第二十三章 作家と映画2 夫唱婦随ー紀子と修一1
1
篠原紀子が光栄書店に復職してから、一か月が経った。ただ復職したのではない、紀子は副編集長なのだった。責任は重くなった。給料は上がったが…。
主婦でもあるーまだ修一と籍を入れてはいないがー彼女にとっては重要な変化だった。
(なにこれ?以前と変わらないじゃない)
以前彼女が書籍編集部の編集部員だった時、彼女の部内での仕事は、編集部員の連絡の確認役、作家宅へ訪問する時間の確認。編集部内での細々とした連絡の確認役。部員同士の些細な諍いの仲裁役だった。
「はいはい。わかるわよ、田中君。でも、君は後輩なんだから、秋田さんの言うことも聞かなきゃならないのよ。秋田さんももう少し余裕を持ってゆっくり話しなさい」
などである。
紀子は、ある月曜日の朝、週に一度ある編集会議の朝、編集長、吉村周を含む、書籍編集部全員に言った。
「私は別に副編集長になったことをことさらに主張したいわけではありません。でも、部員の連絡の確認を私に求めないでください。各人、メモ帳とペンを持ち歩くなどをして、連絡の徹底は自己責任でしてください。もしどうしてもと言うならば、事前に、私に言ってくれれば責任を持ちます。
これは吉村編集長を含んでですので、お願いします」
と、毅然と言い渡した。
書籍編集部の会議室は、水を打ったように静かになった。
☆
紀子は今年二十九歳になる。三十路目前ではあるが、すでに紀子には実年齢以上の経験と風格が備わっていたのである。
経験=実績とするならば、紀子は光栄書店に莫大な利益をもたらしていたからである。
神崎修一著『群狼』は、発売から一年余りで百万部を超え、ミリオンセラーになり、近頃では、ロングセラーへと呼称は変わっただけで、売れ続けていた。
さらに、光栄書店が発行している女性誌に、『群狼』の続篇『続・群狼ー叛旗を仰ぎて』が連載されるに至って、『群狼』ブームは頂点に達した。
一応女性月刊誌なのだが、発売日には、サラリーマンの老若男女問わず、書店・駅のキオスクに並ぶという現象まで起こっていた。
『群狼』では、戦国時代地方の小豪族の長が、非情な領主に反抗し、最後には斃れるというストーリーだった。
続編では、ヒロインである長の娘が、父の遺志をついで男勝りに戦い続けるというストーリーに、OL、主婦、女子大生、果ては中高生女子まで、買っていく。男性サラリーマンも、表紙がきらびやかな衣装を着てほほ笑む女優なのに、恥ずかしがるそぶりも見せず、千円近い金を払って買って帰るのだ。
「おい、いい年したおっさんが、そんな雑誌買って帰るなんて恥ずかしくないのか」
と、『群狼』を知らない同僚から揶揄されるが、逆に揶揄されたサラリーマンが憐れむように同僚を見て、言い放つ。
「お前、『群狼』を読んでいないんだな。悪いがお前との付き合いは今日までにしてくれ」
と、絶交を言い渡すということもある。
または、中年サラリーマンが同じシチュエーションだった場合、次のような会話もあった。
「はは、毎月これを買ってこないと、妻から”離婚する”って言われるんだ。俺は女房に惚れているんでね」
と、言い捨てて帰っていくというシーンもあった。
まさに、『群狼』は一大ブームとなっていた。
2
松本幸太郎は、今年還暦を迎えた。歴史小説を主に執筆している。神崎修一より十歳も年長だが、作家としてデビューしたのが重なるので、同期ということになる。
歴史小説を書いているためかとは思わないが、還暦になったばかりなのに、髪がほとんど白くなっていた。しかし、笑顔は若く、編集者の年齢が若くても、横柄な態度は取らない。しかし、礼儀には厳しく、口うるさい。
ある月曜日の午後、紀子は原稿を受け取りに、幸太郎の自宅に来ていた。
「いやあ、あなたがあの神崎修一という峻険な城を攻略したということを聞いたときは、思わず普段止めている酒を一杯飲みましたよ」
幸太郎は笑った。
「ひどいですわ、先生」紀子は苦笑交じりに答えるしかなかった。
「いや、冗談はともかくめでたい。修一は冷たいようでいて、人に優しすぎる男だからね」
紀子は黙ってうなずいた。
「私も『群狼』を読んだよ。歴史小説作家の看板を掲げている自分が、恥ずかしくなるほどのすばらしい小説だ。読んで私も闘志が湧いたよ。私の小説も光栄書店で出してもらえるようにがんばるよ」
「ありがとうございます。書き上げられましたら、ぜひわが光栄書店で出版させてください」頭を下げる紀子。
幸太郎は、笑った。
光栄書店にあった紀子に対する嫉妬や誤解、非難は影を潜めた。
神崎修一を時代遅れの作家と考え、振り向きもしなかった他の出版社は、”作家の掘り起こし”を始めたと噂を聞いたとき、紀子は笑いたくなった。
(修一さんは、修一さんしかいないわ。第二、第三の神崎修一なんかいないわよ)
と、神崎邸の扉をくぐり花壇に目をやりながら紀子は叫びたいほどだった。
「ただいま戻りました」
「おう、お帰り」
紀子と修一にとって、この一日の終わりの短い言葉のやり取りが、互いの存在と自分自身の幸福を実感させているのだ。
3
夜の八時。二人の遅い夕食が始まる。
紀子も努力の甲斐あって、料理の腕を上げていた。
ただ、その腕前を披露するのは、主に週末だったが。
紀子も副編集長として、今日の松本幸太郎のように、他の作家に執筆を依頼して回らないといけないのだ。
紀子は、冷凍食品を人類最高の発明品だと真剣に思った。
なにしろ、レンジで数分でおいしく食べられるのだから。だが、なにより紀子が嬉しいのは、修一が冷凍食品であっても、自分の拙い料理であっても、文句ひとつ言わず食べてくれるのが一番嬉しかった。
「ごめんなさい。松本幸太郎先生の後、もう一人回っていたら遅くなってしまって」
「当然だろう。紀子は疲れ出てないか」
修一は不安げに囁くように言う。
「わ、私は大丈夫です。いく先々で、私は奇跡の女のように扱ってくれますので」
「”奇跡の女”どういう意味だ」
修一の表情は、不安に曇っていた。
紀子は唇に笑みを浮かべて言う。
「”難攻不落の変人作家を普通の男にさせた”からだそうです」
紀子は修一が不満を漏らすのではないかと首を竦めたが、意外にも修一は機嫌よく笑って言った。
「ふーん。正確な論評だな。たしかに君には不思議な魅力があるよ」
修一は、冷凍食品のチャーハンを上品にスプーンで掬いながら言った。
「え、嬉しいこと言ってくれるのですね。どんな魅力があるんです?」
「この女性を守っていく責任は、重くはないが甘くはない。なぜなら、失敗に目をつぶる忍耐力が鍛えられる」
紀子の目の輝きは、明るい色彩から暗く妖しい色彩へと変わった。
「修一さんがおっしゃりたいのは、私はまだまだ未熟な女だということなんでしょう」
修一の表情が明るく優しいものになる。
「ご明察だ。しかし、紀子は優秀な女でありかわいい女だよ」
「二つの貌を持てと言う意味でしょう。つまり、会社では優秀な女であれ、しかし、おれの前ではかわいい女であれというんでしょう」
「紀子は会話の天才だな。君の理解力は最高だよ」
「私からのお願いを聞いてくれたら努力しますわ」
「なんだお願いって」
「『群狼』の続篇ですけど、毎月原稿用紙三十枚だと、読者が不満という投書が来ているそうです、だから、来月から四十枚にしてほしいと、雑誌編集部からお願いされました」
「読者は二つの貌を持つんだ」
「どんな貌です?」紀子は修一が何と答えるか想像できているが、敢えて質問した。
「決まってるだろう。本を買ってくれる天使の貌と無慈悲な要求をしてくる悪魔の貌だよ」
紀子は腹を抱えて笑った。
紀子にとって、充実した幸せに満ちた一日が終わった。




