第二十三章 作家と映画2 夫唱婦随ー紀子と修一2
1
光栄書店の社長中島隆の秘書である中野良子は、社長室に呼ばれた。
社長室に行くと、隆が難しい顔をしていた。
「お呼びでしょうか」良子はいくぶん訝りながら伺う。
良子の隆の印象は、「笑顔」だった。ただし、それは馬鹿の薄ら笑いでは当然違う。
謙虚さとその背後に滲む自信という土台に支えられた笑顔だ。良子は、隆のその笑顔をダイヤの指輪以上に愛していた。しかし、今の隆の笑顔は、それではなかった。
「社長、どこか具合が悪いのですか?」
隆は、弱弱しい笑顔を社長秘書に向けて言う。
「いや、そんなことはないが、自分の愚行をまざまざと見せつけられるような気分でね。今、君の目に映る私の笑顔は、今までにないほどに弱い笑顔だろう」
良子は、なんと答えて良いかわからなかった。遠慮なく言えば隆の言う通りなのだ。しかしそれをこの場で、秘書である自分が、指摘していいのかは、何光年の差があるのだ。良子には”ワープ”する勇気はなかった。ただ黙って微笑むしか良子にはできない。
隆は持ち前の洞察力で、良子の心理を言い当てる。
「”秘書である自分が指摘していいのかどうかわからない”と言いたいのだろう。構わんよ、言ってくれて。その通りなんだから」
「社長、何か悪い知らせがあったのですか、では私にだけでもおっしゃってください。(ベッドの上で語り合った仲じゃないですか)
と、良子は胸の内で付け加えた。
「うん、今、西邦映画の社長から電話があってね。明後日の大安の日に、『群狼』の映画製作発表会があるということだ。そして、これもまた特例に当たることだが、準主役の女優の相良愛の要望で、原作者の神崎修一と担当編集者の篠原紀子さんにも出席してほしいとのことだ。
わかるだろう?君。ぼくは光栄書店の宝になりえる人材を、ただ目先の金のために、作家を書かせるための”餌”のような扱いをしたんだ。無能な男だよ、ぼくは」
良子は、隆の自虐の言葉を聞いて、別れを意識し始めた。
(帰ったら転職サイト見よう)
良子は冷静に冷酷に計算を始めた。
2
良子は、社長命令で、『群狼』の映画製作記者会見の件と紀子にも出席するようにとの社長命令を伝えた。やや投げやりに。
「わ、私もですか?修一さんだけじゃなくて」
「ええ、なんでも女優の相良愛さんのたってのお願いらしいですよ」
良子の言葉は、空しく空虚に彼女の口から流れる。
「わ、わかりました。修一さんに伝えます。でも彼ってそういう場所苦手にしてるんですよね」
紀子の笑顔が輝くのが良子にはわかった。
「それでは、お伝えしましたので。忘れないでください」
良子の言葉は、密度のない空虚な響きを持っていた。いや、いくぶん嫉妬と憎悪を滲ませていたかもしれない。
良子は、堅く心に「転職」を決意した。
3
「修一さん、来週の日曜日、『群狼』の映画製作記者会見です。原作者として、修一さんと編集者として私も出席することになりましたから」
紀子は、できるだけさりげなく伝えた…つもりだった。
いつものように、夜の八時の夕食時間のことだった。
「なんだって、もう一度言ってくれ」
紀子は修一の顔を怖いものを見るような目で見た。
その顔は、深い皺が刻まれ、苦悩する哲学者のような顔だ。
「だから、修一さんの傑作『群狼』が映画化するので、原作者として出席することになりました」
「遠慮できる雰囲気ではないようだな」
「冷たい人ですね。あなたは私に『神崎修一はこのような晴れやかな場所に出るのを嫌がっております。ご容赦願います』なんてことを言わせるつもりなんですね」
「君はぼくか!僕の言おうとしたことを先に言わないでくれ」
「この二年の間、あなたをじっと見てきた私です。それぐらいのことはお見通しです。それに、ベーカリーショップの小林綾子さんの娘さんからのたってのお願いなんですから」
「む、そうだったな。相良愛は、綾子さんの義理の娘だったな」
紀子は即座に否定した。
「女優相良愛こと本名小林真由美さんは、綾子さんの本当の娘さんです。ちょっと生まれるところを間違えただけです」
紀子の声は、少し涙ぐんでいた。




