその度、魔王もまた転生を繰り返す。永遠の枷に囚われたままでいいのか。
飛び跳ねる前の状態。凍てつく左手が天井に触れると反転の効力が失われ始め、地上の重力に引かれた髪が垂れる。私は楕円形の渦巻く瞳に狙いを定めた。
――操られるな。抗え。その感情の動きこそ筋書き通りの台本なのだ!
「違う!」
――大局を見ろ、一時の感情に惑わされるな。知ることを恐れるな。この箱の中にいること自体が児戯だとまだ気づかないか!
「児戯? 違う! これは、みんな……いいや、私自身の!」
全身のバネを使い、大地を蹴って渦の中央に向かって飛び込む。
――所詮はただ命令通り動く偽りの王か。器が小さすぎたな。
「――恋の物語だ!!」
力いっぱい腕を振るう。心の中に溜まっていた気持ちを爆発させた。喉が張り裂けるまで声を出しながら、四本の爪痕が空間を引き裂いていく。
中から光が迸り、見える景色の何もかもを真っ白に染め上げ、果てのない空白の世界が広がった瞬間、漆黒の幕が下りた。
――……。
眩暈と耳鳴りが他人事のように感じる。
――――……。
幾重にもブレた同じような背景が一つの景色に戻っていく。
「魔王を討伐したあの日……、神を見つけたのだ。黄金のように光り輝く姿、宇宙のような広く深い眼差し。まさしくこの世界の女神そのものだった。何もかもを超越する美しさがあった」
見た事のない場所にいた。薄暗く、頼りない火鉢のみで照らされた埃っぽい室内。底冷えする空気と暗くて見えない天井。一瞬、魔王城に戻ったのかと思ったが違う。空気があまりにも似すぎていてそう錯覚してしまった。
場所は不明だが、ただ確かなのは、私の爪は玉座に力なく座る白髪の老人の喉元に突き立てたままでぴたりと静止していたことだ。
「触れることは叶わなかった。声を交わすことすらもできなかった。現実に引き戻され、余は選択に迫られた」
軽く人差し指を曲げるだけで、老人の深い皺が刻まれた細首に食い込み、中からじんわりと血が滲んでくる。
「神は人間を愛している。だからこそ、このような試練を与えているのだ。神、あの方へ近づくための。余の力こそ、進化への鍵であった。規格外し……」
生気が感じられない乾いた唇が動き、小刻みに顔を揺らしながら老人は喋る。
「あの一瞬、確かに余を見て微笑んだ。我が子を愛する母性に溢れた瞳で余を抱きしめてくれた。それしか見えなくなった。だがそこに愛を感じた。今まで感じることのなかった本当の『生』という実感を得た」
この今にも魂が抜けていきそうな白髪の老人がグラヴァルド帝国の王。もはやこの男の両目には私すら映っていない。ただ一つのことに執着し、そのためだけにしがみ付いて生きている怨念の権化だ。
「会いたい。……その隣に、立ちたい。抱きしめ、撫で、感じたい!!」
骨と皮だけの両手が私の腕を掴んだ。喉元から引き離そうとする力を感じるがあまりにも弱い。
「何十年、それ以上、焦がれ続けているのだ! わかるだろう、この胸の疼きが、体の渇きが、彼女を求め続けている! 期待に応えなくてはならない」
「共に歩もう。我々が支配する側になるのだ。どんな恋心も、愛情も、欲望も! 自分の意のままにする。愛を与えるのはこちらだ。愛を欲するのは向こうだ。あああっ、あの女神を押し倒し、屈服させてみたい……!! 神はどんな声で泣く? どんな姿で縋りつく!? 余の想いを思うが儘にぶつけてやりたいっ! わかるだろう、お前だってそうだろう!」
汚らしい欲望を吐き出した老人の顔に僅かに血の気が戻る。その姿を見て私は、本当に、心の底から――失望した。
「……そんなもの」
人差し指を引き、老人を断つ。
「恋なんかじゃない」




