第三章 花壇 その1
1
篠崎紀子は、金曜の夕方大型スーパーに寄っていた。週末は、スーパーで食料品の安売りをしているのだ。といっても、数年前に比較すれば、コメも野菜も高くなっているのだが…。
しかし、今の紀子には物価高も何もなかった。
今、彼女の頭にあるのは仕事のことだった。プロの編集者として、いかにして神崎修一に書下ろし小説を書かせるかあるいは書いてもらうかだった。
☆
吉村周と篠崎紀子が、神崎修一に連載依頼に行ったその日に、修一と紀子は、全面的ではないにしても、けんかになってしまった。
なぜならば、周にしろ、紀子にしろ編集者として、執筆依頼に行きながら、作家の気分を害したことは、担当者として、紀子を指名した周にしてももちろん紀子にしても、プロ意識を問われた行動であった。
帰途、紀子は周に謝罪した。
「編集長、すみませんでした。私、編集者として失格ですね」
「なあに、篠崎は知らないのは当たり前だが、神崎修一は、たぶんに露悪的な振る舞いをするんだ。大学時代から成長しない奴だ」
「露悪的?」紀子は首を傾げる。
「ワルぶって見せるんだ。そのくせ中身は、純粋過ぎるほど純粋な奴なんだよ。俺も奴とは数えきれないほど口論したし、互いの襟を掴みあい寸前までいったことがある。もう、こんな男とは付き合いきれん。と、思うのだがなぜか何日かすると会いたくなる。そんな男なんだ」
紀子は苦笑する。「いわゆる”腐れ縁”ですか」
「違うな。”すばらしい縁”だよ。だから俺は神崎修一を見捨てはしない。篠崎も奴の小説を本気で読んでみてくれ」
(男の友情か。なんだか羨ましいな)
紀子は感動に近いものを心に感じた。
「わかりました。もう少し神崎修一について研究してみます。とりあえず、小説を読んでみます」
と、彼女は言った。
それからの数週間、紀子は出社すると、資料室から神崎修一の単行本から文庫までを取り出して読み漁った。
周は、紀子の行動を他の編集部部員に説明した。
神崎修一の編集者泣かせは、出版界ではつとに有名なので、他の誰も、「じゃあぼくが、私が代わりにやります」と名乗り出る者はいなかった。
神崎修一は、もはや過去の作家であり、現代のような出版不況が叫ばれ、小説といってもいわゆる「ラノベ」が、大勢を占める中で、”時代遅れ”のレッテルを貼られようとしていた。
しかし、紀子は神崎修一の小説を丹念に読み進めるのだった。
2
高校生の頃、彼女が小説家を夢見て、大学ノートに書き写したセンテンスがあった。
そのセンスあふれる言葉の表現は、確かに”今”ではない。かといって過去でもない。
強いて言うなら、今の作家には「書けない」滋味があるのだ。
(これだわ。これなのよ)
登場人物への優しいまなざしが、小説全体にある。
紀子にはたまらない感覚だった。
しかし反面、現代の「時短」が求められる風潮とは、明らかに逆行するのだ。
書店に神崎修一の小説が並ばなくなったその理由も紀子は理解した。
でも、だからこそ神崎修一の小説を世に問う価値は十分にある。
紀子は、光栄出版の資料室の机を叩いて叫びたい気分だった。
「おい、篠原。いい加減に出てこい。本当に『本の蟲』になったのか」
編集長、吉村周の不安げな声が、資料室に響いた。
☆
修一はくしゃみをした。
「花粉症かな。今は夏の終わり。ありえない話だ。いや待てよ。最近は、花粉症も年中という話も聞いたことがある。それとも周とあの”女の子”が噂しているのかな」
と、独りごとを呟きながら花壇に水を遣っていた。
修一の元を去った妻が大事にしていた花壇だった。




