第十七章 寄せる波 その1
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『リア王』、『ハムレット』、『ロミオとジュリエット」と言えば、誰もが作者を答えられる。そう、ウィリアム・シェークスピアである。生涯に数多の名作を書いた劇作家である。近年の研究では、ウィリアム・シェークスピアという人間はおらず、劇作家集団の名称ではないかという新説まで出ている。
彼(あるいは彼ら?)も、舞台で自分が書いた戯曲が演じられるのを観て、どんな思いを抱いたのだろうか?
歓喜、満足、名誉なのか。
不満足、怒り、実力不足だったのか?
いずれにせよ紙の上に書かれた文字を役者という人々によって、目に見える状態になる時、小さくはない衝撃が走ることは間違いないであろう。
その衝撃が、神崎修一の前に起こったとしても不思議ではないのである。
そして、それは神崎修一の専任担当編集者である光栄社書籍部勤務篠原紀子にもその波は押し寄せた。
シェークスピアの時代は、舞台で。
神崎修一は、映像メディアで。
それは避けられない波だった。
☆
光栄社社長中島隆は、財界人の集まりに参加していた。最も積極的にではない。「義務」として参加していた。
中島隆は、自分をよく知っていた。いやもう一つ突き詰めれば、弁えていた。
創業者の次男坊で、兄に無理にお願いされて社長の椅子に座らされたのだ。
だからといって隆は、会社経営に投げやりではなかった。
社内の風紀を厳しくし、それでいながら社員間の意思疎通をスムーズにすることに心を砕いた。
男性社員の「育休」申請は、むしろ積極的に取るように、各部署のチーフに伝達していた。
ややもすれば、自分の立場を誇示したがるリーダー(首相、大統領等の国家の指導者たち)の悪い面を、反面教師として自分を律していた。
結果的に、光栄書店の社名はその輝きをいや増すばかりだった。
2
企業は、企業単体で成立するものではない。例えるなら、人ひとりで立ってはいられない。多くの他業種、または同業者との関係の中で、企業は存立する。産業社会とは、多くの連携によって成立している。
ただし、その同業者または他業者との関係が、良好であるかどうかによっても左右される。
「やあ、光栄書店の中島さんじゃないですか」
中島隆は、群れることを避けるように、カーテンの傍に立っていた。
時々、カーテンがエアコンの温風に揺れて、隆を隠していた。
隆はできるならカーテンの影に隠れていたかったが、見つけられてしまった。
声の方に視線を向けると、西宝映画の代表取締役、取手正之だった。
取手正之。邦画界を席巻する映画会社だった。邦画は無論のこと洋画もアニメ映画に至るまで上映権をほとんど独占していた。
かといって正之の性格は、温厚であり、強引さはなかった。先代の父正孝の我の強さを忌み嫌い、反面教師にしていた。隆とは馬が合い、プライベートでゴルフにでかけることもあった。
隆はほっとする思いと同時に、正之に一言言わねばならないことがあることを思い出した。
互いに軽く挨拶を交わした後。隆は言った。
「取手さん。『群狼』の映画化の許諾をぼくは与えた記憶がないのですがね。勝手にキャスティングまで噂されている」
「ぼくの罪ではないですよ。すべては先走った”噂”によるものですよ。なんといっても原作者の許諾をもらわないと何も始まらない」
正之は、手を横に振りながら答える。
「しかし、では、なぜ小説の登場人物の一人、ヒロイン役が相良愛という名が広まっているのです」
「それはそれ。ネット時代ですからね。一つの小さな火種が、燎原の火のように燃え拡がるのは、今に始まったことではないですよ」
正之の言葉は正論だった。インターネット広告によって、出版社も利益を得ている。実際その広告費は、莫大なのだ。
そこへ、創文堂社長の近藤将司が来た。長身ではあるが、惜しいことに、頭髪が薄くなっていた。
「楽しそうだね。私も加えてくださいよ」
隆も正之も苦笑を浮かべる。近藤将司の強引な経営方針の噂は、悪い方向で有名だった。
将司は、隆に一瞬敵意の籠った視線を向けた。
それには理由があった。
緑川奈々の『美少女探偵佐久間綾』の売れ行きが、思わしくないのだ。
アイドル女優の相良愛を主演に迎え、映画はヒットし、並行して原作小説とコミックもうなぎ昇りに、売り上げが伸びる予定だった。
そこへ、「寝耳に水」のように、神崎修一の『群狼』が発売された。
それだけならまだしも、支持率の高い”じゃじゃ馬首相”高瀬総理が、外国人記者クラブで、見事な”クイーン・イングリッシュ”で、ハードカバーを手に持ち、愛読書だと言ったのだ。
効果てきめんで、『美少女探偵佐久間綾』の売れ行きは鈍ってしまった。
競争原理が作用しての結果なのだが、近藤将司には”煮え湯”を飲まされた思いだったのだ。
☆
将司は、ワインの入ったグラスを指先で器用に回しながら、
「いやー、『群狼』の不意打ちにはまいりましたよ。でも、今度は負けませんからね」
それだけ言うと、にこやかな笑顔に戻り、別のグループの方へと歩み去った。
隆も正之も将司の灰汁の強さに辟易する思いだったので、将司が去るとほっとしていたが、二人揃って将司への強い反感を覚えていた。
正之は、隆に小声で告げた。
「中島さん、実はさっきの相良愛の話ですがね…」
「実はまだ企画段階だが、映画化の準備を進めています。発表まで秘密にするのが当然なのだが、近藤の鼻をへし折ってやりたくなりました。ぼくもまだまだ甘いな。しかし、中島さん。あなたは経営者としても大した力をお持ちだが、なによりも人間として、誠実だ。あなたになら話してもいいでしょう」
「ありがとうございます」中島隆は、取手正之に深々と頭を下げた。




