第十九章 紀子と修一 その3 坂の下の人々ー歓迎
1
紀子が光栄出版において正職員でなくなり、契約職員待遇になって、二週間が経過していた。彼女は汗だくになり、荷造りをしていた。明日は、大型トラックに乗り、神崎邸で暮らすのだ。
頬が上気するのがわかる。決して荷造りだけが原因ではない。生まれて初めて、男の家で二人だけで暮らすのだ。
大学時代、何人かの男子学生に告白された経験があり、一人の男には抱かれもした。
『結婚』という二文字を紀子はその時思い描いたのだが、相手の”浮気”が発覚し、紀子は別れを選んだ。自分の迂闊さを悔んだりもしたが、青春の迷いだと今では思うようにしている紀子だった。相手の男の顔も名前さえも忘れてしまった。
今、紀子は自分から望んで神崎修一の胸に飛び込もうとしている。
(いいの紀子?まだ出会って一年にもならないのよ。しかも、男は一度結婚に失敗した男性よ)
と、頭の片隅で、もう一人の紀子が警告を発していた。
(いいの。私は神崎さんを、修一さんを信じることにしたの。我ながら乙女チックだと思うけどね)
妄想の中のもう一人の彼女は、ため息をつき消えた。
最低限の荷造りを終えたころ、紀子のスマートフォンが鳴った。
画面を見ると、神埼修一からだった。
「……お、俺だ。修一だ。二階の衣裳部屋と隣の来客用の寝室を整理したところだ。き、君は準備できたのか」
「はい、できました。明日の昼頃にはそちらに着けると思います」
紀子は嬉しさをかみ殺しながら冷静に言った。
「そ、そうか。じゃあ、電話切るぞ」
紀子はもっと修一と電話をしたかったので、
「あ、神崎さん。一つ整理するところを忘れてますよ」
「な、なにを言う。きちんと君に必要な場所は、整理したぞ」
紀子は囁くように言う。
「神崎さんの寝室です。”明日の夜”のために清潔にしてくださいね」
一瞬沈黙が流れた。
「ば、バカなことを言うな。お休み」
修一は、息を詰まらせながら怒鳴る。電話が切れた。
「ハハハ…。修一さんったら。おかしい」
紀子は腹を抑えて爆笑した。彼女の目じりに涙が溜まる。
彼女は泣いていた。その涙は、哀しみの涙ではもちろんない。
人間としての喜びの涙でもなかった。
「ただの女」としての喜びの涙だった。
紀子が生まれて初めて流すたぐいの涙だった。
2
坂本綾子が営むベーカリーショップの前を大型のトラックが登っていく。
綾子は最初、呆然と眺めていたが、彼女は直観力に優れていた。
「ついにベルが来たんだわ。『美女と野獣』だわ」
そう叫んで、店の奥の居間に飛んでいき、町内会長の中村武に電話した。
「町内会長さん!ついに来たのよ。ベルが来たのよ」
「お、おい。なんのことだ」
中村武はディズニー映画なんて見ない。見るのはもっぱら時代劇だった。
「べ、ベル。どこかで非常ベルでもなっているのか」
「そうじゃないわよ。もう『美女と野獣』も知らないんですか」
と、町内会長を叱りながら、自分の予想を話した。
「な、なに。あの美人が、崖の上の先生に”嫁入り”だって。そいつはめでたい。みんなに知らせないと」
町内会長の電話が切れた。
町内会長の中村武は、ディズニーの「美女と野獣」は知らないが、メールやラインには詳しかった。
さっそく、町内の顔なじみに通知しているグループラインに、以下の一文を作り送った。
「ガケノウエノセンセイニ、ビジョコシイレス。ゼンインデムカエヨウデハナイカ」
瞬時に、町内会長中村武の返信画面は、「YES」の文字で埋め尽くされた。
紀子はこんな騒ぎになっているなど夢にも思わないでいた。




