第十二章 年末年始・別景 1
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奈々にとって、年末年始は、忙殺される時間だった。
連載を絞りに絞って、二本にしてもこの忙しさである。
しかし、彼女は愚痴らない。愚痴ったら負けだと彼女は考えていた。
奈々にとっての勝負の対象は、昔も今も父の保だった。
奈々にとって、父保はは決して良い父ではなかった。父親と遊んだ記憶など奈々にはない。
幼い奈々の記憶にある保の姿は、夜の十一時に帰宅し、夜更かしをしている彼女を叱りはしないが、怖い目で睨み頭を撫でてくれていた。
思春期になるころには、奈々は父とほとんど口を利かなくなっていた。
それが一因であることは確実で、彼女は自発的に行動し、考える習慣を身に着けていった。拗ねて非行に走るなどという愚行を彼女は露ほども思わなかった。
(お父さんのようにサラリーマンになりたくない。そうだ、弁護士になろう。弁護士になれば、毎日朝早く起きて夜遅くまで働かなくてもいいわ)
中学二年の春のことだった。
それからの彼女は、法律系の専門書を市立図書館から借りてきては、読み漁った。
自宅マンションから徒歩十分のところに図書館があるのが幸いだった。
法律の専門書を借りてきては読んでいた。中学生には難しい専門用語もパソコンを活用して理解していった。自然、将来の進歩が定まると、猛然と勉強に励み、高校は私立の進学校に易々と合格した。
父の保に授業料のかかる私立に入学したことを謝ると、保は初めて笑った。
「謝るのは俺だ。お前が俺に反発していることは知っている。だが、お前は拗ねて非行になど走ることはなかった。俺は褒めはしないがお前を認めているんだ。弁護士になりたいなら、これからも努力するんだぞ」
奈々は、生まれて初めて父保を尊敬した。
自宅から自転車で通える公立大学の法学部に合格し、授業料は奈々がアルバイトして払った。
父保に負担をかけたくない一心で勉強もし、司法試験にも卒業後合格した。
しかし、奈々は弁護士にならなかった。いや、方向転換したという方が正確だ。
奈々は、弁護士事務所で弁護士の実態を見てしまった。
社会正義に燃える人々をイメージしていたのに、サラリーマン的働き方をし、依頼者には横柄な態度を示す弁護士を見てしまった。
むろん、社会正義に燃える若手弁護士の姿も見はしたが、その若手が次第に利権に群がる弁護士へと変貌していく姿をも見たのだ。
彼女は失望したが、そうした実態を非難はしなかった。
『ペンは剣よりも強し』
言い古された言葉だが、奈々は自分の経験と法律の専門知識を駆使し、推理作家を目指した。
法律家から作家へ。華麗なる転身と第三者からは映るが、実情は、最もエモーショナルな要素だった。それは「恋」という名称だった…。
2
奈々が二十歳。法学部の二回生の頃。自宅に見慣れない男性が来た。
父が若手の社員を自宅に招くことが度々あり、奈々も挨拶程度はしていたが、奈々が初めて見るタイプの男性だった。礼儀正しく、朗らかな男性だったが、どこか「影」を帯びていたのだ。
他人を必要以上に寄せ付けない鎧というか盾のような「影」を奈々はその作家に見たのだった。
奈々は恋多き女性だった。ただし、自分からは近寄らなかった。近寄る男性を失恋の『奈落』に突き落としてはいたが。
奈々が初めて自ら身を寄せたいと思える男性だった。
男性の名前は『神崎修一』と名乗っていた。
奈々は、オーバーな表現が許されるなら、自分が生まれて初めて”女”であることを悟ったのである。
そして、奈々は無意識にあるいは意識的に神崎修一に迫っていった。
神崎修一も奈々に魅かれていた。
修一も他者と馴合うことはなかった。彼にとって人間関係は、生きるための”術”だった。
神崎修一も孤独を標榜しながらも、「性」(さが)には抗いえず、奈々と交際するようになり、やがて結婚した。
しかし、互いに主張するところが強い二人は、衝突を繰り返すようになる。
修一は、夫である前に男だった。奈々は女である前に妻だった。
その立ち位置のズレは、やがて修復不可能な溝を生み、二人は別れを選んだ。
3
別れてから十二年。神崎修一も中條奈々も作家になっていた。
ただし、神埼修一は忘れ去られ、中条奈々は、緑川奈々のペンネームで、ジュブナイル向けの少女探偵を主役にしたミステリーを発表した。
これが評判になり、しっかりとしたトリックを設定した本格ミステリーを発表した。
少女探偵はそのままにホラーの色彩を濃くした本格ミステリーは、ベストセラーになり、「緑川奈々」こと中條奈々は、二年連続で読者大賞を受賞し、来年にはシリーズ第一作が、若手トップ女優相良愛を主演に迎え映画化されることになっていた。
奈々の来年最初のスケジュールは、映画製作発表会に出席することになっていた。
奈々のパソコンのキーボードを叩くリズミカルな音が止んだ。
奈々は、細く華奢な右腕を額に持っていき、滲む汗を拭いて言った。
「ふー、やっとできたわ。年内最後の仕事が終わったわ。待てよ、もしかしたら年を越したかしら」
彼女はテーブルライトを置時計に向ける。
ライトに照らされたデジタル式置時計は、「11:59」だった。




