第十八章 作家と映画 その2 新たな役割
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初夏になっていた。昭和の頃には徐々に夏へと移行し、夏が来たことを人々は、肌で感じ、『季節の移ろい』を知ったものである。風情ある時代だった。
現代は風情を感じなくなった。人々は、『季節の移ろい』を感じる余裕を失っていた。それでも人は毎日を懸命に生きていく…。
☆
篠原紀子は、今、緊張した面持ちで、社長秘書の中野良子の案内で、社長室へと向かっていた。
紀子は、神崎修一の『群狼』が大ヒットしてからというもの、自分の社内での立場が、普通の社員とは見られていないことは、肌で感じていた。
他人の自分を見る目が変わったのだ。
繊細な神経を持つ彼女にはわかる。自分はただ与えられた仕事をこなしているだけなのに、その結果が大きすぎると、他者は紀子を勝手に地位のある、つまり役職者のように接しかつ見てくる。
紀子自身はというと、神崎修一という作家をよみがえらせたという気持ちは、まったく持てていなかった。
紀子の学生時代、作家志望だった彼女が手本としたように、神崎修一の文章構成力が、優れていたからに他ならない。
紀子は、そんな修一の傍にいられることに幸福感をこの頃は感じるようになっていた。
中野良子が少し砕けた様子で紀子に話しかける。
「篠原さん、最近とても輝いているようにお見受けしますわ」
社長秘書の中野良子が共に社長室への廊下を歩きながら言った。
「そ、そんなことはありませんよ。仕事ばかりで、マンションに帰ってもただ眠るだけです」
紀子は手を振りながら言う。
(マンションにだけ帰るのではなくて、神崎修一さんの元にも帰ってるんでしょう)
良子は心で思うが、口にはしない。それは嗜みというより、女のプライドが良子のもれそうな言葉を押しとどめていたのである。
良子は、社長の中島隆を愛してはいる。ともにベッドで肌を接したのも数度ではない。
世間的には、中島隆は、光栄書店の”気弱な三代目”社長と、見られがちだが、実は有能な経営者であることを良子は肌で感じている。
隆は牙を持っていた。ただ経営者とは簡単に牙を見せないものだ。むしろ公に牙を晒したら、警戒されるだけで、なんの利益にもならないという話を、良子は寝物語に何度も聞かされていた。
神崎修一も理由は良子にはわからないが、二十年も筆を置いていたのに、いざ書下ろしの小説を一冊書いたら、たちまちベストセラーになっている。
方法や立場は違えど、牙を晒さなかったとも考えることができた。
良子は隆を愛している。だが、おそらく良子が”妻の座”を得ることはないだろう。良子はそれでもいいと思っていた。
篠原紀子も神崎修一を愛していると良子には感じられた。神崎修一は、離婚しており、紀子が再婚相手になったとしても、世間的にはバッシングされる可能性は、良子よりは少ない。しかし、修一との間には二十年という年の差がある。加えて一度結婚に失敗した男性は、再婚に二の足を踏むものだ。
良子は心の中で笑ってしまった。
(私も彼女も”日陰の女”の道を選んでいるのかしら。だとしたら似た者同士ね)
「書籍編集部、篠原紀子さんをお連れしました」良子は、秘書の顔になり、社長室のドアを開けて引き締まった声で言った。
中野良子。彼女もある意味プロだった。
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紀子が社長室に入ると、中島隆がノートパソコンから顔を出した。
「書籍編集部、篠原紀子です。参りました」
紀子は、直立不動で言った。
隆が立ち上がり、来客用のソファーに腰掛け、前のソファーを手の平で示した。
紀子は一礼してソファーに座った。
隆は、柔和な笑顔を浮かべながら言った。
「社長室に来てもらうのは二度目ですね」
「はい」紀子は答えた。
「一度目の時は、ぼくは余計な雑談は苦手だと言った覚えがあるのだが、今日は、その苦手な雑談をしようと思うのです」
紀子は黙ってうなずく。
「『群狼』はベストセラーになり、偶然ですが、高瀬総理大臣も愛読書だと言っていただけた。きっかけはもちろんそれだけじゃないでしょうが、結果として、『群狼』は、映画化されることが正式に決まりました」
隆の口調は、散歩の途中で景色を眺めつつ話しているような明るいしかしどこか軽い口調だった。
紀子は気を緩めなかった。中島隆社長の視線が柔和から話が進むに連れて、厳しくなっていくのがわかるからだった。
(何を私に命じるつもりかしら)
☆
「わが社としては、神崎修一氏を取り込みたいと考えています。昔風に言えば、専属の作家として契約を結びたいと考えています。そう、例えるなら、昔、夏目漱石が、朝日新聞に記者の契約で、小説を連載していたことがあります。そのケースを私は、神崎修一氏と結びたいと考えています。そして、篠原君には、現在の専属編集担当者という役割だけでなく、新たにマネジャー的役割もお願いしたいと、私は考えています」
紀子はゆっくりと口を開いた。
「社長の仰っている意味が、今一つ私にはつかめていません。私の未熟な理解力では、神崎修一氏を専属とは名ばかりで、”光栄書店という牢屋に閉じ込めるおつもりですか。そして、私をスケープゴートに差し出すおつもりですか」
紀子の声は、次第に地に沈み込むように暗くなっていった。
中島隆の視線は鋭いままであったが、口辺には笑みが浮かんでいた。
中野良子が、トレイにコーヒーカップを二つ乗せて歩いてくる。
中島隆と篠原紀子の間にある”暗闘”とも思える空気を断ち切るように、良子は、コーヒーカップをテーブルの中心に置いていく。
「”未熟な理解力”という表現は、謙虚が過ぎますね。”正確な洞察”という表現に訂正しましょうか」
隆と紀子はほとんど同時にコーヒーに手を伸ばし、一口飲んだ。
「私に選択の機会はないのでしょうね」
紀子は自分でも驚くほどに冷たく静かに言った。
「そんなことはありません。ただ、その場合、篠原君には神崎修一氏の専属編集担当という業務を降りていただくことになりますね。代わりに、そうですね。秘書の中野良子君にしてもらうことになるかもしれません」
中島隆の言葉は、表面上軽やかだった。しかし、中身は氷のように冷たく重く紀子には聞こえた。
紀子は、もう社長の中島隆の顔に視線を向けようとはしなかった。
(ああ、これが現実なんだ。神崎さんが心血を注いで書き上げた小説も、何もかも「売り上げ」、「業務成績」の言葉に打ち消されてしまうのね)
紀子は社長のいや中島隆の顔を直視して言った。
「わかりました。謹んでお引き受けします。しかし、神崎さんのマネージャーとなれば、出社しなくてもいいというわけでしょうか」
「そうですね。神崎さんの執筆状況を我社に一日一回、主に中野良子君に連絡してくれれば、一日の業務としますし、給与も払います」
中島隆の顔は、かすかに苦痛に歪んでいた。
彼は、自分が一女性社員にいかに非情な命令を言っているのかがわかっていた。
(許してくれよ。これも会社のためなんだ)
隆は心中で呟いた。
紀子は立ち上がり、隆に頭を下げた。
「来月、六月からにしていただけますか。いろいろと他の細かな業務の残務処理・引継ぎもありますので」
「いいでしょう」隆は鷹揚にうなずいた。
「では、失礼します。私の”修一さん”を守るために、全力を尽くします」
紀子は毅然として、社長室を出て行った。
☆
中野良子は、目を皿のようにして、社長室の横の給湯室で隆と紀子の会話を聞いていたのだ。
紀子は社長の前で言ったのだ。『私の修一さんを守るために』と。光栄社のためではなくと。一社員として決して口にしてはいけない言葉だ。
しかし、『私の修一さん』と堂々と口にできる紀子を、良子は心の底から羨ましいと思ったのである。同時に「私の隆さん」と言えない自分が、女として悔しかった。
社長室の窓ガラスから勢いを増した太陽光線が、差し込んでいた。
今年の夏も暑くなることが、社長室に残る隆にも良子にも感じられた。




