第十六章 女たち その1 ー邂逅
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作家は、家に引きこもる。原稿用紙の升目を埋めるのに四苦八苦する。
または、表現、比喩、果ては格助詞「て、に、を、は。」
の使い方に迷い、動物園の熊のように、書斎を歩き回る。
というイメージが作家像であったのは、明治・大正期にはよくある光景というか、想像・空想すると、その「絵」が出る。
夏目漱石も森鴎外も宮沢賢治もそのイメージがある。特に宮沢賢治は、畑を見下ろす写真が有名である。あの写真の彼がその時、名作『銀河鉄道の夜』を構想していたのかは定かではないが…。
とかく作家は悩み多き人種である。
小さなできごとが、大きな影響をもたらすことは、現代社会では数多ある。
特に、ベストセラー小説の出現は、その小説を刊行した出版社ばかりでなく、ライバル出版社にも少なからず影響をもたらす。
さらに、漱石も鴎外も賢治も想像もしていなかった『メディア』とりわけ、映像メディアと文学作品の結びつきは、小説を書いた作家の予想をはるかに越えるほどに、密接になっていた。作家は好むと好まざるとに関わりなく、その渦中に身を置くことになる。
そして神崎修一もそれとは無関係ではいられなかったのである。
☆
篠原紀子は、その日出社していた。
『群狼』は、発売一か月で、十五万部の売り上げを記録していた。すべて、神崎修一の文章力、表現力、構成力の見事さによる。かてて加えて、紀子の父のように、中高年男性の若き日へのノスタルジーを刺激したのも一因だった。
紀子はその現実を当然我がことのように喜んでいた。
インターネット上の書評も、高評価だった。最も神崎修一を忘れ去られた作家のあがきと酷評する文芸評論家も一部にはいたが。
(やっぱり神崎さんの実力は、枯れてなどいなかったのだわ。そうなのよ。なんといっても神崎さんは私の…)
紀子は、後に続く言葉を飲み込んだ。
紀子は、編集部内の自分への見方というか視線の変化に気づいていた。
彼女が、神崎修一の編集担当に決まったとき、編集部内には、彼女への”同情”の感情が向けられていたはずだ。しかし、今は逆転現象を起こし、羨望の眼差しを向けられるようになっていたのだ。
紀子自身は、何も変わっていないのに、勝手に高みに身を置かれてしまったような、一種窮屈な気分にもなる。
もっともこれが会社員の宿命なのかもしれない。
紀子のデスクの電話が鳴った。
「はい、篠原ですが」
紀子は受話器を取って言った。電話のランプが内線の印字を照らしていた。
「こちら受付ですが、篠原さんにお客様です。”緑川奈々”さんという女の方です」
受付嬢は、出版社に勤めていながら、読書を好まないのか、「緑川奈々」という氏名を普通の口調で伝えた。
逆に紀子は、受話器を持つ手が震えているのがわかった。
その時、編集長の周が、編集長室から出てきたところだった。
「編集長!」紀子の声は囁き声よりも少し大きい声だったが、声には緊張感が含まれていた。
周は勘のいい男だった。紀子の声の変調にすぐに気づく。
(どうした、篠原?)周も囁き声になる。
(緑川奈々さんが、受付に来ているようです)
周の表情が、苦いものに変わっていた。
神崎修一の書下ろしの新作『群狼』が出足好調な売れ行きなところに、外国人記者クラブでの”同級生”高瀬真由美首相の本を持っての「愛読書」発言は、頼んでもいないのに、強力な援護射撃になっていた。
周も編集長として、鼻高々だったが、いきなり冷や水を被ったような気分になった。
周は咳ばらいをして紀子に言った。
「偶然立ち寄っただけかもしれない。とにかく担当編集者として、篠原が対処するように」
半ば責任を押し付けるような態度で言った。
「ずるいなあ」紀子は本音で言った。が、ため息をつくと、
「今、行きます」と受付嬢に答えて席を立った。
2
エレベーターのドアが開き、紀子は正面から日差しを受けた。それは春というよりは、初夏の強さを帯びていた。
紀子は、小走りに受付に行き、
「篠原ですが、お客様は?」
「あちらでお待ちですが」
受付嬢は、ソファーのあるエントランスの一角を指さした。
「すみません。神崎修一さんの編集担当しております篠原紀子ですが、緑川奈々さんですか」紀子は丁寧に聞いた。
優雅に足を組んでスマート・フォンを見ていた女性が、掛けているサングラスをそのままに、紀子を見上げ、おもむろにサングラスを外してほほ笑んだ。
そして優雅に立ち上がった。
「緑川奈々です。初めまして。あなたが神崎修一の編集担当者なのね」
奈々にはそのつもりはなくても、紀子には自分が軽んじられた空気を感じ、少し誇張するように言った。
「神崎修一氏の編集担当を務めている篠原紀子です」
心に敵愾心が沸くのを自覚しながら紀子は、名刺を出した。
緑川奈々は、紀子の心の変容を見透かすように唇に微笑を浮かべた。
奈々は、紀子の逸る気持ちを受け流すように、左手に巻く高級腕時計を見る。
「あら、ちょうどよかったわ。後一分でお昼よ。食事をしながらあなたと話をしたいのだけれど、構わないかしら」
「ええ、いいですよ。私もあなたと一度話がしたいと思っていました」
紀子は即答した。本来なら、編集長である吉村に断ってからでないと、いけないのだが、紀子の心に『敵前逃亡』を許さない何かがあった。
奈々は冷静だ。彼女は今この瞬間を楽しんでいる自分がいることを自覚していた。
奈々は、スマートフォンからどこかに電話した。
「もしもし、吉村さん。今、神崎修一さんの担当編集者の篠原紀子さんと下にいるの。少し外で彼女とお話がしたいの。今お昼だからいいでしょ」
電話の向こうで、吉村が何かを叫んでいるように紀子には感じられたが、
正確には聞こえなかった。
「行きましょう。大丈夫。そんなに時間はかからないわ。私だってもとは光栄書店に勤めていたOLだったんだから。普通一般の社会常識は持ち合わせているつもりよ」
奈々は優雅に答えた。紀子は敢えて無言だった。
二人は、光栄書店の階段を降りていった。




