第二十一章 時の経過ー相良愛と篠原紀子 2
1
相良愛は、サングラスをかけていた。ヘアースタイルもいつものセミロングではなく、髪を後ろでくくっていた。愛なりの変装である。
綾子は苦笑を浮かべながら、言葉を紡ぐ。
「ご近所なのに、それにお互い顔見知りなのに変装する必要があるの?」
愛は、サングラスをかけたまま最愛の叔母に振り向く。
「ご近所だからよ。手前味噌になるけど、『美少女探偵佐久間綾』もヒットしたから私の顔は”割れてる”の」
と、まるでスパイ映画のセリフのようなことを言う。
「はいはい。じゃああなたに助け舟を出すわ。神崎邸に今から相良愛が行きますのでって電話したげるわ」
「ほんと、叔母さん。恩にきるわ」
愛は、サングラスを外して笑顔を見せた。
綾子は神崎邸に電話した。用件を伝えると、
「どうぞ、いらしてください。神崎さん、取材で明日の午後まで帰ってきませんので、愛さんとじっくり話できますわ」
紀子の快活な言葉が返ってきた。
綾子はスマホを愛に向けて、紀子の言葉をじかに聞かせた。
「ですって。安心していってらっしゃい」
「ありがとう、おばさん」
しかし、愛は変装したままベーカリーショップをでた。
「もう、顔に似合わず頑固なんだから」
綾子はため息をついた。
☆
インターホンが鳴る。紀子が画面をのぞき込むように見ると、一瞬、サングラスを掛けた女が見えたが、すぐに外されて、相良愛の顔があった。
「すみません。小林愛です」と、愛は本名を名乗った。
「いらっしゃい。今開けます」
紀子は小走りに玄関に向かい。卓球台が置けるような広い玄関に下りて、ドアを開けた。
緊張した表情の愛が立っていた。
2
紀子は、このごろすっかりコーヒーの淹れ方に自信を深めていた。
修一の好みは好みとして、客に(めったにこないが)出しても恥ずかしくないと自画自賛するほどに腕を上げていた。
紀子と愛は、リビングのソファーに向かい合って座った。
「すみません。神崎先生のお留守の間に来るなんて」
愛は、恐縮した態度を浮かべて言う。
「いいえ、お気になさらないで。修一さんが取材旅行でいないので、退屈していたの」
紀子は、屈託のない笑顔で言う。
愛は、その笑顔を羨望の視線で見つめながら言う。
「お幸せそうですね」
「ええ。否定はしませんけどなんだか想像していたのと違っていて」
「結婚生活がですか?」愛は、紀子の淹れたコーヒーの味に驚きながら言った。
「あ、愛さんのお口に合いませんでしたか?」
「いいえ、とっても美味しくて。失礼ですけれど、紀子さんはお料理上手なんですね」
紀子は強く手と首を振った。
「とんでもない。未だに料理は苦手です」
「でも、コーヒーは、とてもおいしいわ」愛が言う。
「コーヒーは、修一さんが好きなので、修行したのです。本をわざわざ買ってきてまで」
「すごいなあ。主婦の鑑ですね、紀子さんは」
愛は感心したように呟き、紀子に尊敬の視線を送る。
紀子は気まずくなって、いったんソファを立って、割れた陶器を持ってきた。
「”主婦の鑑”は、こんなことしません。もったいないので捨てるに捨てきれずに置いてあるのです。自慢するわけではありませんが、高価な陶磁器だったので。それと正確には、私と修一さんは籍を入れていませんので”同棲”です。最も一緒にいる形に私はこだわってはいませんわ」
紀子と愛は顔を見合わせて笑った。
☆
「…実は、今度『群狼』の映画に、主人公の娘役で出演することに決まったんです。安寿役です」
愛の声のトーンが二段階ほど低くなった。
「まあ、安寿役ですか。ヒロインですね。噂で知ってました。何か困ったことがありますの?」
愛はうなずく。
「私もプロの女優としてこの役に全力投球なんですが、そ、その恥を忍んで言いますが、シナリオのセリフが、漢字が多くて、そのまさに漢字だらけなので、今一つニュアンスが掴めないのです。教えてください。紀子さんは神崎先生の担当編集者だったからわかるでしょう」
愛は体を小さくし、顔を赤くしていた。紀子は愛に同情した。
「愛さん、シナリオを持っていますか」
紀子の言葉は静かで誠実な響きだった。
愛はトートバッグから台本を取り出した。
「図々しくも持ってきています」
愛は真剣な目で言った。
紀子はうなずくと、
「では、次はおばさまに電話して。『今夜は神崎先生のお宅に泊まる』と言って許可をもらってください」
愛は素直に紀子にしたがう。
愛は、神崎邸に泊まる理由を綾子に報告した。
「わかったわ。紀子さんに代わってもらって」と綾子は言った。
「はい、もしもし。お電話変わりました。紀子です」
「うちの”娘”がわがままを言って申し訳ありません。でもどうか教えてやってください」
愛は叔母が自分のことを”うちの娘”と言ってくれたことが、胸に響くほど嬉しかった。
「わかりました。では今夜一晩お嬢さんをお借りしますわ」
紀子は言った。
その日一日、愛と紀子は台本のセリフの意味とニュアンスを紀子が教え、愛がパスタ料理のコツを教えあいながら過ごした。
紀子にとっても愛にとっても充実した一日となった。
「紀子さんありがとう。漢字の意味やニュアンスがわかったわ。これで自信もって撮影に挑めるわ」愛は快活に言う。
「私こそありがとう。パスタ料理のコツをつかんだわ。今度修一さんに作ってあげられるわ」
紀子と愛。女性二人はそれぞれに絆を深めあったのである。
一年という時の経過は、篠原紀子に家庭を預かる主婦としての自覚と街の人々とのつながりを実感する貴重な時期となっていた。




