第 四章 後悔と激励その1
1
篠原紀子は、激しい後悔を今胸に抱いていた。
(私は、なぜ断らなかったのだろう)
神崎修一の“ニヤついた“笑顔を思い浮かべる。
『君が、担当編集者であることと私の家にいる間は、コスプレをすること。それが条件だ』
いやらしい、いやらしいわ)
パソコンに向かって仕事をしていながらも、うっかりすると、“いやらしい“と、パソコンの画面にタイピングするところだった。
彼女の思考は進む。
(セーラー服だけでも恥ずかしいのに、もしかしたら調子に乗って、
「メイド服」なんて言い出しかねない。私は二十七歳なのよ。いくらなんでも無理だわ)
彼女は、自分のメイド服姿を想像した。
十九世紀英国の伝統的メイド姿ならしてみたいなどと思う。
(いけない。同じするにしても、神崎修一のためにするものか)
「篠崎…篠崎!」
紀子は我に返り、振り向く。
編集長、吉村周の渋面があった。
「は、はい!」紀子は立ち上がった。
「どうしたんだ?お前にしてはボーとして、仕事に集中していないな」
「すみません。考え事をしていたから」
「ふん、まあいい。ちよっと編集長室まで来てくれ」
紀子は、編集長について編集長室に入った。
吉村周は、接客用のソファーに座った。手を突き出し、紀子に座るように促した。
紀子が座ると、周は徐ろに話し出した。
「で、どうなんだ、修一は?」
吉村周の癖で、最小の言葉で聞いてくるのだ。
しっかりとした日本語に翻訳する必要がある。
例えば、先ほどの周の言葉を現代日本語に翻訳すれば、
「君に担当してもらっている神崎修一の書き下ろし小説は、進んでいるのか」
と、いうことになるはずだ。
吉村周は、彼自身訥弁ではないはずだ。むしろ雄弁と言えるはずなのに、部下に対しては、極力言葉を省くのだった。
紀子は、こうした上司の癖を見抜き、暗号解読をするように理解するように努力した結果、滞りなくコミニュケーションを取れている。それでも楽ではないが。
「は、はい…」
紀子は迷う。
なんと答えていいのか分からない。
紀子は頭の中で、神崎修一との執筆交渉(コスプレすることを条件とすることが交渉と言えるなら)についてなんと報告しようか迷っていた。
「で、どうなんだ」周は、取調べのようなニュアンスで紀子に迫る。
「じゅ、順調です。神崎先生と、作品の構成を話し合っています」
紀子は、心中で舌を出していた。
周の表情が、柔らかくなった。
「そうか!神崎の奴、やる気になったか。いやぁ、女性の力は偉大だなあ」
紀子は気分を害した。
「編集長、その言葉聞き捨てなりません!私は別に…」
(色仕掛けなどしていません)
と、言いきれないのが悔しい。
セーラー服のコスプレそのものが、色仕掛けではないか。
「誤解するな。早とちりだ。君の誠実な依頼が奴に効いたと言いたいだけだ」
彼女は、羞恥に頬を染めた。
2
(坂を登るにも慣れたわ)紀子は思った。
出版社勤務だけでなく、仕事は、知的労働だけということはなく、最終的には体力勝負なことが多い、
(神崎修一は、いけ好かない奴だけど、コスプレする時に弛んだボディを見せつけないですむわね。いや、違うわ。コスプレそのものがセクハラであり、犯罪なのよ)
紀子は思いなおして神崎修一に対する敵愾心を燃やした。
しかし、神崎修一のコスプレの条件を完全に拒絶する考えはないことに紀子は気づかずにいた。
3
神崎修一の邸宅に、紀子は到着した。
見るともなく、目を花壇に向ける。
植物になど目を向けたこともない紀子だが、神崎修一の屋敷にある花壇は、無視できない何かがあった。
しかし、紀子にはそれが何かを、具体的に口にすることはできなかった。
★
「先生、こんにちわ。来ました」
紀子は、インターホンに向かって言った。
「ああ、入ってくれ」
修一の無愛想な声が返ってきた。
何度見ても息を飲む豪奢な門扉を開けた。
紀子は、時計を見た。
午後三時だった。
晩秋に向かう天候は、にこやかな秋の晴天から不機嫌な曇天に変わりつつあった。
広い玄関で靴を脱いで、リビングを通り書斎に顔を出す。
「参りました、神崎先生」
神崎修一は、途端に嫌な顔をする。
「その”先生”というのは止めてくれ。私は何も偉くなどないんだ」
「知ってますよ。先生が女性編集者に『偏見』をお持ちなようなので、是正して差し上げているのです。何しろ先生は、純粋に業務に取り組む私に、コスプレを強制なさるんですもの。そのことに対する私の細やかなレジスタンスです」
紀子は言ってのけた。




