第十二章 年末年始別景 2 (加筆訂正しました)
1
初日の出から三時間後。午前九時。篠原紀子は上下揃えで三万円のパジャマに身を包み、神崎邸のキッチンに立っていた。
一般常識に鑑みれば、非常識極まりない。独身の女性が、五十に手が届く男の屋敷に正月早々居るとは…。
紀子もそれは十分に感じてはいる。しかし、いま彼女がしていることは、トースターでパンを焼き、それにバターを塗り、皿に乗せ、コーヒーポットでできたてのコーヒーをカップに注いでいた。
注ぎ終わると、視線を前に向ける。
黒の高級なナイトウェアに身を包んだ中年男が、仕事用のノート・パソコンの置かれているデスクの隣の書見用のデスクに座っていた。
多くの作家がそうであるように、神埼修一も朝が弱い。体は起きているが、脳はまだ半ば眠っているに違いない。
紀子はため息を付くと、食パンとコーヒーをトレイに乗せて修一の前に置く。
「神崎さん、朝食です」
紀子は告げる。
「おう、悪いな。君も遠慮せずに朝食摂って行けよ」
「言われなくてもそうします」
一応の嗜み(?)で、紀子はキッチンで同様に朝食していた。
さすがに『差し向かいで朝食』というのは気恥ずかしい。
”勝手知ったる他人の家”とはいえ、男女の関係でもない修一と自分が、正月元旦に朝食をともにしている。修一はナイトウェアで、紀子は上下三万円の高級パジャマに身を包んで。
紀子はこの光景になじんでいた。まるで大草原に大の字に横たわり、手足を伸ばしたように、どうしようもなくごく自然に。
(成り行きよ、なりゆき)
紀子は胸の内でつぶやいた。
2
紀子は、来た時と同様のファッションで神崎邸の広い玄関に立っていた。
「それでは帰ります。神崎さん。今年もよろしくお願いします」彼女は頭を下げた。
「ああ、今年は俺も本格的に執筆に本腰を入れるよ」
「ありがとうございます。私も精一杯お手伝いさせていただきます」
紀子は背を翻した。その時修一の手が、彼女の腕を優しく取り、
「なあ、正月休みだろう。もう一泊してくれないか。今夜は一緒のベッドで」
と、彼女は抱き寄せられ、唇を…
紀子の脳裏でそんなイメージが、妙に現実感を帯びて浮かんでいた。
「だめです!私たちは…(仕事上の関係で)と言葉にしながらも抱き寄せられる…。
「気遣いありがとう。気をつけて帰れよ」
修一の快活な声が紀子の背中を押していた。
神崎邸を出て、花壇を尻目に門扉を引いて外に出た。
坂を下りる。神崎邸が小さなミニチュアの模型のように見えるぐらい離れたところで、紀子は独り言ちた。
「私ってそんなに女を感じさせないのかしら」
自分の身なりを冷静に振り返る。ワイシャツに黒のネクタイ、グリーンのスラックス。萌え色のロング・コート。
失敗したことを彼女は認めざる負えなかった。
「修一のバカヤロー」紀子は叫んだ。その声は冬の乾いた空気を震わせた。
かすかに木霊になって坂を下って行った。
パティシエ坂本綾子は、大晦日の夜、たっぷりと妄想にふけった。紀子と修一は、「美女と野獣」のように結ばれたのか?妄想も想像もたくましくしていた。
そして、元旦の朝。というよりもう昼だったが。
男装の麗人のごとく優雅に歩く紀子を店の内から見ていた。
彼女は、観察力に富んでいた。紀子の歩く姿で、大みそかに何があったのかを概ね推測できた。
「ああ、残念ね。紀子さん、「美女と野獣」のベルになるのはいつになるのかしら」
と、独り言につぶやくのだった。
3
「奈々さん。創文堂の入来麻美です。あけましておめでとうございます」
奈々の編集担当者の声は、通常の日だろうと年末だろうと正月だろうと変化はなかった。
女としての柔らかみも優しさもそして当然女としての弱さもなかった。
ただ「ビジネス」としての色彩やその濃淡を使い分けているに過ぎない。
十七世紀大英帝国の「エリザベス一世」が、「私は国と結婚した」と臣下および国民に宣言したように、入来麻美は、「私は仕事と結婚した」とでも宣言しそうなほど仕事一筋なのだった。
奈々は、スマホから見えないのに伝わる麻美の気迫を避けるように、
「正月早々、何か興奮することでもあったの」
奈々は、意識的にのんびりとした口調で言った。
「あら、ごめんなさい。去年から決定していた『美少女探偵佐久間綾」の制作発表会が、五日にあるので、スケジュールをお伝えするため電話したのです」
「ああ、映画ね。そういえばそんな話あったわね。ごめんなさい。わたし、締め切りに追われてて、大晦日なのに、新年の一分前まで、パソコンに向かってたのよ」
多分に皮肉を込めたつもりだが、仕事の鬼の麻美には通じなかった。
しかし、麻美にも同情心はあるのか、やや声のトーンを落として、
「それはご苦労様です。しかし、今や「美少女探偵佐久間綾」は日本の推理文壇の期待のシリーズですから」
麻美にしてみれば、機嫌を取ったつもりだろうが、暗に他のベテランの推理作家のシリーズを取るに足らぬものだと言っているのだ。
奈々にしてみれば、背筋が凍りそうな気分だった。
そんな奈々の気持ちなどお構いなしに、麻美の言葉は続く。
「なにしろ、今をときめくトップ・アイドル「相良愛」が主演なのですから、先生との対談はセンセーショナルな話題になるでしょう」
原作者と主演女優がおざなりに対談することが、センセーショナルでないことぐらい当然だ。
(あんたの頭の中の”皮算用”だけでしょうよ)
緑川奈々は、胸中で皮肉を飛ばしてスマホを握った。
「はいはいわかったわ。しっかり「創文堂」の”ご尊名”を話しますから」
当然、これも皮肉なのだ。電話の向こうで麻美の満足げな鼻息が漏れるのがわかった。
麻美は、慌てた口調で言った。
「そんな、私共の会社名は、遠慮がちにほのめかしていただければ十分でございます」
(大々的に言えってことね)奈々は理解した。
入来麻美にしてみれば、本が売れれば満足なのであって、映画の成功は、二の次なのである。
「とにかくちゃんとやるわ。私の小説の映画なんだから」
奈々は、汚物を投げ捨てるように、スマホを乱暴に切るのだった。
紀子にも修一にも緑川奈々にも時の流れは平等で、新しい年が始まった。




