第二十二章 復職 2(後編)
1
中島隆は、紀子の前に歩み寄ると、まるで新入社員であるかのように、頭を下げたのである。中島隆が社長であるなしに関わらず。紀子よりも二十年近く年上の中年男性が、頭を下げたのである。
さらに、隆は驚くべきことを言った。
「篠原君、篠原さんと言わせていただくが、君を契約社員に格下げし、神崎修一氏の傍に置くなどという姑息な手段を取って申し訳なかった。言い訳など言えるものではないが、あの時は、光栄社の利益ばかりを考えてしまい、兄にもこっぴどく叱られた」
「社長!」紀子は戸惑いを隠せず、動揺が表情に浮かぶ。
「本来、作家が主で、出版社は依頼すべき立場だ。『群狼』がベストセラーになり、販売部数の多さに目が眩んだ。他の作家さんたちからも、不平のお言葉をいただいたよ。
「『一女性編集部員を一作家の専属にするなんて、何を考えているんだ。”女をあてがう”ような出版社には小説は書かない!』と、女流作家からお叱りの電話をいただいたんだ。白状するが、そんな気はなかった。しかし、結果として、君をモノ扱いにしたことは確かだ。申し訳ない」
隆の長い謝罪が終わった。
「ありがとうございます。私のような一社員にそこまで言っていただけるなんて。なんといっていいかわかりません」
紀子の本心だった。同時に神崎修一の洞察力に舌を巻く想いだった。
パーフェクトとにというわけではないが、修一の予言通りになっていた。
(私は、もしかしたらとんでもない男をパートナーに選んだんじゃないかしら。だとしたら、修一さんと出会わせてくれた編集長と神様を拝まないといけないわ)
中島隆の言葉は、まだ終わらなかった。
「実は、君は一正社員ではないんだ。肩書がついたんだ」
「あの、肩書と申しますと…」
「篠原紀子さん。あなたを今日から、光栄社書籍編集部副編集長に任命します」
中島隆の言葉は、朗らかだった。
紀子の喉と口の中で、言葉にならない言葉が渦巻いた。
(社長、無理です。副編集長だなんて無理です)
渦巻く言葉は、ついに紀子の口から発せられることはなかった。
2
時は少しさかのぼる。
吉村周と中島隆は、あの夜二人そろって隆の兄が経営する居酒屋へ向かっていた。
「実は、篠原紀子君の件を兄に報告したら、鼓膜が破れるんじゃないかと思えるほど叱られましてね。電話で報告したんですが、『電話じゃわからん、店を閉めているから、会って話をしろ』と、言われたんです」
隆は、悔やむように言った。
「なるほど、さすがおやじさんだ。物の道理がわかっている」
周は納得したようにうなずく。
「困るなあ。編集長には、ぼくの弁護をお願いしたいのですがね」
隆の顔は、困惑を深くしていく。
「弁護料は高いですよ」
周は囁く。
隆は「わかっています」」というようにうなずいただけで言葉にはしなかった。
☆
保のバーは、開店以来、定休日の月末最終週の週末以外で初めて、店を閉めていた。
保は、苦虫をかみつぶしたような顔を浮かべて、弟の話を聞いていた。
「いつも仙人のような顔をして、金のことなどどこ吹く風のお前だったが、さすがに社長ともなると、利益にうるさくなったか」
「兄さん、人を金の亡者みたいに言わないでください。社長として、良かれと思ってしたんですよ」
「『群狼』がヒットしたおかげでじゃないか。篠原さんの編集力と修一君の文章力のおかげじゃないか。それをまるで人身御供のように、契約社員にして、女をあてがうみたいな扱いをしたんだ」
「A女史と同じことをいうのですね、兄さんは」隆は恥じ入りながらも拗ねるような言い方をする。
「ま、今さら悔いてもしかたない。篠原君に頼み込んで復職してもらうんだな」
「そのつもりです」隆は神妙に言った。
「篠原紀子君は、今修一と同棲していますよ」
周は自分の喜びごとのように言う。
保は、隆に目をやり、
「お前はミスを犯したかもしれないが、完全なタイムリー・エラーだったわけではなかったんだ。少なくともお前の判断で、結果的に一人の女性編集者と一人の男性作家が幸せになろうとするきっかけを与えたことになったんだから」
保は静かに言った。
その夜、紀子は、書籍編集部の副編集長に就任したことを修一に報告した。
「そうか」修一は静かにそういってほほ笑んだ。
紀子は、修一のそうした静けさを熟知したので、何とも思わなかった。
ただ、一言だけ付け加えずには気が済まなかった。
「修一さんが、予言したとおりになったのには驚いたわ。あなたまさか予知能力があるだなんて言わないでくださいね。気味が悪いわ。でも、そんな修一さんを私はますます尊敬しました」
「世の流れ、人の気持ちは、ある一定のベクトルがあるんだよ。完全にというわけじゃないが、七割ほどは一定のベクトルに向くもんだ」
「はいはい。なんだか私できの悪い学生のような気分だわ。先生、私は副編集長になって忙しくなります。これ以上”宿題”出さないでくださいね」
紀子はふくれっ面で答えた。




