第十九章 紀子と修一 その2
1
修一は、香りを感じた。まさに嗅いだというほどでもなく、感じたのである。
「香水、つけてるのか」
修一は、前を向きながら言った。
「わかります?つけちゃいました」
紀子はちゃめっけたっぷりに言った。
「もし気に入らないのだったら、やめます」
紀子は、修一をわずかに見上げながら、呟 くように言った。
「いや、やめなくていい」修一は、なおも紀子に顔を見せることなく静かに言った。
修一は、紀子を見ようとはしない。しかし、紀子は満足だった。
紀子はスマホを取り出した。時間を見る。午後零時になろうとしていた。
知らぬ間にというより楽しくて、紀子は時間も忘れていた。
紀子は、視線を少し上に向けた。青い空に白い雲がぽっかりと浮かんでいた。風は穏やかで、石畳が続いていた。
(このままどこまでも二人で歩いていきたい)
彼女は心で思っていた。不思議と空腹も感じなかった。
☆
「腹が減ったろう。ここで食事にしよう」
修一は紀子に囁くように言って、足を止めた。
「はい」と紀子は返事して、店を見る。
一見して老舗の日本料理店のようだ。
(わ、高そうね。お財布いくら入ってたかな)
紀子はいつもの習慣で計算していた。
すると、紀子の考えを見透かしたかのように、修一が言った。
「金の事なら心配しなくていい。ここは俺の店だから」
「ええ!」
紀子の甲高い、ほとんど悲鳴に近い声が、昼過ぎのサラリーマンが昼食に行き交う中で、まるでサイレンのように響き渡った。
大勢の人が紀子を見つめていたが、彼女は、動転のあまり気にも留めなかった。
2
店に入ると、和服姿の女性とかっぽう着姿の女性が、揃って頭を下げている。
その中心に、白髪の七十をいくつか過ぎたと思われる、しかし背筋をまっすぐにして立つ男性が立っていた。
「いらっしゃいませ。修一坊ちゃん」と、暖かい口調で言った。
修一は、今度はあからさまに顔を赤くした。
「正雄さん。もう私も五十に手が届くんですよ。”坊ちゃん”呼ばわりは勘弁してください」
”正雄さん”と呼ばれた老人は、ゆっくりと首を振りながら、なおも言葉を続ける。
「いいえ、私がお父様に拾われて以来、修一坊ちゃんは、いつまでも私にとって”修一坊ちゃんです。しかし、傍らにいられる美しい女性の前では言われたくもありますまい。控えるとしましょう」
修一は、横目に紀子を見る。紀子は、視線を下にして懸命に笑いを堪えていた。
「こ、この人は、亡くなったおやじの片腕だった人で、私が若いころ、殊に大学時代は世話になったんだ」
「初めまして、篠原紀子と申します。神崎さんの専属編集担当者です」
「初めまして、横井正雄と申します。ぼ、修一さんから昨日連絡を受けて、今日は店を閉めてお待ちしてました」
「正雄さん、気遣いは嬉しいが、わざわざ店を閉めなくてもよかったのに」
「いいえ、大事な話がある時は、雑音があっては集中できませんから」
(だ、大事な話って、なに、なんなの。まさか…)
紀子は、あれこれ想像して気が気ではなかった。
☆
二階は和室だった。昼時の外の喧騒がなくなり静かな空気が和室に満ちていた。
「あまりあれこれ話をするのもなんだから、私から一つ提案がある。いいかな」
「はい」
紀子は浮き立つ気持ちも消えて、姿勢をただした。
「一昨日の夜。周から私は電話をもらった。『篠原が、『群狼』のヒットが大きすぎて、編集部内で浮いている。社長は、お前との関係を歓迎しているが、他はそうでもない。だから、篠原の社内での身分は、一応「契約社員」
ということになった。もちろん、社内での出世の可能性はなくなり、給料も二割減額される。神崎、篠原を守ってやってくれ』とな」
紀子は驚きで言葉がなかった。そんなことが裏であったとは。紀子はじ分の迂闊さに自分を呪いたくなった。仕事に集中するあまり、周りが見えなくなっていたのだ。
「そんなわけだ。俺は周に言った。『全集を刊行するだけで止めておけば良かったんだ』とな」
「それじゃあ、神崎さんは最初からこうなることを予想していたんですか」
紀子は信じられないといった様子で言った。
「そうだ。出版社も企業だ。利益を追求せずにはおかない。しかし、一つ大きな成功をした人間がいて、会社に大きな利益をもたらす人間が社内にいれば、どうしたって自分と比較してしまうし、その成功した者を妬む。世の中ってのはそうなってしまったんだ」
修一はうなずいた。そして、また言葉を継ぐ。
「だから、世の中は怖い。しかし、俺も君のおかげで作家としての誇りを取り戻せた。それに結果的に俺の書いた小説が、君を追い詰めてしまったのだから、責任はとるつもりだ。マンションを引き払って俺のところに越してこないか」
紀子は静かな態度を崩さず、修一の話を聞いていた。
(修一さん、自分が何を言ってるのかわかっているのかしら)
心で冷静に思いながら、心臓はドラムを叩いているかのようにドンドンと早鐘を打っていた。なおも黙ったまま修一の表情を観察していた。
頬がわずかに上気しているのが見て取れた。
(修一さん、本気だわ。困ったわ。なんて答えよう)
紀子の心は決まっている。しかし、ここで素直に答えるのは、”負け”のように彼女には考えられた。修一とのふれあいの中で、はぐくまれてきた天邪鬼な気分が、むくむくと湧き上がってきたのである。
「ま、毎日はコ、コスプレしませんからね。そ、それでいいですか」
紀子の言葉に修一は、一瞬虚を突かれたようになった。
しばらくの間をもって修一は、紀子の言葉に、今自分が何を言ったのかを、今さらのように気づいたのだ。
紀子の視線は真剣だ。いいかげんなはぐらかしは通用しない。
「わかった。その条件を飲もう」
修一は重々しく言った。
紀子の表情は、初夏を通り越して、真夏に咲く大輪の向日葵のように輝いていた。
横井正雄は、神崎修一を少年のころから見てきた。作家としての成功と挫折も。最初の結婚も離婚も。篠原紀子を今日初めて見た正雄だったが、直感的に感じたのである。
神崎修一の多感な心という船が、今ようやくたどり着いた港となる女性だと。
「旦那様。喜んでやってください」
正雄は囁き手を合わせたのである。




