第二十二章 「復職」1
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周はまた視線を向けた。今日で三度目だ。若い女性社員に向けて視線を送れば、コンプライアンス規制厳しい昨今、周は職を失うことになる。
幸いなことに視線を向けた座席には、人はいなかった。
周が視線を向けた座席は、篠原紀子の座席だった。あたかも長期欠席の学生・生徒の座席のように、他の誰も座ろうとはしない。
空席であるにも関わらず、その座席は、光栄書店書籍編集部の編集部員にとって、一種の複雑な存在感を無言で訴えていた。
例えるなら、プロ野球選手の永久欠番のように…。
☆
その日、吉村周はその日の業務を終え、エレベーターで一階に降りた。
退勤のカード打刻を確認して、外に出ようとした時、呼び止められた。
「吉村さん」
周が声のする方に視線を向けると、社長の中島隆が、別のエレベーターから降りてきたところだった。
「あ、社長。何か御用でしょうか」
周は、社長に作り笑いを浮かべた顔を向ける。なぜなら、社長である中島隆が、篠原紀子を正社員から契約社員へと降格させたからだ。
紀子が編集部内から消えた直後は、周も編集部の部員も、篠原紀子は、神崎修一のお気に入りであり、紀子が傍に居れば、神崎修一はまたベストセラーを書いてくれるはずだ。光栄社に金が入り、結果的に自分たちの給料に跳ね返ってくると思っていた。
ところが、編集部内での些細な連絡の食い違いが起こり、部内で解決したが、そういう小さなアクシデントが、頻繁に起こるようになっていたのである。
曰く。
「篠原さんなら、こんなミスはしなかったよ」と、若手の男性社員が一言何気なく言っただけで、言われた女子社員は、
「私は篠原先輩ではありません。そんなに先輩がいいのなら、今から電話して聞けばいいじゃないですか」と、ヒステリーを起こして泣きじゃくるということがあった。
篠原紀子が部署にいたころは、こんな部員同士のいざこざなど起こらなかった。少なくとも周の記憶にはなかった。しかし、ほんとのところは、篠原紀子が丸く収めていてくれただけかもしれないと周は近頃思うようになっていた。
そう考えていくと、篠原紀子を神崎修一の監視役のように押し付けて、修一がよそのライバルの出版社から本を出させないようにさせる手法は、ひどい話だ。
篠原紀子は、神崎修一と同棲しているらしい。送られてきたはがきに書いてあった。
紀子が修一に好意を寄せている様子を見抜いていた周は、そのはがきを見て、何か救われたような気持ちになれた。
(よかったな、篠原)と、吉村周は心で祝った。
しかし、篠原紀子の不在は、周の予想をはるかに越えて、光栄書店に、書籍編集部に影響をもたらしていたのだ。今では、社長である隆に一言いいたい気分の周だったが、一部署の部長でしかない自分が、社長に意見できるわけがない。
中島隆は、いつもの柔和な表情を浮かべてはいたが、眉間に皺が寄っていた。
「ちょうどいいところで会った。今から付き合っていただけますか」
隆は小声で早口に言った。周は社長へのわだかまりから断ろうと思ったが、
人の心理を見抜くのに敏感な隆は、先回りして言った。
「篠原紀子君を契約社員に降格させた件で、ぼくのことを怒っているのですね。正直に言います。あれはぼくの判断ミスでした。その件で、今からアニキと話をする予定なんです。だからお願いです。社長命令なんて口が裂けても言えませんが、一緒に来てくれませんか」
周は隆をじっと凝視した。隆は、周の視線を逸らさずに受け止める。
周は笑った。
「フ、いいでしょう。社長あんたは抜けているところがあるが、基本良い人間なんですな」
周の言葉には、隆の社内での地位を無視した言いぐさだった。
「”抜けているところがある”ですか。きついお叱りだ。以後肝に銘じます」
隆は、感情を激しくするところなく答えた。
二人の男は、歩調を合わせて自動ドアを抜け、階段を降りていった。
夜の街にまるで灯台であるかのように煌々と照らされたデジタル数字が、22時を告げていた。
同時刻、神崎邸で修一と紀子はリラックスした気分でコーヒーを味わっていた。
修一は執筆用ではないデスクで。紀子はロッキングチェアーに揺られながら。
「紀子が光栄書店で働きたいなら、私は止めはしないよ」修一は、コーヒーを一口飲んでから言った。
「嬉しいお言葉ですけれど、修一さんとこうしてのんびりコーヒーを飲める時間には代えられませんわ」
「以前の形に戻るのは嫌かな?」
「嫌ではありませんけれど、私はこうしてあなたの顔をゆっくり見ているとき幸せなんです」
「嬉しいお言葉をもらって恐縮だが、そろそろ光栄書店から電話が来そうな気がするんだ」修一は確信があるかのように言った。
「どうしてそんないやなことおっしゃるの?」紀子の顔が不機嫌に曇る。
「君が優秀な編集者だからさ。いいかい、作家はぼくの他にもごまんといるんだよ。光栄書店に原稿をおろしている他の作家は、君が私専用の編集者であることを納得するはずがない。邪な気持ちはないだろうが、作家にとって、優秀な編集者は、自分の右腕のようなものだ。『群狼』がベストセラーになったのだから、自分の作品も光栄書店から出版すれば、ベストセラーになるかもしれないと考えない作家は少ないと思うよ」
「おだてても…」紀子の言葉を遮るように、修一の公用のスマホが鳴った。
二人は驚いた。紀子は震える手でスマホを耳に当てた。
「はい、神埼でございます」
「ああ、篠原か。修一はいるんだろう。電話に出してくれ」
紀子は鬼のような顔で、スマホを修一に渡した。
修一は、スマホを受け取った。
☆
一週間後の月曜日。篠原紀子は光栄書店の自動ドアを正社員として通っていた。




