第十五章 波紋 2
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首相公邸の寝室だった。公の立場として様々な判断を下さなければならない首相であっても寝室は別だった。もちろん、公用の備え付けの電話。スマートフォン、果ては無線トランシーバーまであったが。
幸いなことに、今この夜、世界は平穏だった。
真由美は、プレゼントを贈られた少女のような気分で、ベッド脇の丸いテーブルに座った。
足を組む。そしておもむろに神崎修一著『群狼』を読み始めた。
トイレに行く。ベッドに横になる。また立ち上がってテーブルの椅子に座る。
SPには止められていたが、内緒で買っておいたビールを飲む。
「ああ、いけない。一年の禁酒を破ってしまったわ」
独り後悔の言葉を口にするが、目は、ハードカバーの『群狼』から離れない。
ニュートンの万有引力のリンゴのように、真由美は『群狼』からはなれることができなかった。
六時間後、真由美は一晩で『群狼』を読破していた。
重量のあるベッドの横の置時計を見る。午前七時だった。
「徹夜しちゃった。たしか今日は外国人記者クラブで、座談会があったわよね」
真由美の峻敏な頭脳は、六時間の読書の後も明瞭な鋭さを失わない。
真由美は、寝室を出て、普段着に着替えた。
プライベート用のリビングで、自分でコーヒーを淹れた。
(また、山崎さんに怒られるわね)
”山崎さん”とは、首相公邸に勤めて三十年になるハウス・キーパーである。
歴代の総理の日常を支えてきた御年七十になる老婦人だった。
その彼女から見れば、いくら首相とはいえ、五十歳の真由美など娘のようなものだった。
真由美が四十歳で最年少の官房長官に就任した時、若さで溌剌と首相公邸に入ったとき、雷を落としたのは、山崎さんだった。
「あなたは、礼儀作法が成っていませんね。歴代最小の官房長官であろうと、人として、女性として作法を身につけなさい」
雷を落とされたのだ。
若くて、美貌の持ち主でもあった真由美は、山崎さんとそれから何度も角突き合わせもしたが、激動の官房長官として、首相を支えてこられたのは、山崎さんの叱責に負けまいとして、努力と研鑽を積んだからに他ならない。
そして、その努力が実って首相に就任した時、山崎さんは、ハウスキーパーを辞めようとしていた。
真由美は首相としてではなく、一人の女性として山崎さんに尋ねた。
「どうして辞める気になったんですか」
山崎さんは弱弱しく微笑んで言った。
「私ももう七十です。体は元気ですが、少しのんびりしたくなりました。それに…」
山崎さんは微笑んで言った。
「あなたも官房長官ではなくて、首相ですもの。こんな口うるさいおばあさんがいては邪魔でしょう。あなたが官房長官として初めて公邸に来た時、叱って悪かったわね」
真由美は顔を伏せた。
そして、再び顔を上げた時、彼女は言ったのだ。
「高瀬真由美、首相として最初の指示を出します。山崎さん、私が首相でなくなり、この公邸を出ていくまで、公邸にいるよう命令します。いや、お願いです」
二人は抱き合って抱擁した。
「山崎さん、いつも名字でしか呼ばないのは堅苦しいわ。下のお名前はなんていうんですか」
「真由美。あなたと同じ名前なの。漢字も全く同じ」
二人は抱き合って笑った。
2
山崎真由美が、朝食をもってプライベート・リビングに入ってきた。
「首相、また自分でコーヒーを淹れて、やけどしたらどうするんです」
「ごめんなさい。朝の習慣はなかなか直らないものなの」
「困ったものですね」
二人の間だから許される家庭的な会話だ。
スレンダーで長身の青年が実直な様子で入ってきた。
「高瀬首相、今日のスケジュールですが」
首相秘書官の一人である若村武夫が言った。
高瀬真由美の態度が、硬質な衣を瞬時に纏っていた。
「午前十時より、外国人記者クラブで、記者たちとの懇談があります。
議題は、円安進行における日本経済の現状についてです。
次に、教育的話題に絡んで、首相の愛読書、または今読んでいる本について、コメントおよび紹介があればぜひお願いしたいとのことです」
「わかったわ。昨日は徹夜で読んでいた本があるの」
高瀬真由美は立ち上がり、『群狼』を手に取った。
☆
外国人記者クラブの天井のライトは、冬だというのに人間に汗をかかせてしまうほどに、煌々と光っていた。室内の暖房は、完全に地球温暖化防止に逆行していた。
高瀬真由美首相は、円安の日本経済に及ぼす影響について、熱弁を振っていた。
「これ以上の円安は、日本人の生活に悪影響だけを残しかねないと思います。私は、首相として一般の人々の生活に目を配らなければなりません。それをないがしろにしては、政治の意味を失いますし、政治家としての存在意義も失います」
大きな拍手に真由美は包まれた。
3
米国人ではあるが、日本在住が長い、ヘンリートマス記者が流ちょうな日本語でお礼を言った。
「ありがとうございます。プライムミニスター高瀬。ではここで話題を変えて、「読書」についてあなたに聞きます。最近読んだ本で感動した本がありますか?あれば紹介してください。その際、記者クラブには日本語をまだ完全に習得していない外国人記者もいますので、可能な限り英語で紹介してほしいのですが、よろしいですか?」
真由美は、鷹揚にうなずき英語で話し出した。
彼女の手には『群狼』が握られていた。
☆
「…“My favorite recent novel is The Wolf Pack, written by Shuichi Kanzaki.
It is a quiet yet powerful story that explores how individuals survive, gather, and sometimes separate in the storms of society.
Kanzaki’s prose reminds us that solitude is not always isolation, and that a pack can exist even without noise.”」
(私が最近読んだ小説の中で最も気に入っているのは、神崎修一氏の『群狼』です。
この作品は、社会という嵐の中で、人々がどのように生き抜き、集い、そして時に離れていくのかを静かに、しかし力強く描いています。
神崎氏の筆致は、孤独が必ずしも孤立を意味するわけではなく、群れは必ずしも喧噪を必要としないのだということを思い起こさせてくれます。」
会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
篠原紀子は、その時『群狼』が出版されたことを報告しに神崎邸に来ていた。そして、高瀬真由美首相の外国人記者クラブでの首相の記者会見を修一と共に見ていたのだ。
紀子は、恥ずかしかったが、赤のストッキングにスカートの”女子大生”スタイルだった。
「すごいわ。高瀬首相が神崎さんの本を読んでくれていて、外国人記者クラブで本を掲げてくれるなんて、これ以上のCM効果はないわ。ね、そうでしょ。神崎さん」
紀子は完全に舞い上がっていた。
しかし、神崎修一はいたって冷静だった。
修一は苦笑を浮かべながらうなずいた。
「ああ、そうだな。真由美のやつ。学生時代と変わらないな。じゃじゃ馬な性格は」
「”真由美の奴って、なんだか友達みたいな言い方するんですね」
紀子は首を傾げながら問う。
「ああ、君は知らないんだな。真由美は高瀬真由美は、俺と大学の先輩。後輩の間柄だったんだ。最も真由美は二浪してT大に入り、俺は現役で入ったがね。要するに真由美の方が年上だったんだが、同級生というわけだ」
(神崎さん、T大卒だったの。現首相と同級生だなんて)
紀子は、修一がとても遠い存在のように思えた。
それが悲しくもあり、それ以上に寂しかった。




