第二十章 紀子と愛と奈々ー女性三様 2
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七月、夏は今年も穏やかな顔を見せてはくれなかった。機嫌の悪い凶暴な顔を人々に向けていた。街のアスファルトという”鏡”に照り返る太陽光線は、人を上からも下からも挟み撃ちにしていた。
それは空調の利いたオフィスでも同様だった。一応クーラーは稼働しているが、人々を快適な気分にはしていなかった。外回りで歩くよりは「まし」というレベルに過ぎなかった。
そして今、創文堂の社長室でも、窓から差し込む直射日光を遮るブラインド・カーテンから、街を見下ろす近藤将司の機嫌は、甚だに悪かった。
書籍の売り上げが、予想以上に悪いからだった。ただ悪いのなら、読書離れ、電子書籍の普及、インターネット環境の整備等によってしかたないと割り切れる。なぜなら、どこの出版社も苦労しているから。
しかし、メディア戦略を通しての販売業績の悪化は困るのだ。
なぜなら、本の売り上げ以前の段階で、多額の広告費がかかっているからだった。したがって、それらを一挙に回収するには、小説が広告によって売れ、それを起爆剤として、映画の興行収入が上がり、出版社に販売業績として返ってこなければならないのだ。
しかし、今近藤将司が手にしている業績報告は、将司の予想を大きく下回っていた。
アイドル女優相良愛を主役にし、青少年だけでなく、世の中高年の男をも取り込もうともくろんでいた。
将司の思惑通り事は運んだ。
しかし、そこに突然不意打ちを食らったのだ。
神崎修一著『群狼』が発売され、出版界をどよめかせた。
将司は神崎修一を知らなかった。
神崎修一?WHO!
急いで調べさせた。
将司は報告書を読んだ。
「二十年前は、ベストセラー作家でした」
と、報告書の最後に書かれていた。
(二十年、二十年前だと)
将司は信じられなかった。ネット社会の今日、時代の変遷は、二十年どころか、二か月、三か月で、流行の対象は変わるというのに…
将司は、ブラインド・カーテンに背を向けたまま手で退出するように、秘書に示した。
秘書がいなくなり、自分一人になった社長室で、将司は、パソコンで神崎修一をネット検索していた。
2
緑川奈々は、連載小説の執筆を進めていた。発行部数は、わずかながら落ちていた。
映画も大ヒットとまではいかなかった。元々一喜一憂するタイプではないが、何か美少女探偵シリーズも趣向を変えていかなければならないということは、奈々も気づいてはいた。
ラブコメ路線が続いていたので、怪奇ホラー路線に切り替えていた。
読者が一番嫌うのは、マンネリである。
奈々は、以前も感じたが、作家という仕事の過酷さを今まさに感じていた。
作者は、必死にアイデアを練り、場面を想定し、書き上げても、売れなくなると、やれ限界だ、やれマンネリだと非難される。
最近は、読書離れがひどいので、本も売れなくなった。
奈々は、ため息をつくと、原稿を保存して、一度パソコンの電源を切った。
席を立つと、冷蔵庫に収めている日本酒を取り出す。
彼女は、お酒をたしなむ程度だったのだが、最近は飲むようになってしまった。
神崎修一と結婚していたころ、酒を飲む修一を心のどこかで軽蔑していた自分が、今や酒を飲むようになった。
なぜ修一が酒を飲んでいたのか、今の奈々にはよくわかる。
(自分が子供だったのよね)と胸の内で呟く。
☆
風の噂に、あの篠原紀子とかいう若い編集者と神崎は同棲していることをしった。
しかも紀子は、光栄社の正社員ではなく、契約社員の立場になってまで、修一に寄り添っているらしい。
正社員ではないから、当然給料も下がるし、紀子の人生のキャリア形成には、大きなマイナスなのは間違いない。
にも関わらず、紀子はその道を選んだ。
緑川奈々は、一度篠原紀子と昼食を共にしたことがあった。
あのとき奈々は、神崎修一が紀子を幸せにはしないと断言したのに、紀子は幸せは、自己責任の基にある、他人がどう思おうと自分が幸せと思うなら、幸せなんだと。奈々は紀子に言った。あなたは神崎修一を幸せにさせることが、自分の幸せだと。
その言葉を思い出すと、酒がまずくなる。
(私は、あの女に嫉妬してたのかもしれない)
幼い子供のように、全てを自分の物にしないと気が済まないように。
奈々は、神崎修一と離婚しており、よほどのことがない限り、修一と寄りを戻すなど考えられなかった。
しかし、それは奈々の方からであって、修一に自分と寄りを戻したいという気持ちがかすかにあるのではないかと、奈々は心のどこかで期待していた。
しかし、修一が篠原紀子と同棲を始めたことが事実であるなら、奈々が修一と関係を修復する可能性は”ゼロ”になった。
奈々は笑い出した。
「なに『眠れる森の美女』を気取ってんのよ。バカじゃない」
広いマンションの一室で、奈々は自己卑下を繰り返した。
奈々は立ち上がり、冷蔵庫に仕舞っておいた、日本酒やウイスキーを流しに流し込んだ。酒類が全て無くなると、奈々は、パソコンのスイッチを入れ、原稿の執筆に集中した。
不思議なことに、原稿の進み具合が早くなっていた。
奈々の中の「迷い」が消えていた。




