第十三章 明と暗ー2ー自然な関係
1
「…群れる狼。背筋が寒くなる。他者に恐怖を与え、強いように感じさせもする。”強者”(つわもの)聞こえはよいが、それだけのことだ。良いか息子たちよ。忘れるでない。弱者の一人一人の歩みが、国家を動かすのだよ。狼は強くもあるが孤独だ。人はときに凶悪であり、粗暴になるかもしれないが、人なればこその温かみがある。我ら武将は、その弱き人々の温かみを守る慈者”じしゃ”(いつくしみあるもの)であることにこそ、生きる意味があるのだ」
武者の老アイルはそういうと目を閉じた。その目は二度と開かれることはなかった」
(完)
紀子は満足げにうなずく。
「いいです、神崎さん。とてもいい。私感動しました」
濃紺のセーラー服に純白のソックスに身を包んだ紀子が言った。
「そ、そうか。あのな。もうコスプレしなくてもいいぞ」
神崎修一は、照れた様子でいった。
紀子は無言で、修一を見つめていたが、澄ました様子で言葉を紡いだ。
「いいえ、約束ですもの。コスプレは続けますよ。ただし、何を着るかは私が決めますけれど」
修一の視線は、紀子のセミロングの髪から覗くうなじを見ていた。
紀子はそれに気づいていたが、何も言わない。
分厚いワープロ用紙の束を”トントン”と整えていた。
ほのかな香水の香りを修一の鼻腔は感じていた。
「あ、なんだもしかしたら俺の勘違いかもしれないが、君は今日、香水をその振っているのか?」
(やっと気づいたのね、この鈍感!)
紀子は心の内で毒づいていた。
「そうです。神崎さんにはお気に召しませんか」
紀子の声は囁くようなある種の凄みを感じさせた。
「き、気にいらないな。き、君はこれから光栄書店に帰るのだろう」
「そうです。いただいた原稿に赤のチェックをつまり校正しなければなりませんから」
「あ、周の前では、その香水を…消してくれ」
紀子は心の内で快哉を叫んでいた。
紀子はわざと困惑の表情を浮かべる。
「おっしゃっている意味が不明なんですが?」
「もう、勝手にしろ」
神崎修一は拗ねた子供のように背を向けた。
紀子は、駄々をこねる子供を見る視線を修一に向けた。
「では、”いったん”帰社します。夕食は何かご希望はありますか」
背を向けていた修一が紀子に振り返る。
「そ、そうだな。インスタントではない高級カレーを”二つ”買ってきてくれ」
紀子はにこやかに右手を出す。
「お金下さい」
「そ、そうだな。しっかりしてるな、君は」修一は、一万円を渡しながら言う。
「シビアにいかないと、いくら私たちの間でも」
「私たちの間とはなんだ?」
紀子の頬が朱に一瞬染まった。修一の顔を見る。修一の目にからかいの光が見える。
「”作家と編集者”の間という意味です」と、厳然と言い渡す。
おそるおそる修一の表情を覗き見る紀子。
修一の目は不満の色を浮かべていた。
紀子は心中で、二度目の凱歌を上げた。
2
午後二時、紀子は光栄書店に到着した。
「吉村編集長、神崎修一氏の新作の完成原稿をもらってきました」
「おう、修一のやつ書き上げたが。で、篠原君内容はどうなんだ」
「面白いです。そして感動です。さすが修、神崎さんです」
紀子は慌てて訂正した。
吉村周は、そんなことには気がつかず、長年忘れ去られた存在だった神崎修一という作家が再び日の目を見るかどうかの瀬戸際なのだった。
紀子が編集長室に入り、ワープロ用紙の束を渡した。
ワープロ用紙は、二百枚ほどだ。一枚八百字程度なので、原稿用紙に換算すれば、四百枚ほどの長編だった。
「編集長、原稿です」
紀子から手渡されたワープロ用紙を受け取るまでは、感激の表情だった周は、原稿を読みだすと、目は真剣になりプロの目になっていた。
速読法顔負けの速さで、半ばまで読み進むと、笑顔になった。
「うん、なかなか面白い。修一のやつやるな。篠原君よくやった。原稿チェック頼むぞ。来週からでいいからな。まったく、俺の若いころには、完成原稿のチェックに徹夜したもんだが、今は働き方改革でできなくなった。まあいい。そのかわり来週は残業だぞ」
「はい」
紀子の声は弾んでいた。
3
常勤タイムで退勤カードを押すと、紀子は光栄書店を出た。
駅地下のショッピングセンターで、高級カレーセットを二つ買った。
値段は、物価高のために一万では足りなかった。
「まったく、物価高はいつになったら収まるのかしら」
紀子は赤面していた。
(いやだ、私まだ独身なのに、まるで主婦のような気分になっている)
彼女の顔は冷静だった。しかし、心は幸福感に満ちていた。
紀子は、スーパーを出た。
新年は始まった。だが、主婦は毎日献立を考えねばならない。
(私、やっていけるかしら)
紀子は心でつぶやいたことに、自分で真っ赤になっていた。
紀子は妄想を全力で振り払い、スーパーを出た。
4
「ただいまもどりました」紀子は、卓球台が置けるほど広い玄関で言った。
「おう、お帰り」
修一は懐手で出てきた。
「今から、つくりますね。神崎さんも手伝ってくださいね。何もしないで座っているだけなんてダメです」
「わかったよ。”男子厨房に入らず”は通じないんだな」
「『昭和』ですか。許しません」
紀子は人差し指を立てる。
紀子と修一は高級カレーを共に料理し、共に食べた。
二人は、作家と担当編集の間柄だ。
こうした状況が普通でないことは二人ともに理解していた。
だが、二人にとって今がとても自然なことのように感じられた。
この感覚は静かに紀子の胸に染みわたった…




