第十七章 寄せる波 3
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神崎修一は、無表情だ。正確には無表情であろうと務めていた。
篠原紀子が、いつものように「神崎さん参りました」と、挨拶をし、二階に上がり、再び書斎に現れる時は、違うファッションに変わって戻ってくる。
今日はブレザーにタータンチェックのブルーのスカート、白い靴下という、女子高生スタイルだ。
「に、似合ってますか」紀子も恥ずかしいのだろう。少し言葉に詰まっている。
修一は、黙ってうなずく。
(もうコスプレはしなくていいぞ)と言えない。それどころか、今日はどんな姿であのロッキング・チェアーに座るのだろうかと心待ちにしている自分がいる。
(俺はどうかしている)彼は心の中で自分に呆れていた。
☆
篠原紀子は、さりげない振る舞いを通そうとしていた。
いつものように、「神崎さん参りました」と挨拶し、コスプレをするために、二階の衣裳部屋に行く。今、自分が身に着けている服装に修一が関心を示したのかどうかをすばやく観察することが、彼女はできるようになっていた。
(修一さん、クールにしているつもりだろうけど、今日は喜んでくれたみたい)
紀子はほくそ笑む。
紀子は手際よく着替えていく…
「今日はご報告とお願いがあってまいりました」
紀子は正座し、かしこまって言った。
「なんだ。今日は夕方から雨の予報だが、君専用の衣裳部屋の隣の寝室で泊まらせてほしいというのか」
修一は、本心とは逆に天邪鬼な調子で言う。
(え、そうなの?しまったスマホで天気をチェックするのを忘れてた)
紀子は、動揺を顔に出すまいと必死に冷静さを保った。
「ありがとうございます。神崎さんも雨の夜にお一人で、この広いお屋敷にいるのは寂しいでしょう。なんなら添い寝してあげましょうか。同じ泊まるなら効率がいいわ」
紀子も修一の天邪鬼的気質が伝染したのか大胆なことを言ってしまった。
二人ともハッとして顔を見合わせる。
「すみません。私は一編集者に過ぎませんでした。馴れ馴れしい態度控えます」
紀子は、顔を朱に染めて頭を下げた。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
………
「ハハハ…。止めてくれ。君にそんな汐らしい態度を取られては、調子が狂う。いつものように自然体でいてくれ」
神崎修一は、身をよじって笑った。
紀子はほっと胸を撫で下ろしたが、修一の爆笑の態度に、怒りが込み上げてきた。
紀子は、突然修一の和服の袖を引っ張った。修一は、不意を突かれて、紀子に膝枕してもらう格好になってしまう。
「な、何をするんだ」
修一は上体を起こすことも忘れて、下から彼女に言った。
「いつものようにしていいんでしょ。だからいつものように振る舞います!
それと、今、神崎さんの手、私の膝にありますけど、動かしたらただではすみませんよ。わかりましたね」
紀子は毅然と言い、語調を優しく変えた。
「『群狼』を書くのに大変だったでしょう。疲れがお顔に出てますよ。だから、特別に”膝枕”してあげます。リラックスして聞いてください。
『群狼』の映画化が正式に決まりました。だからというわけではありませんが、社長は『群狼』の続編を希望しています。我社で発行している婦人雑誌に連載形式でということです」
紀子は自然に無意識に修一の頬を撫でていた。
修一はなにもしない。紀子の冷たい指先が、頬に触れてもされるままになっていた。
「君はどうなんだ、続編書いてほしいのか」
「それはもちろんです。『群狼』は、今ベストセラーです。続編が出れば、光栄社の株も上がりますし、当然利益も上がります」
紀子は意識的にはしゃいだ声になっていた。
「それだけか?」修一の声は落ち着いていた。静かな声だ。
紀子は上体を折り曲げていく。彼女の唇が修一の頬に触れた。
「プラスこれだけじゃだめ?」
紀子は囁く。
「プラス君の膝の上にある手を動かしたら?」
修一は囁き返した。
紀子は頬を朱に染めながら、
「プラスビンタが飛びます。それでもよろしければどうぞ」
紀子は手を構えた。
紀子の膝の上にある修一の手は、動かなかった…。
こうして『群狼』の続編執筆の交渉は成立した。
☆
紀子は社長秘書の一人である中野良子を通して、神崎修一が、『群狼』の続編執筆を了解したことを伝えた。
秘書の中野良子は、淡々とビジネスライクに紀子の伝言を伝えた後、形の良い唇に笑みを浮かべながら、
「”懸命にお願いした末に”執筆を約束されたそうです」
「そうか。やったな」中島隆は、納得の笑みを浮かべた。
「篠原さん、とても嬉しそうに話してました。とても”懸命に”ではなさそうでしたけど」
「それはどういう意味だね」
中島隆は、秘書である中野良子が何を言おうとしているのかわかっていながら敢えて尋ねる。
「続編の執筆交渉を”どこで”したかですわ。つまり、神崎修一さんの書斎のデスクを間に挟んで依頼したのか、あるいは“ベット”の上でしたのかもしれませんわ」
「君は『人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んでしまえ』という諺を知らぬわけでもあるまい?」隆は言った。
「あら、誤解しないでください。”私たち”と似たような『組み合わせ』があるのかと思ったのです。もっとも、篠原さんの方が、よほど美しい『恋』なのかと羨ましく思ったのです」
中島隆は、軽くうなずくと、もう忘れてしまったかのように、業績の報告書に目を通していた。




