第十九章 紀子と修一 その1
1
目覚まし時計がなった。白い手首がかけぶとんからでた。まるで蛇のようだ。
見えていないはずなのに、正確にリング音停止のボタンを止めた。
カーテンから、初夏の日差しが無遠慮に差し込んでいた。
頭から布団をかぶって寝ていた紀子にとって、晴れやかな日差しは、憎悪の対象だった。
☆
残務処理、細かな編集部内での役割の引継ぎを済ませた五月も終わりに近づいた終業時間だった。
「篠原、元気でな。働くスタイルが変わったが。がんばってくれ」
退社間際、編集長の吉村周が声をかけてきた。紀子は無表情にうなずいた。
周は、声をかけながらも紀子と視線を合わそうとはしなかった。それもそのはずだ。吉村周が、個人的想いで、神崎修一の個人全集を出すための販売促進の意味合いで、新作を依頼するように紀子に頼み、その結果書き上げられたのが『群狼』だったのだ。
『群狼』はベストセラーになり、光栄書店には利益になったが、結果、紀子は周囲の嫉妬を買い、今、正社員ではなくなり、神崎修一が、他の出版社に小説を書かないように、監視する役目を強要されたのである。
「俺たちは仲間だ」などと、連帯を匂わせながら、結局紀子一人が、光栄社を去らなければならない現実を吉村は、視線を合わせないことで、謝罪の意を
示しているのだろうが、紀子もそこまで子供ではない。周の苦衷は理解できる。
結果的に、出版社も企業であり、企業である限りは、利益を追求する。
その経過の中で、多少の犠牲はやむをえないのである。
では、その犠牲になった者の立場は?
企業は、そこまで考えてはくれない。いや、まだ紀子の場合は良いほうだ。
給料は、きちんと支払われ、ただ、神崎修一を”見張っていればいい”のだから。
光栄社の中での昇進も昇給もない。代わりに人間関係の摩擦もなくなる。
彼女は布団の中で、笑いだしていた。いつしかその笑いが嗚咽が混じり、泣いていた。
ここに修一がいないことが、紀子には救いだった。
なぜなら、今の彼女は異性に特に愛し始めている男性に見せられる顔ではなかったから…。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。きっと宅急便だろう。
紀子は、頭の中で宅急便を依頼した記憶を探った。記憶はない。
紀子は出たくなかった。他の誰とも会いたくなかった。
ピンポーン。またチャイムが鳴った。
紀子は怒りを満腔に満たしながら、
「誰よ!帰ってよ」はすっぱな言葉で、いやいや起き出し、頼りない足取りで、玄関の来客確認のための覗き穴も見ずに、ドアを開けた。
ドアを開けたとたん、彼女は言葉を失った。
和服姿で、そして懐手で、神崎修一が立っていた。
紀子は、反射的にドアを閉めてしまった…
2
ピンポーン。またチャイムが鳴った。
「開けるんだ、ドアを」
修一の落ち着いた声が続いた。
「い、嫌です。な、なんでか、神崎さんがいるんですか」
「予想通り拗ねて寝ていたんだんだな。ひどい顔だぞ」
修一の揶揄するような声が続いた。
「なんですってぇ!ひどいこと言わないでよ!」
「いつものとおり、コスプレして出てくるんだ。そうだなミニスカートを履いてくれ。食事と何か欲しいもの買ってやるから交換条件だ」
「ほんとね。嘘だったらビンタしてやるんだから」
「ほんとだよ。俺が君に嘘言ったことあるか?」
紀子はしばらく考える。
(ほんとだわ。修一さん。小説も書いてくれたし、私の嫌がることなにもしてない。コ、コスプレは半分私も楽しんでたし)
「シャ、シャワー浴びますから。少し時間下さい」
「わかった。早くしてくれよ。六月とはいえ暑いからな」
紀子は、クーラーのリモコンを手にし、「強」のボタンを押した。
「神崎さんがかわいそうだから、中に入らせてあげます」
紀子は頬を染めながら、なおも拗ねた声で修一を部屋に入れた。
修一は、ゆっくりと体をドアの内側に入れた。
紀子は修一と顔を合わせられない。化粧も何もしていない自分が恥ずかしかった。
「あ、上がってください。今、何か冷たいものを出しますから」
紀子は、安物のパジャマ姿なのも忘れて、冷蔵庫に飛んでいき、ドアを開ける。
幸いなことに、昨日買っておいたブラックコーヒーのペットボトルがあった。
グラスにブラックのままアイスコーヒーを注ぎ、お盆に乗せてリビングに行く。
修一が、立ったままリビングを見回していた。
「あ、あんまりじろじろみ、見ないでください」紀子は叫ぶように言った。
「うん、何も恥ずかしいものはないぞ。資料も本もきちんと整理されている。女性らしい気遣いが感じられる」
紀子は赤くなりながらもほっとしたように笑みを浮かべた。
「アイスコーヒーです。シャワーを浴びてきます」
紀子はほっとした気分と同時に心に余裕が生まれてきていた。
「シャワー浴びますけど、覗かないでくださいよ」
と、修一を睨みながら言った。
「ば、ばかなことをいうな」修一の声に少し怒気があった。
紀子は首を竦めて、バスルームに走った。
パジャマを脱ぎ、裸になる。リビングに修一がいることを考えると、顔が熱くなる。
シャワーのお湯が、紀子の瑞々しい裸体を流れ落ちる。そして、異なる液体も流れていた。それは涙だった。修一が今傍にいてくれることが、心から嬉しかった。
紀子は自分が、キャリアウーマンであるという自覚の元に働いてきた。
しかし、紀子はキャリアウーマンである前に、ただの”女”であることを悟った。
今、この時の紀子は、女であることが喜びだった。
☆
シャワーを止める。丁寧にタオルで体を拭いていく。
純白の下着を身に着けていく。水玉模様のブラウスを着た。
白いミニスカートと赤いミニスカートを両手に持ち、慎重に比べる。
わずかながら赤のミニスカートが短いように思えた。
きっちりと身に纏う。ドライヤーで髪を整える。
彼女の心は、まるで女子高生のように弾んでいた。
「紀子、修一さんを誘惑する気なの?」
と、独り言に自分に語り掛ける。
唇に笑みを浮かべる。
つい一時間前までの、ぼさぼさ頭の彼女ではなかった。
心も含めて彼女は今、世界一の美女だ。
「お待たせしました。神崎さん」
「時間がかかるのだな。いい本読んでいるな」修一は、本から目を離した。
「いかがです?修一さん」
修一は言葉を失っていた。
「なんとか言ってくださいよぅ」紀子は不平のように唇を尖らす。
「さ、で、でかけるぞ」
修一の頬が赤くなっていた。
紀子はそっと親指を立てた。




