第十七章 寄せる波 その2
1
篠原紀子は、光栄書店の書籍編集部に勤務して五年いや今年で六年になる社員だ。だから、毎朝九時までには、書籍編集部の自分の席に座っていなければならない。彼女は今"猫の手”が少なくても三本ぐらい欲しいと思えるほど忙しい。
紀子の業務は、それを箇条書きにすれば、以下のようになる。
1.『群狼』の重版のたびに、チェックを入れる。印刷の間違いがないかを確認するのである。
2.「神崎修一全集」全十五巻の刊行スケジュールのチェック。
3.神崎修一の光栄書店発行の女性向け雑誌に掲載する連載小説のスケジュール調整。
等々。猫の手が三本じゃなく三十本必要なほど忙しい。
加えて、これは紀子が勝手に加えた忙しさだが、神崎修一の夕食の献立も、週に二度ほど考えていた。料理などクックパットがあれば事足りると、豪語していた彼女にしてみれば、まさに革命的変化だった。
実際、コーヒー好きの修一の好むコーヒーの濃さ、ミルクの量、砂糖の分量まで、完璧に頭に入っていた。
寒いしかし短い冬の季節が終わり、暑いそして長い夏の季節の到来を感じさせる五月のある日、紀子は少し短めのスカートを 身に纏っていた。
(修一さん、気づいてくれるかしら)
紀子は、顔をではなく心を朱に染めながら、パソコンのキーボードを叩いていた。
☆
社長秘書の中野良子が、書籍編集部の階でエレベーターを降りた。
いつも秘書室で、四人の他の秘書と、スケジュール管理を話し合うなど
”静かな”環境に慣れている彼女にとって、エレベーターを降りた途端、資料をもって走り回る編集部社員の姿は、思わずめまいを感じさせるものがあった。
神崎修一の個人全集の発刊スタートの件を報告するため、紀子が席を立ったのを見て、良子はほっとする思いだった。彼女は早く静かな秘書室に戻りたかった。
「篠原さん、社長がお呼びです。本来なら内線電話で伝えればいいのだけれど、社長がどうしても直接伝えるようにと言われましたので」
良子は、多少の嫉妬を滲ませながら言った。神崎修一の「群狼」の大ヒットによって、光栄書店の株価も上昇し、結果、専任編集担当者である紀子の立場は、強くなっていた。
三十三歳。独身キャリアで、勤続十年。社長秘書にまで上り詰めた良子にしてみれば、面白いことであるはずはなかった。
女には女がわかる。紀子は美人だ。そして、彼女の美しさは、心の充実によってその美しさを拡充していることを良子は感じていた。
「え、私がですか?社長に」
紀子は戸惑いを表情に出した。良子は紀子の表情の変化が理解できたが、同情は覚えなかった。しかしながら、良子は紀子の表情が、「意図的」と考えてしまうほど、精神の柔軟性は失ってはいなかった。
良子は口元をほころばせながら言った。
「いっしょにきてください」良子は、ビジネスライクに言った。
紀子はうなずいた。
吉村周は、編集長室を出たところで、紀子と社長秘書の中野良子の様子を窺っていたのだ。
良子は足早に周に歩み寄り、
「社長が、篠原さんを呼ばれておりますので」
吉村周は、苦笑いを浮かべてうなずくしかなかった。
2
(このスカート短すぎたわね)紀子は、社長に呼ばれたことより、神崎修一に見せるためだけに身に纏ったスカートを社長に見せてしまうことに後悔を覚えていた。
社長秘書、中野良子が社長室のドアをノックする。
「書籍編集部、篠原紀子さんをお連れしました」
「どうぞ入ってください」
中島隆の自然な丁寧な言葉があった。
来客用のソファーに紀子を先に座らせて、隆は向かい側のソファーに座った。
「篠原さん。私はあれこれ余計な言葉を並べるのは苦手なので、報告と用件と感謝を述べるだけにします。よろしいですか」
「はい、社長」紀子は姿勢を正した。
「まず、報告です。これはまだ内部情報なので、”秘密厳守”でお願いします」
「はい、わかりました」紀子は答えた。
「『群狼』の映画化が決まりました。正確にはまだ企画段階ですが、ほぼ決定です」
紀子は冷静にうなずいた。
「あまり驚いてはいないようですね」
隆は、笑いを口元に浮かべて言った。
「インターネットの映画掲示板に、『群狼』の映画化リクエストのコメントが多数ありましたので。いずれはと思っていました」
紀子は正直に答えた。
隆はうなずく。
「なるほど。やはりそうでしたか。しかし、困ったものですね。インターネットにも。情報伝達が早すぎて、いい意味でのサプライズの感動が無くなる」
「では、第二の”用件”についてお話します」
「はい」紀子は答えた。
「書籍編集部の吉村周編集長によれば、篠原さんの粘り強い交渉によって、
”埋もれていた”失礼な表現かもしれないが、作家神崎修一をよみがえらせたと聞いております。確かですか?」
(たくさん恥ずかしいコスプレさせられたけれど)紀子は心中で呟いた。
「私の交渉力ということは何もありません。すべては神崎修一氏の力によるものです」
紀子は本心から言った。
隆はうなずいた。
「では、神崎修一氏に、『群狼』の続編をぜひ書いてくれるようお願いしてほしいのです。主人公の娘アンジュは、実に魅力的なキャラクターですのでね。私も一ファンとして続編を期待していると伝えてください」
「はい、書いていただけるかはわかりませんが、お伝えはします」
紀子は、はっきりと言った。
「そして、第三に、あなたへの感謝を言わせてください。我が光栄書店は、創業六十年とはいえ、実際は中堅出版社です。『群狼』がベストセラーになり、光栄書店の株価も上がりました。私自身も社長として、襟を正してがんばります。これで、私が篠原君に言うべきことのすべてです」
紀子は感激した気持ちで頭を下げて、社長室を出ようと背を向けた。
すぐに、彼女の背中を中島隆の言葉が追いかけた。
「ああ、これは用件ではなく、蛇足ですが、夕食の買い物をするときは、注意される方がいい。妻も群狼を読んでましてね。その妻があなたが地下のスーパーで買い物をしていて、買い物を済ませると、弾むような足どりで、また違う方向の地下鉄に乗ったのを見たらしいです。
妻曰く。
『神崎修一さんの編集担当者の女性を見たわ。とっても嬉しそうに買い物をしてたわ。あれは、恋する女性の顔よ』とのことです。篠原さん、恋愛は自由ですが、担当編集者と作家のスキャンダル。これには注意してくださいね」
紀子は駒のように体を回転させて社長を見た。
中島隆はイタズラなウィンクをした。




