第十五章 波紋3 一躍
1
書店員の朝は早い。開店は、午前十時からだったが、当然開店前の「準備」がある。準備を怠る書店に、利益が落ちることはない。
毎日書店に、大量の書籍が運び込まれてくる。段ボールに収められて。
書店員が、丁寧な手作業で、段ボール箱のガム・テープを剥がしていく。
乱暴に剥がすわけにはいかない。薄皮をめくるように、ガム・テープを剥がしいく。
過去の大量生産・大量消費時代では、段ボール箱など破棄されて当然だったが、不景気時代の今日では、そんな”贅沢”が許されるはずもなかった。
丁寧に開けられ、中に収められていた本を書店の書架に並べられて、一番売れている本、または売りたい本が、平台に積まれていくのである。
今日、積まれている本の中に、神崎修一の小説『群狼』があった。
書店員がつぶやく。
「帯のメッセージもいいけれど、総理大臣の愛読書は、CM効果抜群だもんな」
同じつぶやきが同時に全国の書店員たちによって異口同音に呟かれていた。
☆
『群狼』発売から一週間が経った。光栄書店の書籍編集部長、吉村周は、満足の笑みをかみ殺すのに苦労していた。
その理由は、もちろん神崎修一の書下ろし新刊『群狼』が、二刷りとなり、三刷り予定となっていたからである。
当然、書籍編集部は活気に溢れていた。
その活気は、当然光栄書店の上層部の雰囲気も変えた。
普段、社長室から出ることのないと思われていた、(ほとんどお飾りと思われていた)中島隆が、書籍編集部に顔を出したのである。
「吉村さん。『群狼』大ヒットの兆し。私も嬉しいよ」
光栄書店社長、中島隆は、四十五歳とは思えない若々しい笑顔を浮かべて言った。
「ありがとうございます、社長」
周は、頭を下げた。
中島隆は、偉大な父の後を継いで、光栄書店の社長になったのだが、本来は、今はスナックを経営している、兄・保が社長にならなければばならないのに、兄に譲られて社長になっていた。
だから、「地位を譲られた」という事実を隠さずに、他人にも言う。
決して自分を誇ることはなかった。
ある意味お坊ちゃまなのだが、それを逆手にとって、自由な社風を築いていた。
こうした大局観を持つ隆もまた人並みの経営者ではなかった。
隆は、周に封筒を渡した。
周は、多少の狼狽を覚えつつ社長を見る。
「しゃ、社長これはいったい…」
「わたしからの感謝の印しだよ。部員全員で慰労会でもすればいい。本来私が皆をひきつれて、乗り出すべきなんだが、私は噂通り社長室にいることにするよ」
隆はそれだけ言うと、痩せた体躯を軽やかに翻し、編集部を出て行こうとしたが、出社していた紀子に隆は目を止めた。
隆は軽やかな歩みで、紀子に近づいていく。
「君が篠原紀子君ですか」
「は、はい!篠原紀子です」
紀子は突然のことに、声が裏返るのがわかった。
「神崎修一という忘れ去られていた作家をよみがえらせたこと感謝します。今後も、神崎修一氏を担当してください」
「は、はい。みな神崎さんのおかげですが、私もできる限り努力します」
隆は頷くと、編集部室を後にした。
書籍編集部には、安どの空気と緊張感と紀子への少なくない嫉妬の視線があった。
中島隆社長は、社員の自分を見る目に釘を刺し、かつ社員のやる気を刺激し、紀子には神崎修一専属の担当編集者という、社長直々の”お墨付き”を与えたのである。
自分の立場を強化し、社員たちのやる気を刺激し、特定の社員には、業務に集中させるための目に見えない義務と立場をさりげなく与えたのである。
中島隆は、やはり並大抵の経営者ではなかった…。
2
金曜日の夕刻。高瀬真由美は、国会議事堂を出た。論戦の末、来年度の予算も衆議院を通過して、彼女はほっとしていた。
首相秘書官の一人である柳摩耶に聞いた。
「柳さん、週末は私、公務ある?」
摩耶は生真面目な態度で、スケジュール帳を開いた。
「いえ、まったくありません」
SPの一人である摩耶の兄、健司が鋭いまなざしを周囲に配っていた。
「健司さん」真由美はSPに声を掛けた。
「はい、首相」
柳健司は、鋭いまなざしをわずかに緩めて真由美に向いた。
「実は、私行きたいところがあるの。首相でなければ気軽に行けるんだけど、そうもいかないから、摩耶さんは、作家の神崎修一さんの自宅の住所を調べて。それと健司君は、私の護衛頼むわ。護衛なんて頼みたくないけれど、それもできないわ。二人とも私と一日中顔を合わせているから二人に頼むの。お願いね」
二人は腑に落ちてはいなかったが、首相命令とあっては拒否できない。
「わかりました。首相」
柳兄妹は声を揃えて答えた。
☆
紀子は土曜日の昼過ぎ、神崎邸に来ていた。
「改めて、神崎さん専属の担当編集者になりましたので、ご報告にやってきました 」
キャビンアテンダントの制服姿だった。
「コスプレ、まだ続けるのか」修一は苦笑いを浮かべる。
「あら、神崎さん。私のコスプレ気に入ってるんでしょう」
「勝手に言ってろ」
紀子は舌を出してから、「コーヒー淹れますね」と立ち上がった。
その時、修一の私用のスマホが鳴った。
「なんだ、私用のスマホが鳴るなんて珍しい」
「はい、神崎ですが」
若い女性の声だった。
「神崎修一さんのスマートフォンで間違いないでしょうが?私は高瀬首相の秘書官の柳摩耶と申しますが、あ、首相だめです」
柳摩耶と名乗った女性の声が悲鳴に近くなった。
「じれったいわね、貸して!修一、私、真由美よ。『群狼』とっても良かったわ。今からあなたのお屋敷にいくからね」
「え、どういうことなんだ。総理大臣のお前がどうして」
さすがの修一も動揺を隠せない。
ダイニングで陶器の割れる音がした。
修一が、ダイニングに目をやると、キャビンアテンダント姿の紀子が震えていた。
「ご、ごめんなさい。コーヒーカップ割ってしまいました」
紀子は震える声で言うと、二階の衣裳部屋に走るのだった。
再び書斎に戻った紀子は、今日訪れた時のチャコールグレイのスーツと白いロングスカートに着替えていた。
神崎修一と篠原紀子はうなずきあった。




