最終章 温もりのある手
1
映画制作会見から半年の時が経過した。半年という時間は、人間の人生を一変させるのに、時として十分な”時”となることもある。
☆
映画『群狼ー叛旗にそびえ立つ』は、撮影期間四か月、編集に二か月に及び、上映時間は、三時間三十分に及ぶ大作になった。
主演の松本賢央は、歌舞伎役者でもあり、”実績”もあるのだが、それ以上に評判になり、評価が高かったのは、主役の松本賢央の娘役、安寿を演じた相良愛の評価は高かった。愛らしく、時に幼い少女のように可憐でありながら、槍を持ち男勝りに戦うシーンは、スタッフが息を飲むような迫真の演技だった。
誰も、相良愛が、幼いころ両親に虐待され、餓死寸前のところを、叔母に救われ、育てられたということを知るファンはよほどの熱狂的(ストーカー寸前?)なファンでもなければ知ることはなかった。
「私は早く芸能界を引退して、パティシエになるためにパリで修行して、帰国したら、”お母さん”のお店をやりたいんです、いいえやります」
映画の大ヒットによってインタビューされる度に、愛は先の言葉を繰り返した。
その愛の言葉は、健気さとして、観客、視聴者、スタッフに受け止められた。
結果的に、相良愛の元には、出演オファーと共に、シナリオが山と押し寄せる結果になった。
演劇の神は、相良愛になおムチを振おうとしていた。
『群狼』のメガホンを取った日本映画界を代表する巨匠、清川明は、プロデューサーである西邦映画社長取手正之に、
「『群狼』続編出版されているが、当然映画化するんだろう。その時は、また俺にやらせてくれ。あの相良愛という”金の卵”を孵化させたいのでね」
愛のあずかり知らぬところで、こんな会話が成立していた。
2
映画監督清川明が言うように、神崎修一著作で、『続・群狼果てしなき旅路」が出版されていた。
上下巻ハードカバーで、千ページ。この分量の本が書店に並ぶと、書店には、長蛇の列が並んだ。
中学生から社会人までだ。
さらに、光栄書店では、書店店頭に出す時間まで指定した。
「金曜日の午後六時にしてください」と、特別に通達した。
「学生の授業終了時間やサラリーマンの帰宅時間に合わせます」
という理由に、書店は納得し一斉に時間厳守で同じ行動を取った。
中には、申し合わせを守らずに、早々に売り出す書店も散見されたが。
週末のゴールデンタイムに、バラエティ番組を放送していた、番組制作会社は、肩を落とす結果になった。
誰もテレビを付けなかったからである。
こんなハプニングもあった。
史上最年少でしかも女性首相の高瀬真由美は、「『続・群狼』の発売日と発売時間を秘書から知らされると、スケジュール管理の女性秘書に真剣な顔で言ったのである。
「良い、第三次世界大戦が戦起きたというニュース以外は、首相官邸に知らせないでね。首相だって人間なんだから。籠ります」
この一言は、外国人記者クラブに伝えられると、外国人記者は、一斉に、
「I agree」(わかる)と答えたという。
高瀬真由美政権の支持率は五ポイント上がった。
一時下火になった『群狼』ブームが、前回以上の熱を帯びて再燃した。
3
篠原紀子と神崎修一は、世の群狼ブームを困惑の目で見つめていた。
「修一さんって、昔のベストセラー作家ではなくて、現代のベストセラー作家ね」
修一は苦笑する。
「ブームなんて一時的なものだよ。また忘れ去られるよ」
「そうでもないんじゃないかしら。『神崎修一個人全集」全十五巻は、二刷り、三刷りで売れてます。吉村編集長は、鼻高々だわ」
「そうかい。吉村の奴。緑川奈々と交際しているって噂だけど、ほんとかい」
紀子はうなずく。
「前の妻のことを冷静に呼び捨てできるのね」
「なんだやきもちか」修一はにやつく。紀子は素直にうなずいた。
「君こそ、若手の作家に誘惑されないでくれよ」
「あら、修一さんもやきもち焼いてくれるんですね」
「当然だよ。君は若い。ぼくは老いさらばえていく。悲しい事実だ」
「安心してください。神崎修一のパートナーだと若手作家は知っているので、みなさん私のことをまるで女神のようにあがめてくれます。特に女性作家のみなさんは。ぜひ、担当編集者になってくださいと、編集部で頼み込まれました」
「で、君は誰かの担当編集者になったのか」
修一は、興味津々と聞いてくる。
「しかたないので、私が特に見込みがあると思う女子大生作家の編集者になりました。なんでも、あなたの作品を読んで作家になろうと決めた女の子です」
ふ、と修一は笑みをこぼす。
「昔の自分を思い出したんだろう」
紀子ははっとした顔になったが、間を置いてうなずいた。
3
相良愛は、困惑していた。女優としての自分の評価がうなぎ上りになるのを、ほとんど他人事のように見ている自分がいた。
愛が所属している事務所の社長もどうするべきか悩んでいた。
愛の希望が、芸能界を引退し、自分を育ててくれた叔母の店を手伝うというのが、愛の希望なのだ。事務所としては、もちろん女優を続けてほしいが、事務所の女社長は、悩んでいた。
「映画も大成功だったし、愛。あなた少し休養をとりなさい」
社長は言った。
「いいのですか」愛は、弱弱しく答えた。
「日本アカデミーの新人賞まで取ったんだもの。うちみたいな弱小プロダクションなんか辞めて、どこか大手のプロダクションに移るのが当たり前なのに、愛はそんなこと一言も言わないのね」
愛は微笑んだ。
「叔母の店を大きくしたい。そんな気持ちでこの事務所にお世話になりました。だからアルバイトみたいな気分だったんです」
「芸能界を甘く見るな!と叱りたいところだけど、愛は、ギャラのほとんどをおばさんに送ってたのね」
愛はうなずいた。
「私は実の親に虐待されていたんです。それを救ってくれたのが母の姉の叔母、小林綾子さんでした。叔母さんが応募していなかったら、私は芸能界に入ったりしません。叔母さんが望むことをしていこうと思いました。だからタレントになったんです」
女社長はうなずいた。
「すばらしい心持だけれど、あなたも二十歳を過ぎたんだから、自分の人生は自分で築いていかないとね。そんなあなたに私からのプレゼントよ」
女社長は、二冊の分厚いハード・カバーの本を渡した。
『群狼』の続篇だった。
「まだ映画になるのは一年ぐらい先だから、じっくり読みなさい」
「社、社長」
相良愛は、悲鳴に近い声を出した。
「ただで読めとは言わないわ。その映画が完成して、主演を務めて、映画がヒットしたら、フランスでパティシエになる留学費用は、私が出すわ。どう」
相良愛の瞳に闘志が湧いた。
4
神崎修一は、繁華街というものが、大の苦手だ。どこからこんなに人が湧いて出るのかわからない。
「すごい人ごみだな」修一は、サングラスの奥の目を閉じたくなった。
「みんな『群狼』を観に行くんですよ。あなたの小説の映画を」
篠原紀子が明るく言う。彼女も今日はひときわおしゃれしていた。
「映画『群狼』」の完成披露試写会の日だった。
つまり、映画評論家やスタッフや俳優陣だけが集まる試写会だった。
主演の松本賢央、相良愛等関係者が、神崎修一と篠原紀子に挨拶していく。
紀子はその一人一人に丁寧に礼を返していった。
☆
試写会が始まった。
修一は、映画の画面を食い入るように見ていった。
その時彼の脳裏に、時代の変化を拒否し、進歩を諦めていた、三年前の自分の姿が浮かんだ。
(あのころの俺は、昔の栄光ばかり懐かしんでいた。ノートパソコンの画面、それも真っ暗な画面をただ無気力に眺めていたな)
修一は、映画の画面と篠原紀子を交互に見つめていた。
(…紀子が、紀子がいてくれなかったら、今の俺はいない。
篠原紀子が、いやいやながらコスプレをしてくれて。真っ赤になりながら、ロッキングチェアーに座っている。その光景を俺は心から楽しんでいた。紀子をもっと見ていたいと思うようになった。あの時間のなんと貴重なことか。お、俺は幸せな男だ)
修一は、紀子の手を握った。紀子がびくっと肩を震わせて修一を見る。
しかし、何も言わず手を握り返すだけだ。
「紀子ありがとう。君がいなかったら今の俺はいない。なんといっていいのか」
「何も言わないで。何も言わなくていいのです。私の人生を導いてくれたのは、あなたですもの。あなたの書く小説が好きで、あなたみたいな作家になりたいと私は思った。作家にはなれなかったけれど、編集者としてあなたのそばにいることができて、そして今はあなたのパートナーになれているの。私、どんなに幸せか…」
紀子は再び修一の手を握りしめた。
紀子の手は、暖かなぬくもりのある手だった。




