第十六章 女たち その3ー上と下
1
「『群狼』なんですが…」紀子が沈痛な表情で、修一に告げようとしていた。 「なんだ、全然売れなくて、俺は期待外れで”お払い箱”になるのか?」
修一はわざと聞いていた。いくら情報社会の外に居ようと思っても不可能な今日『群狼』が大ヒットしているぐらい修一は知っていた。
特に高瀬真由美”首相”が、外国人記者クラブで、『愛読書』として英語スピーチまで付けてアピールしたので、『Pack of Wolves”』という英語タイトルが世界的に広まっていたのだ。故に、自分への自戒も込めて、自虐的にジョークをとばしたのである。
紀子は、わざと両手を振る。安っぽい昔の出版社の社員の振る舞いをわざとする。
「いえいえそうではありませんわ」
修一はばからしくなって言った。
「やめたやめた。君ももったいぶらないでズバリ言えよ」
「そうですね。私と神崎さんの間で、かしこまらなくてもいいですよね」
紀子は正座を止めて、いつものロッキングチェアーに座りなおした。
一瞬、紀子のミニのフレアスカートから、美しい脚線が修一の目を射る。
修一はあわてて視線を逸らした。
☆
「実は、『群狼』なんですが、おかげさまで、十刷、五十万部近い売り上げを記録させていただきました。我社としましては、神崎さんに感謝します」
「俺に感謝するのは、まあ納得もするが、高瀬真由美にお礼と称して、金品を送ったりしてないだろうな」
修一のブラックジョークに紀子はしかめっ面で答える。
「オリンピックの公式スポンサーになるために、賄賂を贈った、「某」出版社にはなりません」彼女は断言した。
紀子の話は続く。
「実は…。『群狼』の続編を書いていただけないかと」
紀子の話を途中で遮り、修一は叫ぶように言った。
「周の奴が言ったのか」修一の言葉に蔑みの色があった。
「いえ、弁護するわけではありませんが、編集長は一言も言っていません」
「じゃあ、誰が言ったんだ」
「社長です」紀子は厳かな口調で告げた。
さすがに神崎修一も黙ってしまった。
「しばらく考えさせてくれ」修一は真顔で言った。紀子もうなずいた。
2
紀子はキッチンに向かい、すっかり覚えてしまった修一が好むコーヒーの豆の分量、ミルクを五滴、スプーン半分の砂糖を入れて、トレイに乗せて持ってきた。この短い作業とコーヒーを運ぶ時、紀子は幸せを感じるのだった。
紀子は書見用のデスクに、コーヒーを置いた。
紀子は再びロッキングチェアーに座る。
「群狼を映画化したいという話もあります」
紀子は、できるだけさりげなく言った。修一が、メディアについて好意的とは思われなかったからである。
ところが意外にも修一は、続編の話よりも積極的な態度を見せてきた。
「まあ、昨今の流れだな」
「怒らないの?」
紀子もつい普通に聞いてしまった。
「なぜ怒る必要があるんだ。ありがたい話だよ。それと、君にもお礼を言わないといけないな。君が目の前に現れなかったら、『群狼』も書かなかっただろう」
紀子は、修一をまっすぐ見る勇気がなかった。自分の顔が朱に染まっていることを知っていたから。
「で、では。担当プロデューサーの秘書の方に承諾の電話をしておきます」
紀子は、有能な担当編集者に戻った言葉で告げた。
3
相良愛は、その日相良愛を捨てていた。坂本愛に戻っていた。映画を一本取り終えたこともあり、芸能事務所の社長から二日間の休みをもらえたのだ。売れっ子女優にとって、二日の休みは、貴重だったが、愛は、迷わず叔母の坂本綾子の家に帰っていた。
両親に虐待されていた愛を、その両親から救ってくれたのが綾子だった。
だから、愛にとって綾子は単なる叔母ではなく、母親以上の存在だった。
「はい、ショートケーキ二つですね」と、愛は笑顔で接客していた。
「あ、あの…。今日試験が終わったので、今から映画見に行きます」
男子高校生は、普段買いにくるケーキ・ショップに、相良愛がいたので思わずどもってしまい、真っ赤になりながらケーキを受け取ると店を後にしようとしたが、愛がその背中に「映画を見に行ってくれてありがとう」と、声を掛けると、振り向いて嬉しそうに走っていった。
綾子はその光景をほほえましく見ていた。
「せっかくの休みなのに、お店の手伝い無理にしなくていいのに」
綾子は、ため息交じりに言った。
「せっかくの休みだから、叔母じゃなかったお母さんのお手伝いしなくちゃもったいないわ」
「ねえ、叔母さん。私前から言ってたけど、この『美少女探偵』シリーズの映画撮り終えたら、芸能界を辞めるって言ってたでしょう」
「ええ、愛言ってたわね」
綾子は、クリームの付いた皿を洗浄機に出しながら答えた。
「実は、まだ企画段階だけど、『群狼』って本知ってる?」
綾子の動きが止まった。
「知ってるも何も今夢中で読んでいるの、私」
店にお客がいないのを確かめると、駆け足で店の奥の部屋に戻り、『群狼』を手にして戻ってきた。
「よかった。お母さんも読んでたのね。実はこの本の映画の企画が進んでて、ヒロイン役にぜひって言われてるの。私もこの本読んで感動して、ぜひやりたいの、いいかな」
「お前が、私のことを気にしてくれるのはとっても嬉しいけれど、無理に女優を辞める必要ないんだよ。店だって繁盛してるんだから」
「ありがとう、お母さん」
愛はほっとしたような笑顔になった。
☆
「この山の上に、原作者の神崎先生のお屋敷あるのよね。お母さんは会ったことあるの」愛が尋ねる。
綾子はうなずく。
「難しい人。それとも怖い人?」
愛は恐る恐る聞く。
綾子は得意な『美女と野獣』の例えで答えた。
「最初は野獣だったけれど、ベルが来てからとっても優しくなったみたい」
愛も美女と野獣は知っていたが、叔母の例えは抽象的過ぎてわかりづらく首を傾げるばかりだった。
店先で、女性の甲高い声がした。
「知りませんよ。神崎さんこの頃太り気味だと思うんですけど」
「君という女性は、作家をこき使って、その作家に食べたいものもたべさせてくれないのか」
「私は、神崎さんの健康を気にして言ってるんです」
紀子と修一が揃って店先に現れると、かわいい女性が、口を両手で抑えて、目を皿のようにして立っていた。
4
店のシャッターが下ろされていた。まだ昼下がりなのに…。
相良愛に戻って、愛は修一に挨拶した。
「こ、今度。安寿役をやる予定の相良愛です。神崎先生」
「あ、ああ。今美少女探偵の佐久間綾も演じてますね」
神崎修一の視線がいつになくトロンとしているのが、紀子には気に入らなかった。
(テレビなんか見てないはずなのに、なんでそんな情報知っているのかしら、この人。そうかインターネットね)
紀子は納得するが、気に入らない。
綾子が、紀子の前にお茶を出す。
「紀子さんとは一度ゆっくり話がしてみたいと思ってたの」
「はあ、去年の暮はお騒がせしました」
紀子は苦笑を浮かべつつ謝る。
「なに、なにかあったの、お母さん」
愛が割り込んできた。
綾子が手短に説明すると、愛は残念そうに、
「ああ、私もその場にいたかったなあ」というと、
「居なくてよかったですよ。町内の人間が大騒ぎしてましたからね」
「神崎さんが、日頃からご町内とコミニュケーションを取らないからいけないんです」
紀子が横やりを入れる。
「さて、帰るとするか」修一も立ち上がり、紀子も少し遅れて立ち上がる。
「また寄らせてもらいますよ」修一が言う。
紀子は黙って頭を下げた。
その日の夜。綾子と愛は布団を並べて寝ていた。
「ね、お母さん。あの神崎さんと篠原紀子さんって結婚するのかしら」
「なあに。興味あるの」
「だってとても雰囲気良かったんだもん」
「さあ、私にはわからないけれど、二人が幸せなら結婚に拘らなくてもいいんじゃない」
「お母さんの言ったとおりね。『美女と野獣』紀子さんはベルなのね」
愛は笑いながら言った。
「明日は、「美女と野獣」のDVD観ましょう」
綾子は言った。
「いいね。見よう見よう」
母と娘は満ち足りた気分で眠りについた。




