第二十一章 時の経過ー相良愛と篠原紀子1
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出版社にとって、ブームというものほどありがたいものはない。期間が長ければ長いほどいいし、さらに言えば過熱せずに”微熱”程度に続いてくれるのならなおありがたい。
例えるなら、「猫ブーム」がそうである。
ブームは、作家にとっても大事なもので、その機微を捉えるのが大切なのである。
例えるなら、「大河ドラマ」が好例であろう。大河ドラマの主人公にまつわる伝記、小説等が”これでもか”と言えるほど出版される。そして、大河ドラマが終われば「速やかに」次の年の人物にその席を譲る。
いつのころからかシステム化されている。そんなシステム化された中でも、売り上げを維持している作品は「本物」なのかもしれない。
そして、神崎修一の『群狼』は、その本物の仲間に入れられていた。
神崎修一の個人全集 全十五巻の売り上げも爆発といかないまでも順調に売り上げを伸ばしていた。
☆
「修一さん、一休みしてください。コーヒーです」
篠原紀子は、修一の好む割合で、砂糖、クリーム、コーヒーの濃さを覚えている。この黄金比を考えなくてもできるようになっていた。
「そうか、ではいただこう」
修一は、原稿を慎重に一時保存して、パソコンを閉じた。
修一は、紀子を見る。若草色のセーターに、緑のフレアスカート姿だ。
「今日もコスプレしているのか」修一が呟くように言う。
紀子は頬を赤らめる。
「え、ええ。そのつもりです。似合いませんか」声に不安が混じる。
「君は何を着ていても見事に着こなしているじゃないか」
「そ、そこまで言われると恥ずかしいです。嬉しくはあるけど」
「ひ、膝枕。いいか」修一がまた呟くように言う。
紀子は笑顔で両手を広げ、「どうぞ」といった。
修一は素直に横になった。
紀子は、修一の頭の重みを自分の膝に感じる時、言いようもない幸せを感じるのだ。
「『群狼』の続篇、執筆は順調ですか」
紀子は、修一の苦闘を物語る髪の乱れを丁寧に指で直しながら尋ねる。
「まあまあだ。俺は今まで続編を書いたことがないので、構想がうまくまとまらない」
「そうですか」紀子はそれ以上余計な一言を言わないように注意していた。
修一には決して言わなかったが、緑川奈々とレストランで昼食を共にしたとき、緑川奈々に言われた言葉を紀子は決して忘れないようにしていた。
『神崎修一は、あなたを決して幸せにしないわ』
(そんなことはないわ。現に私は今幸せだもの)
紀子は心の呟きを二度繰り返した。
神崎修一はいつの間にか眠ってしまっていた。
紀子は微笑んだ。(あらあら)
「紀子…」修一の寝言だ。
緑川奈々の言葉は、忘却の彼方に飛んでいった。
紀子は叫びたいほど幸せを感じていた。
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『群狼』の続編、『続.群狼ー叛旗に立つ』は、
書き下ろしではなく、雑誌連載の形式をとった。それも週刊誌にではなく、月刊誌に。
だからというわけではないが、修一はほっとしていた。週刊連載だと考えただけでも背中に冷たいものが走る思いだ。もっともその時間的余裕は、ほんのわずかでしかなかったが。
元担当編集者と同棲するなど修一は考えてもいなかった。
コスプレを強要し、嫌な思いをさせたら引き下がるだろうと思っていたのに、篠原紀子は粘り強くコスプレにも応じ、いつしか彼女の存在は、修一にとって不可欠と思えるほどになっていた。
ガチャン!と鈍い金属音がなった。
「あー、また割っちゃった。修一さんごめんなさい」
紀子の悲鳴が上がる。
(ま、何事もパーフェクトはありえないが)
修一は口元に笑みを浮かべて首を振った。
☆
相良愛が所属する芸能プロダクション社長は女性だ。
名を剣崎龍香という。
若かりしころは、邦画界の宝ともいわれた女優だった。
このところ剣崎龍香は悩んでいた。相良愛についてである。
相良愛をタレントとして育てるにあたり、龍香は一つの方針を立てていた。
それはー無理をさせないーの一言だった。プロダクションが主催した新人タレントオーディションに応募してきたのが、愛だった。いや本名坂本愛だった。顔立ちは幼く、日本人形特に一抹人形のようだったが、視線に熱意を感じ、龍香は愛を採用した。
龍香の狙いは当たり、坂本愛芸名相良愛は、芸能界で人気を得た。
女優としても才能を見せる愛に、龍香は満足を覚えていた。
ある時、愛と二人で食事した時、愛に芸能界引退の希望とパティシエになり、孤児だった自分を育ててくれた叔母の店を大きくし、叔母を支えていきたいという希望を聞き、龍香は賛同した。
その時、龍香は言った。
「わかったわ。でも少なくとも芸能人、女優としても今は売れているのだから、あなたの人生の一時代を築いてからでも遅くはないんじゃないかしら」
続けて龍香は言葉を継いだ。
「人生は長いようで短いし、また短いようで長い。愛には、自分の人生を愛してほしいの。人生の節目節目に”生きた証”を残しなさい」
龍香は言った。
龍香の言うところの”生きた証”を残させるように相良愛には、主演映画が決まり、大作になるという噂のベストセラー小説のヒロイン役が決まった。
龍香は考えていた。
(逃した魚は大きいというけれど、それ以上に獲った魚を海に泳がせるのは、覚悟がいるものね)
龍香は苦笑するしかなかった。(けれど、約束は約束よ。腹をくくるしかないわ)
龍香は、愛のスケジュールを詰めようとはしなかった。
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相良愛いや今は叔母の家にいるので、坂本愛は、休暇をもらい帰っていた。
「お母さん、私、こんな難しい役できるかしら」
めぐみは綾子に言った。
綾子は苦笑を浮かべながらめぐみに慈愛の籠った視線を送る。
「さあ、私に言われても、ねえ。そうだいっそのこと紀子さんに相談したらどうかしら。篠原紀子さんは、『群狼』が書かれていた時、担当編集者だから、なにかヒントもらえるかもしれないわよ。ご近所なんだし、顔なじみでもあるわ。今から行けばいいじゃない」
めぐみの瞳が光った。
「そうね。聞いてみよう」
綾子は、神崎邸に電話した。めぐみの来訪の件を伝えた。
「そうですか。いいですよ。今は修一さんも取材旅行で、今日一日帰っては来ないので」と、快諾を得た。
めぐみは、手土産に、ショートケーキを二つ箱に入れ、神崎邸へと通じる坂道を登って行った。
夏の日差しはわずかに傾き、めぐみの影が伸びていた。




