15話 絆は蓄積。五感を全て奪うもの。
見送ろうとするアベルを拒否し、私は一人小屋を出た。冷たい風が頬を打つ。自分の体が火照っていたことを嫌でも実感する。
改めて周囲を見回してみると、兵士とハーピーが仲良く休憩していたり、戦闘の訓練をしていたり各々が思い思いの時間を過ごしていた。兵士たちもハーピーも、笑い合って楽しそうに見える。
「やっぴ! クロ様もう帰るの? ハピコたちとの関係認めてくれた? 彼ぴは中にいる?」
空からハピコが降りて来た。脚に大きな麻袋を持っていて、ドサリと地面に落とすとその上に乗り、羽と首を伸ばして「うーーん!」と気持ちよさそうな声を上げる。首元を縛り付けているように見えていた首輪は、ハピコが好みそうなハートマークやらの細かな刺繍が施されていて不覚にも可愛く見えてしまった。
「ああ、認めた。……お前は本当にアベルのことが好きなんだな?」
「うそ、マジ!? 超ハピバなんだけど! てか当たり前じゃん、彼ぴしか勝たん! 他の子たちもみんなそう。彼ぴに尽くすのがうちらのトレンドなんだよね!」
ぷるんと弾ける桃色の唇を震わせながらハピコは見上げる。グラヴァルドの小屋やテントを足のようにして広がる巨大な鳥の巣。今もなお飛び回るハーピーたちが巣作りに勤しんでいる。
「ここで一生添い遂げるために巣も超デカくしてくし、彼ぴが欲しいって言うものは何でもソッコーで持ってくるよ! だって、ハピコたちは彼ぴを幸せにするために生まれてきたんだもん!!」
目を爛々と輝かせてハピコは視線を落とし私を見る。眩しいくらいの笑顔だった。こんな笑顔を見せられては何も言い返すことができない。本当に「大好き」なんだっていう感情が真っすぐな衝撃波になって、思わず目を背けたくなってしまう。
「こちらの情報を流したりはするなよ」
「もち~!」
ああ、なんだか私はめちゃくちゃいやな魔王だな。認めてやりたい気持ちと警戒している気持ちが混ざって、嫌味ったらしい小言しか出てこない。
ぐいとフードを深く被ってハピコに顔を見せないようにする。下を向いたから自然と麻袋が視界に入る。大人の人間一人くらい入っていそうな膨れ方をしている。
「アベルに言われた物資か何かかこれ」
「あはっ、気になっちゃう系? オークの内臓とか、ナーガの尻尾の部分とか!」
「なんだって?」
「ハピコがやったんじゃないよお、ハピコは死骸から拾ってきただけ! 既に死んでるんだし、ハピコが自由にしても問題はないでしょ。ハピコたちは死体を――」
「ハピコ。戻りなさい」
アベルの低い声が私の頭の上を通り越してハピコに注がれる。いる気配はしていたが気づかないフリをしていた。別に振り返ることでもないからな。「はーい!」と元気よく返事をしたハピコは鉤爪で麻袋を掴むと、飛び上がって巣の方へ飛んでいく。
「クロ様。こちらが魔物側の認可証となります。我々人間の誠意と、魔物たちの愛を繋ぐための、いわば『婚姻届』のようなものです。……どうか、その尊き指先で、共存の意思を刻んでいただけませんか」
「だから認めただろ。そんなものは要らん」
「いいえ。クロ様、これは歴史的な瞬間なのです。言葉も我々の絆を深める一歩ですが、こうして人間と魔物の双方が署名にて合意を残すこと。これがなによりの証になるのです。後世にも渡る絆の礎となるのです。どうか、ご署名を――ハピコ、いいえ。ここにいる全てのハーピーと、全ての魔物たちの未来のために」
アベルが取り出した円筒の中から現れたのは、さっきも小屋で見たグラヴァルド帝国特有の波打つ金糸で縁取られた薄く白い羊皮紙。そこには人間と魔物の絆がいかに尊いか、美辞麗句が並んでいて読む気にもならない。
問題なのは、一番下にある署名欄が空白のまま残っていることだった。人間側の署名欄にはアベルの名が書かれている。
『魔王様。一度私にお見せください。人間の言いなりになってはいけません』
いちいちライトが忠告してくる。耳障りだ。私だってそんなもの必要ないと、事実だけでいいと判断し小屋を出てきたのだ。「せめてお見送りを」の言葉も断ち切って。
「……」
私は差し出された羽ペンを握る。書きやすいようにアベルは羊皮紙を広げ、ペン先の下に潜らせた。指先に伝わる羽の感触は、先ほどアベルが汚らわしそうに払ったハピコの羽を思い出させる虹色で、僅かに持つ手が震えた。
――名前を。ここに、私の名前を。
「名前……」
自分の名を思い出そうとして私は止まった。おかしい。私の名前が思い出せない。魔王城の冷たい床で過ごした数十年の間、私はただ『魔王』であり続け、誰も私を個人として呼ばなかった。私は生まれたときから魔王だった。
私の名前は、まおう……??
私はペンを羊皮紙の上に置くと、代わりに親指の先を噛み切った。滲み出る赤い血を、署名欄に力任せに押し付ける。
「私のこの血こそが、何よりも確かな認可の証だ。文句あるまい」
鮮血の紋章がじわり、じわりと広がっていく。麻袋を置いて戻って来るハピコの翼の音がする。ジャラジャラとした派手な金属音。そんな音を鳴らしてたんじゃ、獲物なんか狩れやしないぞと心配になる。
「やったああ! クロ様、ありがとおお! これでハピコ、ガチで公認の『彼ぴの家族』になれたんだね! マジ最高、幸せすぎて飛んじゃうかもーっ!」
マリアンヌといい、ハピコといい、こんな嬉しそうにはしゃぐ姿を見せられたら、こっちまで楽しくなってくる。人間がいるんだ。そんな姿は絶対に見せられないから、足の裏に力を入れて我慢しているが、ハピコを勇気づける励ましの言葉を一つでも掛けてやりたい。
頑張れ、応援してる。何かあったらいつでも呼べと。それに……その、ハピコが抱く気持ち。どこかでもっと話を聞かせてくれないか、とか。
「もう飛んでるだろ……」
七色にデコられた翼を激しく羽ばたかせ、ハピコはアベルの周りをくるくると回る。私はアベルの顔を注視していた。そのハピコの全身で表す歓喜を、どこか冷めた瞳で見つめながら、大切そうに羊皮紙を銀の円筒にしまい懐に収めた。
「本日はありがとうございました。つきましては今後のお話し合いも定期的に催したいと考えております。追って、ハピコよりご連絡差し上げます」
――これで良かった。
あのハピコの笑顔を見ろ。やはり、笑顔には力がある。
私の空気を読まない拒否の言葉で、晴れ間のような顔を曇らせたくない。
「ああ、そうです。魔王様」
「……。まだなにかあるのか」
「ハピコの首輪、取って差し上げましょうか?」
*
ライトの頭を両脚で挟み込みながら、私はグラヴァルドの拠点を後にした。背後を振り返ると、あの禍々しくも巨大な鳥の巣が、針葉樹林の海に沈むように次第に小さくなっていくのが見えた。
『本当によろしかったのですか、魔王様』
ライトが静かに問う。私は答えなかった。あの場で外せと言うのはあまりにも自分が滑稽に思えて言えなかった。外したところできっと何も変わらない。
アベルの言葉。正直、半信半疑ではある。けど、ハピコの言葉には裏がない。心の底から思っている感情をただただ爆発させている。嫌がる素振りもない。操られているようにも見えない。あれは本心だと信じている。
だが、ハーピーは人間を食う。
迂闊に近づけば簡単に鉤爪で引き裂かれ、餌食になってしまうほど獰猛な魔物だ。
そんな魔物の本能をあそこまで捻じ曲げる感情が恋なのか。
マリアンヌが抱いていた気持ちと同じ。
『恋ってこの世界に存在する全てのものに訪れる平等な機会なんです(´,,•ω•,,`)』
もしあの場で私が真実を暴くためだと踏み込んで、首輪を引きちぎって、力づくでアベルに真意を確かめたら?
ハピコは狂乱し、マリアンヌのように壊れてしまうのではないか?
本人がそれを『愛』だと信じ切っている幸福を、私には見えなかっただけでアベルも同じ気持ちでハピコを想っているのなら、外野である私が簡単に絶望に突き落とす権利があるのか。いくら魔王と言えども、そんなことはしたくなかった。
私は怖かった。
マリアンヌの二の舞になることを恐れている。これ以上の関与を避け、あの男の気味の悪い詭弁を飲み込むふりをして逃げ帰ってきたに過ぎない。
「あんな幸せそうな顔、見たことがないな……」
今も二人で見つめ合っているのだろうか。抱きしめたりして、二人だけの時間を大切に過ごしているのだろうか。そんな姿を想像すると、心とは裏腹に胸がドキドキと熱くなってくる。アベルがハピコの頭を撫で、ハピコが柔らかな翼でアベルを包んでいる姿を思い浮かべると、ドキドキが縛られたようにきゅっと苦しくなる。
息を整えようと、大きく息を吐き、鼻で吸い込んだその時だった。
ふわりと、鼻腔の奥に甘い香りが蘇った。
アベルの部屋で出された、あの極上のハーブティーの香りだ。
――待て。
私はピタリと呼吸を止めた。その香りを丹念に思い出すように鼻の奥に入れる。
この匂い。
この胸の奥が妙にざわつき、全てを許してしまいたくなるような感覚に陥りそうになる。つい最近、私はこれと全く同じものを口にしている。
『今お茶を淹れたところで、良かったら一緒にどう? うちで採れたハーブティーなんだ、ほんのり甘くてすっごく美味しいんだよ』
脳裏にフラッシュバックしたのは麦わら帽子を被った男の顔。
私の全てを無力化するような、辺境の村のあののほほんとした空間。
まさか。いや、そんなはずはない。
だが、匂いも、飲んだ後のあのフワフワした感覚も凄く似ている。
アベルの部屋は、あのハーブの香りで充満していた。
私の脳裏で、ある推論がすとんと腑に落ちた。同時に雷に打たれたような衝撃に打たれ、ぎゅっと脚を閉じたらライトの頭に少しだけ亀裂が走った。
「痛いです。魔王様」
潰してしまいそうになるので慌てて力を緩める。代わりに頭を撫でるが直るわけではない。
そんなことよりも。
あれが人間界で流行っているという『テイム』の引き金なのだとしたら?
心臓が早鐘を打っていた。
もし本当にあのハーブが魔物を狂わせる要因なのだとしたら。
私が勇者に抱いていたこの感情も、まさか――




