第十九章 紀子と修一 その4ー一夜
1
篠原紀子は、幼いころから文学少女だった。友達が魔法少女アニメの話を昼休みにしていても。一人黙々と図書室から借りてきた「赤毛のアン」や、「あしながおじさん」を読んでいた。特に、「あしながおじさん」は好みで、高校生になると、文庫を買っていた。
現実的な考え方をする傾向のある紀子にも、「憧れ」のようなものは、今、二十八歳になろうとしている彼女の心にも息づいていた。
(私って、おじ様趣味だったのね)と、今さらのように独り言に呟く。
しかし、神崎修一は決して「あしながおじさん」ではない。
修一と並んで歩くことは何度もあったが、夕やみに驚くほどの影を描くほど、修一の影は、長くはない。当然、足も長くはない。
「やっぱり子供だったのよねえ」と、思わずつぶやく。
「は、子供。子供がどうかしたんですか」
引っ越し業者の二十歳前後の青年が、ハンドルを握りながら聞いてくる。
「あ、なんでもありません。私の独り言です」
紀子は、顔を窓の外に向けながら言った。
トラックが止まった。
「到着しました、お客さん」と、青年が明るく言った。
別に期待していたわけではないが、屋敷の外で、修一が和服で、懐手して立っていてくれる情景を思い描いていた。
しかし、神崎邸の前にいたのは、顔なじみのパティシエの坂本綾子と名前は失念したが、町内会長の初老の男性の他数十人の人々が立っていた。
紀子は、トラックから降りながら言った。
「皆さん、どうしたんですか。まさか神崎さんに何かあったんじゃ…」
紀子は蒼くなる。
すると、パティシエの坂本綾子が、皆を代表する格好で、
「違うの。みなさんあなたを出迎えようと待ってたのよ。今日から神崎さんと一緒に住むんでしょう」
「あ、いいえ…はい」紀子は頬を染めた。
やんややんやと紀子を取り囲んで、人々は笑いさんざめく。
「なんだなんだ、騒がしい。近所迷惑じゃないか」
と、修一が和服姿に懐手で外に出てきた。
「いいんだよ。近所迷惑と言ったって、先生は崖の上に住んでるんじゃないか、一人で。あ、今日から二人か」
皆はどっと笑いが起こる。
「か、神崎さん。参りました」
「おう、入ってくれ」修一はいつもと変わらぬ返事をした。
紀子は出迎えてくれた人々に丁寧に頭を下げて挨拶した。
「皆さん、今日から仕事の事情で、神崎さんのお屋敷に住むことになりました、神崎さんの担当編集の篠原紀子と申します。どうぞよろしくお願いします」
紀子は丁寧に挨拶した。大きな拍手が起こり、出迎えた坂本綾子を始め、町の人々は、三々五々帰っていった。
引っ越し業者は、こういう騒ぎには慣れているのか、人々が帰るのを待って、紀子の荷を運び込んでいく。
紀子は、神崎邸に入ると、すぐに二階に上がり、荷物の置く位置を指示していく。
ものの一時間ほどで、彼女の引っ越しは終わった。
2
紀子は、衣裳部屋の隣の来客用の寝室ー今は彼女の仕事部屋兼用となったがーに立って見回していた。
「おーい、コーヒー入ったぞ」
修一の声だ。紀子はその声に引き寄せられるように階下の修一の書斎に向かった。
修一は、書斎の仕事用のデスクではない資料を置くデスクの椅子に座っていた。
紀子はいつものロッキングチェアーに座る。二人はしばらく黙って見つめあっていた。
最初にしびれを切らしたのは、意外にも修一だった。
「まあ、なんだ。俺の小説のために会社に居づらくさせてしまったのは、悪かったが、契約社員として残れたし、ここでは自由にしていてくれればいい」
「ありがとうございます。でも、一応女ですから、家事は努力します」
「あまりがんばらなくていい。リラックスした方が、料理も上手くなるもんだ」
「あのメイド服の時の料理のことを言ってるのね。たしかにあれは失敗したけれど、あれから料理も研究したわ」
「そうか。それは期待しよう。だが、今夜は下の中華料理店の主人と奥さんと下町の人々が、君の歓迎会をしたいと待っているらしい。特に、ベーカリーショップの店長が、君を「ベル、ベル」と勝手にあだ名をつけて呼んでいるそうだ。”ベル”ってどういう意味なんだ」
紀子は、勘良く察することができた。
(きっと、ディズニーの「美女と野獣」のことね。神崎さんかわいそう。野獣だなんて)
紀子は必死に笑いを堪えながら言った。
「さ、さあ。私にもなんだかわかりません。あとで確かめてみます」
「そうしてくれ」修一は腑に落ちない顔でいう。
「じゃあ、私、コスプレしますね。何か希望はありますか?」
紀子は、薄目で修一を見ながら囁くように言う。
「もうコスプレはしなくていいぞ。君はただの編集担当者じゃないんだから」
紀子は赤くなった。修一も。
「で、でも変な癖がついてしまって、ここではコスプレしないと落ち着きません」
紀子はウィンクして二階に行った。
戻ってきた紀子を見て、修一は驚いてしまった。
体操服にブルマー姿だった。
「お、おい」
「修一さん、大晦日に着てほしいって言ってたでしょ」
修一は苦笑して黙るしかなかった。
「で、でも。みなさんとの時はき、着ませんからね」
「当たり前だ。この屋敷の中だけだ」
「かしこまりました」
紀子は丁寧に言った。
3
中華料理店の店主もその妻も、紀子が神崎邸に「輿入れ」したという町内会長のラインを受けて、店を閉めて貸し切りにした。
「みんな、篠原君は、あまりお酒が強くないと思うので、無理やり飲ませないよう頼む」
修一は、機先を制するように言った。
「”篠原君”なんて他人行儀だなあ。「妻」って言いなよ」
店主は言った。
「俺は嘘は言わない主義なんだ」修一は胸を張る。
「偉いわあ。神崎さんは誠実な男性ね」
ベーカリーショップの店主坂本綾子が関心しきりに言う。
紀子は、修一の傍をそっと離れ、綾子に歩み寄り囁いた。
(坂本さん。私のこと”ベル”ってあだ名で呼ぶって聞いたんですけど、それって、『美女と野獣』なんでしょう)
(そうですよ。あなたが初めてうちの店で、ショート・ケーキを二つ買ったとき、坂道を登っていくあなたの後姿が、野獣の館に向かうベルに思えたの。
ああ、この女性はやがてお城(屋敷)に住むのかしらってね。当たったわ。私、勘は良いほうなの)
紀子は赤くなってうなずいた。
「おい、なにこそこそ話してるんだ。どうせ俺の悪口だろう」
修一が、ふくれっ面で言う。
「修一さん、”被害妄想”ですよ。素敵だなって話してたんです」
紀子が澄ましていった。
「嘘をつけ」
修一は囁くように言った。
綾子と紀子は笑った。
4
紀子の歓迎会は一時間ほどで終わり、二人は神崎邸に戻っていた。
二人はリビングでソファーに座り、まったりとしていた。
「まったく騒ぐのが好きな連中だ」
「私は嬉しかったですわ。みなさんに迎えられて」
紀子は静かに言った。
修一も黙したままほほ笑んだ。
☆
夜の十一時。
二人だけの夕食を楽しみ、また、『群狼』の続篇のストーリーを紀子と修一は話し合った。このときは、同棲相手同士というような甘い雰囲気はなく、作家と担当編集者の顔になっていた。
そして、修一も紀子も互いの寝室に引き上げた。
紀子は、一時間、まんじりともせず考え込んでいた。
音もない。机の上の目覚まし時計が、時を刻む音がするだけだ。
紀子は、上下三万円もする高級なパジャマに身を包んでいた。
最初はその価格に驚いた彼女だったが、衣裳部屋の隣の寝室で寝るときは、そのパジャマを使用していたので、驚きはなくなった。
彼女は立ち上がると、その部屋を出て、隣の衣裳部屋に入った。部屋の鍵は、修一からずっと以前に譲られていたものである。
衣裳部屋に入ると、電気を付け、部屋を見回す。
「あったわ。素敵なのが…」
確認する必要がないのにも関わらず、紀子は衣裳部屋の外を見た。
誰もいない。部屋のドアを閉めた。
☆
衣裳部屋から出てきた紀子が身に纏っていたのは、シルクのレースのネグリジェだった。薄くシースルーになっていた。
紀子には少しサイズが大きかったので、楽に着れた。
「どうして、こんな大きなサイズのネグリジェが、この部屋にあるのかしら。もしかして修一さん、女を呼んでいるのかしら」
胸が騒ぐ。深呼吸する。
(落ち着くのよ、紀子)
香水を少し多めにふって修一の寝室へ向かった。
修一は、ある予感を抱いていた。
(篠原君は良い女だ。愛されていることは伝わる。でも、俺は一度失敗している。彼女を幸せにしてやることが俺にできるだろうか)
コンコン寝室のドアがノックされた。
「修一さん。紀子です」
「おう、なんだ」
「入っていいですか」
「どうぞ」
ドアが開き、修一の目の前に白い天使が舞い降りていた。
「紀子君」
「修一さん。やっと名前で呼んでくれるのね。嬉しいわ」
「俺は、一度結婚に失敗してる。それでもいいのか」
紀子はうなずく。
「私、女よ」
紀子の瞳が濡れていた。
修一は、覚悟を決めたようにうなずき、紀子を抱き上げた。
ベッドに横たわらせる。
部屋の明かりが消えた。
二人の夜が幕を開ける。




