第十五章 波紋1
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池がある。大きいのか小さいのかは、人によってその判断は違うだろう。
その池には、水が満々と溢れんばかりにあった。まるで、「ノアの箱舟」の神話のように、四十日間も雨が降り続いた後のように。
その池の傍に、一本の木が生えていた。大きな葉っぱの上を雨の雫が、伝え落ちる。一滴の雨水が滴り落ちた。
満々と水をたたえる池にしずくが落ちた。
ポチャ。その音は聞こえないような小さな音だ。
しかし、一滴のしずくが池に落ちたことによって、”波紋”が生じた。
たった一滴の雨粒なのに、波紋はあっというまに大きく、そして広くなっていく。
☆
一人の中高年の女性が、高級な革張りの椅子に足を組んで座っていた。手には、五ページほどのクリップで止められたレポート用紙があった。
その女性は、余裕を窺わせる優雅な姿勢を崩してはいなかった。
また、崩すわけにはいかなかった。
女性は、少し視線と同時に顔をレポートから上げた。
(今は、午前十一時三十分か。昼食休憩まで三十分ね。我慢よ我慢。それにしても、今日が金曜日で助かったわ)
「急激な円安による物価高対策は、喫緊の問題です。首相の見解をお聞かせください」
(首相!)隣に座っていた同じく女性の財務大臣が、中高年の女性の肘をつついた。
「高瀬真由美君」名前が呼ばれた。
日本憲政史上最年少の首相、若干五十歳の女性首相が立ち上がった。
「見解を申し上げることは簡単です。しかし、国民の皆様が期待していることは、言葉よりも目に見える”結果”です。私はあなたの質問に答える前に、国民の皆さんに結果で”答え”ねばなりません。このような首相答弁では、ご不満かしら」
衆議院予算委員会が開かれている国会議事堂では、どよめきが起こった。
質問した野党議員も二の句が継げないでいた。
国会議事堂の時計が十二時を告げた。
「午後一時より再開します」
老齢の衆議院議長が高らかに宣言した。
一時間の休憩に入ると同時に、高瀬真由美首相の支持率が五ポイント上がった。
上がったのは、支持率だけではなかった。財務大臣と官房長官の血圧が上昇した。
二人は心の中で異口同音に同じ言葉を呟いていた。
(困ったものね。じゃじゃ馬首相)
2
高瀬真由美は、議事堂内の個室で、静かに食事を摂っていた。
個室のドアがノックされた。
「どうぞ」
首相秘書官が、一冊の本を持って中に入ってきた。
「首相、頼まれました。ハードカバーの小説をお持ちしました」
真由美は、先ほどまでの答弁を、頭の中で反芻していたが、それを中断して、初めて心からの笑顔を見せた。
「ありがとう。ちゃんと私の財布から払ったんでしょうね」
「はい、しかし小説のハードカバー程度でしたら、研究・調査費から捻出しても、非難される恐れはないと思いますが」
「だめよ。たしかに研究・調査費でもいいけれど、それでもそのお金は、国民の「税金」なのよ。おろそかにはできないわ」
首相秘書官は、やれやれといった笑顔を口に浮かべて退出した。その笑顔には、尊敬の念が溢れていた。
「修一君。どんな小説を書いたのかしら。やはり「同級生」そして同じゼミにいた私としては読まないわけにはいかないのよ」
高瀬真由美はつぶやいた。そのつぶやきは、首相ではなく一人の女性のつぶやきだった。
「『群狼』か。修一君らしいわね」




