第十六章 女たちその2ー喫茶ラウンジ
1
二人は、階段を降り地下の喫茶ラウンジに入った。その店は、ビュッフェ形式で、紀子のような一OLが、簡単に入れるような店ではなかったが、紀子は構わなかった。
奈々は、ハンドバックで日差しを遮るように顔をしかめながら、ラウンジの奥に歩いていく。紀子も並んで歩く。
店の奥の座席に二人は向い合せに座った。
「アポも取らずに気まぐれに寄った私が悪いから、好きなものを注文して。ご馳走するわ」
奈々の態度は、年上の余裕に満ちていた。
紀子は、何も思わず奈々を見つめていた。
奈々のサングラスが、春の太陽光線によって逆光を発散していた。
「いえ、お気になさらず。社外での勤務時間中の食事は、貸し借り禁止が内務規定ですので」
奈々の目が、サングラスの奥で、鋭い光を発していた。
注文を取りに来た年若いウェイターに、奈々は、ランチセットを二つ注文した。
ほどなくして、ランチセットが奈々と紀子に運ばれてきた。そして
「別に取り立てて用件があるというわけじゃないの。私、神崎修一の元妻だったの。あなたはすでに知っているんでしょうけれど…」
「伺っております。吉村編集長から」
紀子の声は、硬質だ。感情を敢えて含まないように静かな答えだった。
「私、あの人の、神崎修一の書下ろし新作『群狼』読んだわ。とても良かった。”じゃじゃ馬総理大臣”が、外国人記者クラブであんなに大々的に言わなくても、大ヒットしたでしょうね」
奈々は、なぜか紀子を直視するのが辛くなり、視線をラウンジの窓の外の景色にわずかに移す。ステンドガラス越しの太陽光線は、その強さを増していた。
「ありがとうございます。担当編集者として、神崎修一氏に代わって感謝します」
紀子の声は、変わらず硬かった。
奈々の書評は続く
「ただ、あの人の神崎修一の小説ではないようにも思えたの。今までの神崎修一の小説は、硬くて、社会への反発を通り越して、社会への怒りや人間性への諦めが滲んでいたのに、そうだったのに『群狼』は、社会への希望や人間への暖かい眼差しがあったわ」
紀子は答えず、黙って奈々の書評を聞いていた。
緑川奈々は、一度口を閉じ、注文したランチセットのコーヒーを一口飲んだ。そして口を開いた。
「あなたなのね。あなたが神崎修一に『群狼』を書かせたのね」
「おっしゃってる意味が解りかねますが」
紀子は無機質に答えた。
が、本当は逆だった。紀子には奈々の言葉の意味が解りすぎるほどわかっていた。
神崎邸での日常である”コスプレ”の日々が、輝くように紀子の目に浮かぶ。
奈々は、口元に笑みを浮かべていた。
その笑みに、悔しさと羨望と、認めたくない”敗北感”が含まれていた。
(藪蛇だったわね。これじゃあとんだ悪役だわ。でも、このままじゃ引き下がれないわ)
「一言だけ忠告してあげるわ。神崎修一は誠実な男よ。でも、それだけよ。女が望む幸せは与えてくれないわ」
緑川奈々は、自分の声がとてつもなく粘着質を帯びていることに気づいてはいなかった。いや、気づいてはいたが、自分を抑えられなかったのだ。
紀子の態度に変化はなかった。紀子の視線は、奈々の顔を直視していた。
正確には、緑川奈々の口元を見ていた。視線は奈々の視線と重なってはいなかった。
しかし、その時初めて紀子の視線は、奈々の視線と重なり、更には捉えて離さない強さを帯びていた。
☆
「女の幸せは、その女自身が創造するものだと、私は日頃考えています。自分が今幸せだと思っているなら、幸せなんだと。他人の物差しで測るものではなく、あくまで自分の責任の基に幸せはあると思っています。
さらに言えば、幸せにしてあげたいと思える人が、目の前にいることが、女の本当の幸せなんだと私は学びました。神崎さんから…」
紀子の言葉の一つ一つが、奈々の心を打ちぬいていた。
「篠原紀子さんと言ったわね、あなた。あなたの”幸せにしてあげたい人”は、神崎修一というわけね」
紀子は黙ってうなずいた。しかし力強く。
緑川奈々の存在を打ち消すように、紀子の顔は腕時計に向けられた。
「あ、いけない。午後の業務が始まるわ。私が払っておきます」
紀子は、目にもとまらぬ速さでレシートを手に取ると、カウンターに向かった。
さっさと会計を済ませると、奈々に黙礼してラウンジを出て行った。
緑川奈々は、ゆっくりと立ち上がり、ラウンジを出て行った。
奈々が外に出ると、春の太陽光線は、夏のそれに変わったように、熱くなっていた。
奈々は、やや足元に視線を向けながら、アスファルトの舗装された道を歩いて行った。
奈々のサングラスの輝きは、心なしか弱かった。
2
相良愛は、撮影所の控室で、横になっていた。
『美少女探偵佐久間綾』の映画の撮影が今終わったのだ。
所属芸能事務所で、愛のヘアメイクをしている久保田道子が、トレイに冷えた水の入ったコップを乗せて来た。
「お疲れ、クランクアップやね。映画一本完走や」
久保田道子は大阪生まれの大阪育ちだった。芸能事務所では、標準語というか東京言葉で話しているが、愛が、大阪の少女役を演じなければならなくなって、関西弁のイントネーションを覚えなければならなくなったとき、先生役を道子が務めたのがきっかけで、愛は道子に、
「私と二人だけの時は、関西弁で話してくれてもいいですよ」という”お墨付き”をもらったのだ。
愛は、冷たいタオルを瞼の上に乗せていたのだが、右手がゆっくりと動き、タオルが取り払われ、笑顔の愛が横たわりながら、
「おおきに。撮影終わりましたわ。ね、これでイントネーションあってる?」
道子はOkのしぐさをした。愛と道子は笑った。
愛の楽屋をノックする音がした。
「はい、どうぞ」愛が答える。
愛の楽屋に長身の青年が入ってきた。マネージャーの松本剛である。
「愛さん。映画撮影終了おめでとうございます。で、さっそくなんですが、次の映画の出演依頼が来まして」
今まで笑顔だった愛の表情が曇った。
「松本さん、今、映画が撮り終えたのに、もう次の映画ですか」
「はあ、そうなんです」
剛は、気の毒そうに愛を見ながら言った。
愛はため息をつく。
「それで、どんな映画なんですか」
「はあ、実は今ベストセラーになっている神崎修一の『群狼』ご存じですか」
けだるげに話を聞いていた愛の顔が、剛の顔を食い入るように見る。
「『群狼』」って…」
愛は、いつも愛用しているリュックサックに走り寄り、中からハードカバーの『群狼』を取り出した。
「この本の映画化ですか」愛は、『群狼』を両手で持って見せる。
「そう、これです。これ。まだ企画段階ですが、ヒロインである主人公の娘役をと依頼が来てます」
「やります。やらせてください。私、このヒロインの「安寿」大好きなんです」
愛の目は撮影終了の疲れも吹き飛ぶように輝いていた。




