第十三章 明と暗ー3 奇縁
1
奈々は呆れていた。同時に相良愛の若さを羨ましく思った。まるで世界は自分のためにあると信じて疑わない若さが…。
(二十歳のころの私と比べるとその行動力に舌をまくわね)
奈々は、二十歳のころ、神埼修一と自宅で初めて会って挨拶を交わした時を思い出していた。
笑顔など浮かべずに、拗ねたような視線で修一を睨んでいたに違いない。
奈々は、胸の内に沸いていた愛に対しての羨望を押し隠し。常套手段を用いることにした。
「愛さんは、二十歳だと聞いていたけど、行動はまるで子供ね。年上の女性が乗り込んだタクシーに、断りもせずに乗り込むなんて」
落ち着いた口調で、余裕の態度を崩さず、愛の突飛な行動を窘める。その際に眉間に皺を寄せることを忘れない奈々だった。
愛は世の中年男をにやつかせずにはおかない笑顔を浮かべて言葉だけで謝る。
「ごめんなさーい。もう二度としませんから今日は許してください」
愛はそっぽを向いていた。
奈々は、ため息をつく。
「タクシー・ドライバーさん、夕方から開いてそうなスナックかラウンジ知ってらっしゃるかしら」
運転手は、相良愛のファンだった。ゆえに、相良愛の主演する映画の原作ミステリーも読んでおり、今自分に尋ねているのが、原作者の緑川奈々でもあることも気ずいてた。
「はいはい。いやー嬉しいなあ。今を時めく相良愛ちゃんとベストセラー作家の緑川奈々さんが俺のタクシーに乗ってくれるなんて。偶然にしても最高ですよ。任せてください。あ、後でお二人のサインくださいね」
四十がらみのドライバーは、おねだりも忘れなかった。
タクシーが走り出した。
2
タクシーは、繁華街の中の小さなホテルで止まった。
「ここは俺たちタクシードライバーが利用するホテルなんです。
地下にラウンジがあって、そこは夜は、人で混むんですが、夕方は、客も少ないですよ。午後八時からは混みだすので」
タクシードライバーは、手帳のページを破って、携帯の電話番号を走り書きして渡す。
「お二人とも他人にあまり見られたくないとお見受けしたのでね。電話してくれたら迎えに上がりますよ」
タクシードライバーは、興奮しているのか、冬なのに額の汗をハンカチで拭きながら言った。
「何から何までありがとう。助かるわ。電話させてもらいます」
奈々は、丁寧に頭を下げた。
「おじさんありがとう。映画の前売り券ご自宅に送るわ。住所言って」
愛は、明るく言った。
ドライバーは喜んで住所を言った。愛は丁寧にスマホのメモアプリに書き込んだ。
☆
奈々と愛はラウンジに入ると、赤いネクタイを締めた長身の男が滑るように二人に近づいて言った。
「いらっしゃいませ」
「お店の奥の方空いてるかしら、席」
奈々が鷹揚に言った。奈々はラウンジに慣れていた。出版社の販売担当や編集担当と酒の席には何度も座った。
それに比較して愛は、アイドルのイメージを大切に、品行方正を通しているので、あまり来たことがなく珍し気に店内を見まわしていた。
二人は向い合せに座った。
「あなた本当に二十歳なんでしょうね」
奈々は、ジョーク交じりに言ったが、半ば本気で聞いた。
「二十歳過ぎてます。ほら」
愛は、顔写真も鮮明なマイナンバーカードをハンドバックから出して奈々に見せた。
奈々にしてみれば高校の”学生証”が似合いそうな愛を見て笑った。
「実は。緑川奈々さんにご報告とお願いがあるんです」
相良愛は、商売用の笑顔を消して、上目遣いに奈々を見て言うのだった。
その表情は、少女ではなく「女」だった。
3
店員が気を利かせたのか、ウェイターが運んできたのは、ハイボールとレモンスカッシュだった。
「あれ、こういうところで飲むのはお酒じゃないんですか」
愛が気が抜けた質問をした。
「お店の人が、私たちに気を使ってくれたのよ。で、ご報告とお願いって何なの」
奈々は、彼女の癖で物憂げな態度ではあったが、内心は相良愛との会話を楽しんでいたのだ。
「まず、お願いがあります。映画の件ですが、マネージャーさんから聞いたのですが、早くも続編制作が決まったということです。だからシリーズ二作目も映画化させてください」
「呆れたわね。まだ第一作の映画をこれから撮影するっていうのに、もう二作目が決まってるの」
奈々は、映画界の『取らぬ狸の皮算用』に驚くよりも笑ってしまう。
「奈々さんは、映画化には本当は反対なんですよね。創文堂という出版社から強制的に頼まれて映画化をOK したと聞きました」
「そうよ。主人公の佐久間綾にしても、原作は三十歳の予定だったのに、十代にしてくれたら売れるからって強引に設定を変えさせられたのよ」
奈々は、ハイボールを一口飲んだ。
「今さら言ってもしかたないけれど、作家にとって作品は、我が子も同然。小説は”金の成る木”じゃないわ。お金のためだけに作家は小説を書いているわけじゃない」
奈々の言葉は、彼女自身気ずかぬほどに言葉に熱が籠っていた。
相良愛は神妙な表情で奈々の言葉を聞いていた。
「ごめんなさい。芸能界にいる人間として、また俳優として原作者の意図を汲むべきでした」
愛は丁寧に頭を下げるのだった。
「あ、あなたが頭下げる必要ないわよ。わ、私もつい熱くなってごめんなさい」
奈々は、年上にもかかわらず、バツの悪い想いを抱いた。
「原作は、後三冊ありますよね。私映画にあと二本出演する契約を結んでるんです」
「あらそう。それはけっこうね」
奈々は嫌みな笑いを浮かべていた。
「マネージャーやプロデューサーに、シリーズすべて主演してくれって頼まれましたけど、私断固として断りました」
愛の言葉は、暗く沈んでいた。
「私、映画二本撮影が終わったら、芸能界を引退するつもりです」
「え!」
鷹揚にソファにもたれかかっていた奈々が上半身を起こした。
奈々は、”どうして”の疑問符が口から出そうになるのを懸命に堪えた。
「私、産みの親に虐待されていたんです。母にも父にも抱かれたことはありません。何日も何も食べられない日もありました。そんな私を引き取って育ててくれたのはおばさんでした。叔母が実の姉である母を警察に訴えて、両親は逮捕され、私は孤児院に送られました。そう、私は孤児だったんです」
「それで…」奈々は、それ以上言葉が出なかった。
「パティシエ見習いの叔母が、私を引き取って育ててくれました。叔母は結婚もせず、ただ私を愛してくれました。私にとって叔母は、何ものにも替えがたい存在なんです。
だから私、パティシエの専門学校に行って、洋菓子職人になって叔母を手伝いたいと思っているんです」
「そうなの」奈々は、相良愛の印象が、ガラリと変わるのを認めた。
「お金は貯めてあります。後二本映画に出たら、叔母の店を改装するぐらいのお金になるんです。お願いします。後二本だけ映画を撮らせてください」
「あなたも見かけによらず苦労したのね」
奈々は、再びソファーにもたれて、グラスを持ち上げた。
「あなたの話がでっち上げでないことを…」
愛の目が凶暴に光るのを見つめながら、奈々は言葉を続けた。
「そんな怖い目で睨まないでよ。大人になるとね、なんでも疑う癖がつくものなのよ。それに私は推理作家。疑うのが商売なのよ」
愛の目に笑いの光が宿った。
「わかったわ。原作の映画化にOK出すわ。ただし条件があるの。後三本映画に出なさい。つまり原作の佐久間綾は全てあなたが主演なさい。そうすればおばさんのお店を改装して、あなたが専門学校に行ってもおつりが来るわね」
「いいんですか」愛は思わず立ち上がっていた。
奈々は物憂げに、しかし笑みを浮かべてうなずいた。
☆
奈々と愛は乾杯した。
「ところで、私に報告があるともあなた言ったわよね。それはなんなの」
愛は打ち解けて笑顔だったが、言い淀んでいた。
「何よ!洗いざらい言っちゃいなさい」
奈々は催促した。
「言いにくいんですけど、叔母のケーキ屋は、山のふもとにあるんです。それが、山の上に大きな家があって、それが、奈々さんの離婚された前の旦那さんの神崎修一先生のお屋敷みたいな大きな家なんです」
愛の言葉は、あらいざざらい言ったので、肩の荷が降りたように饒舌になっていた。
「その家に、去年の秋からとても美人な女性編集者が、毎週何回も来ているんですって。恋人かしら、愛人かしら。叔母はディズニーの『美女と野獣』が大好きなので、その女性を主人公のベルと思ってるんです。私、おかしくて」
奈々の表情は、彼女自身も気づかぬうちに影を帯びていた。
「そう。その編集者が愛人であっても恋人であっても、別れた女房である私には何もいう権利はないわ」
「あ、もしかして奈々さん怒っちゃいましたか」
愛が気まずそうに問いかけてくる。
「ぜんぜんよ。私は平凡な女の幸せを求めすぎたのよ。そう、ホーム・ドラマのような夫婦を夢見ていたの。男の寡黙な愛を理解してやれなかった女なの」
「愛さん、芸能界を引退したら、パティシエになって叔母さんを助けるってとっても素敵だと思うわ。でも、真のパティシエになるのなら、人を愛しなさい。それができたらいい女性になるわよ」
奈々は、高級な腕時計を見る。時間は午後七時三十分だった。
スマホを取り出し、先ほどのタクシードライバーに電話した。
十分ほどでタクシーが到着し、二人は来た時と同様に乗り込んだ。
ただ来た時と異なるのは、四十歳の推理作家も二十歳に見えない幼い顔のアイドル女優も終始無言だった。
ラウンジは暖房が利いて、汗ばむほどに暖かだったが、外は寒かった。
奈々も愛も無言でタクシーの窓から外を見ていた。
寒いはずだ。いつのまにか雪が降り出していた。
積もるのだろうか、それとも溶けて水となって側溝に流れ落ちるだけなのか。




